第2部 5章 長月 光陰
あ、答弁きましたか。イノウは軽いステップでそう言った。ごく当たり前のことのようだった。
俺の審査請求書と比較して、はるかに分量のある分厚いそいつは、証拠資料が30近く無遠慮についていた。その圧倒的な量、記号の大波が俺に押し寄せているようで、組織として捻りつぶしてやろうとする意欲がひしひしと感じられてきた。俺はイノウにすぐさま相談の連絡をいれて資料を丸ごと差し出した。
イノウは答弁書をゆっくり読み始め、時折、俺に視線を流しては読み進めた。たまに口元を歪めたりする微かな笑いをいれながら一言も発しないで読み終えると俺をみる。
「さて、と」証拠に手を伸ばして数点をさっと眼を通しながら。
「どうしますか?」俺をチラッとみる。
「何がどう書かれているんですか」俺は恐る恐る尋ねる。
イノウはにやりと笑う。
「ま・・・状況は予想どおり極めて不利です」イノウのその評価にショックを隠せない俺を観察しながら奴はこともなげに言う「大方、わかってはいましたが」・・・・資料は読んだのですか?イノウは俺に尋ねた。はい・・・俺は力なく答えた。イノウは鼻で少し笑う。「せ、先生、人事部は私の主張を完全否定している・・・わけですよね」はい。イノウは単刀直入に即答する。
「私はおかしいことを訴えたのでしょうか」イノウは目を細め少し考える。
「おかしいとか、おかしくないとか、恐らくはそれはあまり意味がないと思います」イノウの回答が俺を追い詰める「タカシさん・・・認めてるんですよね」俺は顔を歪める。
イノウは俺の表情をゆっくりと観察する「人事部はそれをもって断定していますよ」イノウは微かに鼻で笑う。「ま、事実はどうであれですね」俺はイノウに尋ねる。そんなことって通用するものですか?
「審査庁なんてそもそもグルですよ、自治体がここまで断定していることを否定することは期待できないです」イノウは資料を差し出す。ここに・・・ほら、懲戒分限委員会?よくわからないけどそこで決定されています。俺は頭の中が混濁する自分を必死に制御する「つ、つまりは・・・」
イノウは俺をじっくりと観察し続ける。「つまりは私が隠ぺいしていることを、じ、自分で認めている・・・」俺は息が途絶えがちになる。
大丈夫ですかイノウはそう言った。意識が白濁していきながら眩暈がおきてくる。イノウは何か言いかけて止める・・・そんな風にみえた。
あ、先生すいません。先日は急に取り乱してしまいまして、は、はい体調はもう大丈夫です。あ、移動中?すいません先生、先日のあの答弁書の話の続きをもう一度、整理したくて・・・はい、整理です事実確認を、え・・・はい・・・えすいません先生、ちょっと聞き取れないのですが、電波が・・・え、もうやめた方がよい?どどういう意味ですか先生あ、すいません嫌ちょっと急なことで混乱してしまって、やめるって審査請求をですか・・・は、はい、いやそれは、あの・・・すいません先生とりあえず時間をおいて、はい、か考えてみます。ででも先生、資料には・・・あ、あれ電話が切れている・・・あれ
イノウの30分を獲得するのに時間がかかった。奴はなかなか都合をあわせようとせず、反論の期限がいたずらに近づいてきていた。イノウと次に約束をこぎつけたのは提出期限まで2週間もない中での状況だった。
イノウはいつものようにポーカーフェースで会議室に悠然とあらわれた。俺が準備した答弁書の束をみると、ああこの件かと呟いた。答弁書を何枚かめくって今度は俺をすぐに直視した「で、どうなんです?」は、はい・・・俺は強張る自分を感じた。
先生、電話でご説明したように・・・イノウは鼻で少し笑う「謝罪はしているけど法的責任を認めているわけじゃない・・・よく日本企業が使うアレですね」俺はぎこちなく笑った。
イノウは小さく吹き出す。「それでいく感じですか?」はい謝罪はしましたけど・・・イノウはまぁどうでもいいやって表情をした「次、これどうします?パワハラって指摘されてますよ」俺は首を必死に振る「い、いえ・・・そそんな事実は」イノウは指摘する「証明できます?」俺はイノウをみる「証明?」
イノウはにやりと笑う「物ですよブツ、よく百聞は一見にしかずっていいますけど」イノウは俺が持参した書類をちらりとみる。
「ごたくを色々言っても、こういう訴訟のゲームにおいては価値がない」イノウは顎でしゃくる「それは?」俺は視線を資料にむけ、ああそれはハジのマニュアルの残骸ですよと力なく話す。
イノウはそれらを手に取ってじっくり吟味し始める。そうして鼻で軽く笑う「これでいきましょうよ」複数をぴらりとみながらそう話す。「この資料で内容は適宜、確認した」・・・適宜?俺の呟きにイノウはにやりとする。「そう適宜、いつもじゃない」
せ先生・・・はい?、あの諭旨退職の件ですが、あああれね・・・これですこれ、え?・・・ほらハジさん職員Hでしたっけ?最終的には停職6か月、免職処分じゃないっすよ え?・・・なんか退職願をださせられたってやつですよね・・・は、はい強制・・・強制されるのはいいんですか、・・・・ま、仕方ないんじゃないですか、え?、そこ争点じゃないですし・・・争点・・・、はい、ぶっちゃけ勝ち負け関係ないっすよ、こだわっても主張がそっちにながれてわけわからなくなるだけ
は、はい・・・主張ですか、結局・・・言ったもん勝ちですし退職願を最終的にだしていてそれがただ受領された・・・ゲームはそれでおしまい
俺の反論書を推敲しながらイノウはこう呟いた、このやりとりに勝ち目があるとしたら相手がまったくのズブの素人であること、法的な整理が全然できていない・・・そこをいかに突けるかどうか。ただ・・・・。「ただ?」イノウはじっくりと言葉を選んだ。「ただ、それでも7、3で負けている。相手が重要な点に気づいていないだけ」イノウは俺を見据える「気づかれたらゲームオーバー」反論書はひとまず完成する。
人事部の答弁に対抗するべく膨大な分量をそなえた俺の反論書には、負けないための言葉が全編凝らしてあるようだ。闘いを始めたら負けるわけにはいかない。ただその反論書にしまい込まれたような俺の気持ち、思いたちは、光のとどかないどこか奥の奥へと追いやられ、ちいさく小さく縮こまり、拘束され始めている、そんな印象を抱いていた。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




