第2部 8章 師走 剣ヶ峰
妻はその降格申出書に記載された内容を眺めずっと黙っていた。とても辛くて切なそうだった。
「いいの・・・?」一言だけ聞いてきた。
俺は肯く、その様子が彼女をますます追い込んだようだった。
イシカワの指摘をうけて俺は降格申出書の記載を訂正した。懲戒処分をうけて心身に支障をきたしたこと、クリニックの受診と今後治療に専念したい旨を追記した。
病状を晒すことは組織でプラスにはならない。自らの処分で精神科に通う欠陥品、そんなレッテルを被せられ組織人として一切の存在理由を否定される。妻はそのことを知っていた。病気持ちの職員、欠陥品の元係長そんな中年男性に対する周囲の圧力、無言の差別。逆風がこの先の俺をどこまでも待っていた。そんなカミングアウトをわざわざするのだ。
妻はそっと息をついて降格申出書を丁寧に畳んで俺に返した。「・・・大丈夫?」俺は彼女に声をかけた。彼女はそんな俺の言葉も辛いようだった。
もう夜更けのなかの一幕だった。
この頃のイノウとのやり取りでは奴は課長の署名の準備はどうかとしかいわない。
俺は知っていた、いや自覚していた、ナベサワの署名が全ての鍵を握っていることを。
「課長、訂正してきました」ナベサワは俺からの降格申出書を神妙な顔つきで受け取る。俺は警戒心を与えないように笑顔。「イシカワさんから指摘されました」そうですか大変ですね、と奴。お前が裏で画策してるのは先刻承知だよこの野郎、俺はまだre笑顔。
ナベサワは降格申出書を恐る恐る開いて理由をゆっくりと読む。俺は伏目で奴の行動のすべてを観察する。全神経を一挙手一投足に集中した。奴の息遣いさえも見逃せない。
5%、妻が教えてくれた審査請求で認容裁決がでる確率は。実は違っている。
嫌、妻が間違えたんじゃない。彼女はあえて意訳していたのだ。俺のささやかな希望を損なわないように。俺が何とか折れないように。5%とは裁決されたなかで認容裁決のでる数字。行政の審査請求では請求権者が訴えても旗色が悪いとすぐ取り下げる慣例・・・だから、実際、取り下げ分を加えると可能性は、確率はもっともっと低い。それは妻は知っていた。
知っていて・・・彼女は嘘をついてくれたのだ。
ナベサワはほっと息をついた。俺はその息遣いを見逃さない。安堵の気配が幽かにみえた。俺はまたそっと目を伏せる。奴の視線を回避する。気配を察知されてはまずい。ナベサワは言った「・・・残念です」神妙な物言いだった・・・が語尾の抑揚が乱れている。俺は確信した。こいつは安堵している。
俺がハジのことでナベサワの欺瞞を降格申出書で暴露しないことに安堵しているのだ。そのことが意味するのは、・・・意味するのはこいつには審査請求の情報がおろされていないこと。
審査請求の反論状況の全容を知っていれば俺がその手を打つことが皆無なことはすぐわかるから。
「こんな結果は自分としては何とか回避したかったのですが・・・」ナベサワの嘘くさい言葉を浴びせられて俺は俯きながら必死に状況整理した。状況は俺の予想とたがわない。目をゆっくりとあげ表情に細心の注意を払いながら、至極残念そうな悲しい表情を奴にみせる。ナベサワは満足そうな気配だった。うんうんと肯いた。「では」俺はゆっくりと踵をかえした。
ナベサワがしばらくたつと電話する動きを感じた。あ、イシカワくんうんうん今だしてきました・・・ナベサワは快活にひそひそとやり取りを始める。俺は一歩づつそのやりとりの全容を自分の頭に刻ませようとゆっくりと時間をかけてナベサワから遠ざかった。
俺より10以上も離れている若い人事部の副係長であるイシカワは、仕事で処分くらってそのことで精神を病んだポンコツ品、そんなレッテルに対する姿勢を微塵も隠そうとしない。粗大ごみの降格係長お前を回収する職場なんてどこにあるんだ?
そんな見下した心理満載で説教を俺に垂れながらようやく俺の降格申出書を汚いものを拾うよう摘みあげる。総務部長にだすからと嫌々な一言「しばらく預かりますよ」俺とのやりとりも惜しいみたいでイシカワ様はさっさと切り上げた「また必要に応じて声・・・かけるかもしれません」フィニッシュ。
糞みたいな時間だった。
書き直した降格申出書の効果はテキメンだった。3週間も経つとナベサワが俺を呼び止めた。ナベサワは席を立とうともせず告げる「連絡が来ました」ナベサワは神妙な面持ちだった。面持ちだがその表情は提出時と同じ表情だった。同じ顔つきですよ課長・・・言ってやろうかと思った。
「人事部の結果があり・・・まことに残念ながら降格です」また語尾の抑揚が乱れている。俺は伏目がちのなか舌打ちする。この期に及んで喜んでやがる。「ただこれまでの功績は・・・」なんかナベサワは述べていた。
俺の降格決定の呼び出しは職場の連中は見ないふりして聞いていた。公開処刑だった。俺は平気なつもりでもそれでもこの状況が徐々に自分を侵食してくるのがわかった。周りの囁き声が耳に届く俺の後ろ姿から全身から何かが抜けていく。処分で精神を病んだ落伍者、そんなレッテルが俺の全身に纏いつけばもう俺をまともに相手にする必要はなくなる。聞こえよがしにコケにされ馬鹿にされ横目で舌打ちが繰り返され俺は隅に息をひそめて存在することになる。徐々に徐々にだ。・・・そんな姿に浸食されていく俺、小さく小さく萎縮して影すらなくなり息遣いですら否定される存在。
ナベサワが話を終える。俺は弱々しく声をだす「・・・課長いままでご指導ありがとうございました」うんうんナベサワは満足そうだった。「タカシ・・・さんもこれからしっかりね。仕方ないよ・・・病気なんだから」職場の沈黙は継続していた・・・ようで忍び笑いの気配がアチコチで起きる。
俺は卑屈な表情で全員に挨拶をして自席にとぼとぼとかえる。席につくと皆見せしめのショーが終わって満足し俺への関心を薄めていく。
俺は俯きがちに小さく小さく委縮して机にいる。俺への蔑みの関心もほぼ、なくなり皆やがて無関心になり、俺はその洞窟に放り込まれていく。・・・落ちていく・・・その俺の表情には鮮やかな清々しい笑みがみえるだろう・・・そうだ。
時は来た。
あ・・・イノウ先生ですか、はい・・・例の署名ですが準備がようやく整いました。え?一事不再理ですか、いやいや課長にそれ説明して書かせてもどうせそんなことを言われたからつい書きましたってアレは反撃しますから・・・はいはい、大丈夫です、署名を、はい一筆も含めてですね、課長に書かせる準備はようやく整いました。はい・・・あとは時期です。タイミングですね、また先生に連絡します。どうもお疲れ様です。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




