第2部 6章 神無月 Mission Impossible
白衣の中年は俺に背を向けたまま端末にむかうきりだった。
「さいきん・・・ふみんがはげしくて」カタカタいう音と独り言。
カナ文字変換を一生懸命繰り返す。「え・・・と、3月でしたっけ?」
「はい、3月に懲戒処分がでました」「さんがつに・・・あれおかしいな文字が変わんない・・・さんがつにちょうかいしょぶん、か」駅前にあるクリニックで予約をして30分以上待合で待たされ診療室に呼び出された。診察もどきの質疑応答にある、俺が口にする言葉のどれよりも変換できない端末の文字入力が気がかりらしい。
「あ、処方しますから薬には何かアレルギーありませんよね」ようやく俺に眼を向けた。
「じゃあ抗うつ剤90錠でいいですよね」医師は再びカタカタ。どうやら俺の診察は90錠と判定されたことでもう終わったらしい。俺は席を立ちあがり受付にむかう。
「どうだった先生なんだって?」妻は心配そうに訊ねてきた。
「・・・90錠」「え?・・・」妻は一瞬呆けた表情をする。
「3か月は飲みなさいって」
係長、懲戒処分と単語を打ち込みひたすら検索する。勤務後、近場の図書館で某判例サイト検索がミッションになった。それは思考実験の末のイノウの戦略だった。審査庁もグルだからこそ、逆手を考えると法律、規則、規程、裁判例がウイークポイントになる。定められていること、決めれれていることに絶対的な効力が生じる。イノウいわく「お約束事」は対外的な合理性に拘束される審査庁の判断においてなにものより尊重して逆らうことができない。類似事件の検索。裁判例の検索。法律の検索。逐条解説を検索。規則の検索。ただただ記号を洗い出しつづける。
なによりも効果が大きいのは裁判例。相手に絶大なダメージを与える。その思いだけが検索ボタンをクリックさせ続ける。
図書館かよいもはや数日、ある日その裁判例をヒットした。
イノウは眉をしかめて俺の探し当てた裁判例のコピーを熟読する。
「・・・いい感じっすね、ただ」ただと、イノウは言葉を切った。
「この裁判例は・・・リスキーです」
俺をみおろすようにコピーを机に放り天上を見上げた。どう使うかだな、とそっと呟いた。
LEDの照明がこうこうと奴の眼鏡を照らしているのを俺はみているだけだった。
イノウは正攻法でいこうと反論書にその裁判例をそのままのせて論旨を展開していた。反論書の提出ももう数回目になる、状況打開のみえないなか、今度の裁判例の効果に寄せる俺の期待とは裏腹にイノウには相当な焦りがみえた。焦燥感、イノウは何かを覚悟している沈黙を抱えているようだった。
人事部からなんどめかの答弁書が郵送された。
答弁書をみるなりイノウは開口一番こう告げた「向こうは気づいている可能性があります」
答弁書を何度も読み返し続け、そっと言葉を続ける「・・・やっぱり無理筋かな」イノウは力なく口元を歪めた。あるいは笑っているつもりなのかもしれない。
「・・・とても行政の物言いとは言えないものですが」イノウは俺の心配顔につられてようやく言葉を口にした。「ここの記述の意味するところです」
俺は答弁書の該当箇所を頭に捻じ込ませ暗唱した。「課長は・・・」イノウは俺に眼をむけた。
俺は続けた「課長は知らなかったと証言しており」俺は息が途切れるのを感じた、イノウはその様子をじっと凝視している。「管理職である課長が」俺は何度か息を吐いた。イノウは無感動に沈黙していた。
俺は意を決して続ける「管理職である課長が確認し署名した証言内容に基づいて・・・処分は決定している」俺はようやく読み終える。弱々しい笑みを浮かべてイノウを見上げる。
イノウは小さく舌打ちをして俺の資料の山からゴソゴソと探り出し、資料を探し当てるとしばらく眺め、鼻で笑うと、俺に無造作に資料をつきだした。
「ここ」イノウは該当箇所をとんとんと指さしてじっと俺を観察し続ける。
俺は薄ら笑いを浮かべ軽く読み流した。イノウはゆっくりと言葉を発する。・・・課長さん、職員H、ハジさんのこと何も知らなかったと証言してましたよ。
イノウの差し出した資料はハジと俺と課長の事情聴取が掲載されていた議事録の控え、録音機の文字おこし。「・・・え?」
俺はとっさに何を言われているかわからず再度聞き直した。心臓がバクバクしてくる。
イノウはにやりと笑った「係長が勝手にやったこと」
俺は資料をさっと凝視する。息を飲み込む。
イノウは面白そうに続けた「・・・重過失であると断じられています」再度、鼻で笑った。
空間の時間が重く刻まれた。イノウの沈黙。俺はようやく言葉にした。
「ち、ちがう・・・これってだって、管理職がそう言ったから決めましたって」イノウは歯をみせる。笑い?
「・・・審査庁はグルです、そうは受け取らない」俺は表情をこわばらせる。「公平性が求められる行政の物言いとはいえませんが」イノウは鼻を鳴らす「課長さんがそう言ってるからそう判断していると、ここまで断言していることを崩すのは容易じゃない」
ここでイノウは言葉を切り、ゆっくりと俺をみつめる。
「今回の事件で一番痛いのは課長に報告していないこと」
「え?」「報告義務を果たしていない・・・その過失に相手が気づいたら・・・もう勝ち筋はない」
イノウはじっと俺をみすえる。「ゲームオーバー」
俺は小刻みに首を振る「ち、ちがいます、せ先生」俺はハジのマニュアルの残骸に手を伸ばし必死に探しだす。どこだ?あれだよあれあれ・・・。
追い詰められ狼狽する俺をイノウはただみつめる。・・・あ、あった。心底安堵した俺はそのマニュアルを抱きかかえるように差し出した。
イノウは眉をひそめた「何す・・・それ?」大きく×が描かれたマニュアル。
それはナベサワが汚したあのハジのマニュアルの残骸だった。
係長、課長が呼んでます。俺はカノウから頼まれた封入封緘作業の手をとめる。カノウに眼をやると、カノウは大丈夫ですと目で同意した。
「今、いく」俺は舌打ちをするように返事した。杉田が俺の動きを無感動に目で追った。
ナベサワは卑屈な笑顔で俺を迎えた「どう?」
はい、俺は嫌悪感をださないよう表情を崩さず生返事をする。
「あれ、仕事しないって前の課長もいってんだよ」あれ・・・とはスギタだった。副係長で塩漬けされたボケ職員、カスばっかり俺の係にまわしやがって。
「まぁ・・・ボチボチやる気はみえますけどね」ふーん、とナベサワはどうでもいい感じの反応だった。そうだよお前の本題は別だよ、俺は知っているよ。
ナベサワはそっと言ってくる「係長・・・考えてくれた?」はぁ降格の件ですよね。そうそれそれナベサワは笑顔を軽くみせる。快活に言葉を続ける、部長も心配しててさ。「もし係長が嫌なら担当係長とか主査のポストも考えてもいいって」ナベサワは俺の反応を探りにくる。
表情を観察されている不快感のなか、俺は怒りを押しとどめて小さく答える「はぁ少し頭を整理してみます」
ナベサワは嬉しそうだった。そうだよ、深刻になりすぎだよ。俺の肩を軽く叩く。
イノウの眼がキョどっている。あちこちに動きながら、まいったな本当に・・・今更かとかなんとか呟いている。俺はナベサワが自慢のボールペンで書いた×の顛末をイノウに聞かせていた。
「報告してたってことっすね」イノウは目をつぶり、頭で必死に再処理をしている。
「大きいんですか?」
俺の問いかけにイノウは目をつぶったまま答える「大きいですよ、当然。すべて課長のコントロール下で行われていたのであれば・・・仮にですけど」
イノウはしきりにぶつぶつ呟きながら片手間感満載に続ける「全然話が違ってくる」俺はかすかな手応えを感じてバツの書かれたハジのマニュアルの残骸をあらためて見直した。
大きく息をついてイノウは眼をあけた「弱いな」え?俺は聞き返した。
「・・・やっぱり物証として弱いです」
イノウは再度資料をみて軽く肯いた。「これどうみてもただのバツですもん」イノウは鼻で無理に笑った。「軽く否定される・・・いや、してくる」
ナベサワは俺の表情の変化を見逃さないとしながら変な笑いをする。
「だって係長がそんなに責任を感じてたら僕なんてどうなっちゃうんだよ」ナベサワはウインクする。俺のなかで怒りと憎悪が爆発する。その内部の爆発をどうにかして押さえながら自席に引き返す。背後で部長に連絡をいれるナベサワの笑い声が聞こえる。
「し、署名?・・・」イノウは真顔で俺にそう言った。「そうです署名、できれば一筆もほしい」俺は絶望感が広がる気配を感じていた。「課長さんに頼めますか」
90分。
長引いた幕切れは唐突だった。署名と一筆を×印のマニュアルに刻み込ませる。
そのミッションは果てしなく不可能に感じる代物だったのだ。
「なるはや、で」イノウは言葉を切った。俺の混乱なんてアウトオブ眼中そのもの、だった。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




