第2部 1章 弥生 曙光
あの時、俺は暗がりの中をひとり歩んでいた。ふと振り返った時、暗がりの中、薄明りの差していたもの。それはなんてことなく素通りしいたけど、決して忘れてはならない瞬間を刻んでいた、ぼんやりした淡い明かり。きっと俺はそれを見て何かを感じたから歩みを強めたんだ。いや強めたんだと信じたい。
俺は重苦しいものを押し付けられるような気分で、タカスギから役割分担の提案がかかれた資料を受け取った。笑顔が凍りついているのが自分でもわかる。タカスギはやたらに上機嫌だった。
「タカスギさんはカムラさんに業務をぜんぶ押し付けて、自分は楽な役割につこうとしている」そんな陰口が蔓延しはじめた頃だった。わたされた資料は案の定、ハジの役割を新人のカムラにあてがっているものだった。タカスギはゆっくり資料を吟味する俺に得意満面で言い放つ。「係長、これです」タカスギの声に俺は目をあげる「スギタ副係長にもみてもらっています」タカスギの向こうでスギタが小刻みに頷いている。賛成の意味わかってんかどうか不明な適当な頷きだった。奴らしい。
ハジの抜けた業務の穴を誰が埋めるか。役割分担の押し付け合いはしれつな水面下の駆け引きを巻き起こしていた。そんななか、タカスギは課題解決に自分なりの試案がありますと俺に提案してきた。
「カムラさんなら若いから大丈夫です」ハジの担うポジションは要は敬遠されがちな損で面倒な役割になる。「係長と副係長の案としてこれでいくのがいいです」トップダウンでダウト。数多くの諍いをすべて係長判断に押し付ける気か。杉田は再度頷いていた「タカスギさんが言うなら間違いないですよ」腐ったごみ溜めなにかを拾い上げてもカスばかり俺におしつけられる。タカスギと杉田からくる同調圧力にうんざりして「ちょっと考えていいか」とやっと返した。
俺の反応に微妙な表情をうかべるタカスギから背をむける。杉田はわかりましたと目顔でうなずいた。
普通に考えれば、前任でその損な業務を経験しているベテランのマエフジが適任になる。ただマエフジは産休を予定している事情は誰もが知っている。マエフジに相談をもちかけると「産休にはいる立場の私の意見でいいんでしょうか」ともってまわった前向上をかましながらも、業務ローテーション的にタカスギがやるべきだと断じた。自分が現業務のとりまとめをしないと今後、係業務はたちゆかないとタカスギの説明を繰り返すと、マエフジはうんざりしたように「あんな業務、誰でもできる。新人にでもやらせておけばいい」と吐き捨てた。業務フォローをしていたマエフジにとって、タカスギの試案そのものは面白くなかったのだ。いつものような軋みが当たり前のようにみえていた。この二人反りがあわないんだよな。
タカスギが試案を係長に示して決断させようとしていることは、もうその時点で誰でも知っていた。試案内容の詳細も含めタカスギと一緒に組んでいる桐原がリサーチ情報を係員全体に吹聴している段取りの良さ。さすがです桐原さん。そのことでタカスギプランは半ば既成事実になっていた。そう何もかも。要は最後に知らされ不用意な判断をくだすかどうかの瀬戸際に俺はいたのだ。踊らされれば間抜け、踊らなければただつるし上げ。やれやれ。
想定していたマエフジの冷たい反応が俺の判断をますます暗くする。・・・そうかカムラに話を聞いておこう。新人のカムラは外見線の細さが目立つ小柄な女性ながら芯の強い印象をもっていた。何かヒントがあるかもしれない。
執務室の隅で淡々と作業しているカムラに少し話せないかと声をかける。カムラは私ですか?と尋ねてくる。俺の様子にしばらく考えて頷くと、業務がひと段落するまで時間がほしいとそう呟いた。
カムラはゆっくりと言葉を選ぶように俺に思いを話した「タカスギさんが言い出したら止められないって皆言っています」その言葉の反応を見極めて続ける「私がやることになるんだろうって思っています」笑顔にも見えたその表情に決然としたカムラの言い切りが俺の何かを切り込んでいた。
俺はタカスギを止められない。カムラも止められない。決断も止められない。時間は進んでいく。何かがどこかに追いやられていく。
それは理不尽じゃない。ただそうなっているだけの当たり前の景色。
俺の相談内容を事前に見切ったうえでのカムラの言葉だった。十分すぎるほどそれは伝わった「できる自信あるの?」苦し紛れに尋ねるとカムラは不意に弱々しく瞳を曇らせた。・・・そうだ1年目の若い彼女にとって未知の困難業務なんて荷が重いに決まっている。
「タカスギさんには話してみるよ、やっぱり業務負担は分担しないと」カムラはそっと目を上げた。俺の言葉の意味の重みを測っているような印象だった。「今度のミーティングまでに調整してみる」カムラがじっと俺をみすえる澄んだ瞳から少し眼を逸らして伏せるしかできない。
そうだ決まっていることでも何か変化をあたえることはできるはずだ。できなければおかしかった。
杉田さんを同席させてください。タカスギは提案内容をもう一度話したいと告げると強張ってそう苦々しく依頼してくる。業務後、狭苦しいパーティーションスペースでうんざりした様子を隠そうとしない杉田の表情と険しいタカスギに囲まれて俺は自分の考えを告げる。自分としては色んな係員の意見を参考にしておきたい。業務バランスを考えればタカスギさんがハジさんの後任として相応しいと判断している。カムラさんは若くて実力もあるけど経験を積むために他の業務を任せる方が適していると考えている。
杉田は明らかにウンザリしていた。その表情から俺がタカスギに反抗することは意味がないとも見切っているのだ。
ただ無言でタカスギの反応を待っている。あくまで傍観者に徹する意思だろう。タカスギは顔を伏せた。
「なんで、誰がそんなことを言ったんですか」不快感を露わにして言葉を絞り出してくる。誰かが言ったとかではなく、タカスギさんの提案をみて自分でそう考えた。俺は言いきった。「違う」タカスギは声を張り上げた。顔が紅潮していた。「係長は初めから私だと決めつけているんだ」敵意むきだしの眼つきで俺を睨み据えた。「私の提案なんて関係ないんだ」
「違うその提案は考えてみた。でもタカスギさんがやるのが適していると考えている」タカスギは小さく首を振った。「私が係長に提案したことは皆知っていた、何で広めるんですか。係長と副係長で決めましたで、いいじゃないですか」俺も首を振った。
「今後の業務分担には色んな意見を聞いて判断する必要がある、業務の内容を知っている担当者の意見がないと公平に判断できない」タカスギは怒りで震えだしている「じゃぁ皆の意見を聞きましょうよ。係長が一部の意見しか聞いていないのは私は知っている」
そうだった、マエフジやカムラに意見を聞いて回ったことも、何を言ったのかもタカスギには当たり前のように筒抜けなのだ。「皆の意見を聞いてみてください」皆の意見、タカスギがいると思うように発言しづらいミーティングの場で決着したい。俺は杉田に無駄と分かりながらも目を向けた「そうするのがいいですよタカスギさんがここまで言っているので」結論はミーティングの場になった。タカスギ案をまず提案し、皆の意見を確認していく。タカスギは憤然としてパーティーションスペースを後にした。
杉田はどうでもいいことのようにさっさと立ち去った。決断はしなかったが、ミーティングに持ち越して決める。それがその時に俺ができたことだった。俺はひとりその場で、騒ぎがますます混迷していくような重苦しい予感とともにどこか妙な達成感を味わっていた。
翌日、カムラにはタカスギに話してみたが上手く調整できなかったことミーティングに結論を持ち越したことを伝えた。カムラは息を呑んだような表情をした。
そのミーティングは欠席者が多かった。マエフジはもともとの予定で出席できず、桐原は異動が決まっている事情のなか不参加を決めていた。どうやらカムラは参加するみたいだった。ミーティングにむけて何度かタカスギと言葉を交わしているのを遠くで見かけた。吊し上げになる。そんな顛末を杉田はわかっているようで、俺のことをじっと見ていた。その眼差しは無駄なことを必死にする者への侮蔑や哀れみがどこかに読み取れた。
ミーティングの会議室は異様な空気だった。どこか沈痛な空気があるのはハジのことだけじゃない。タカスギの何とも言えない空気がそうさせていた。俺は参加者からの視線のなか口火を切った。初めはハジのことを説明した。本人の事情で退職届がだされたこと、そうして今後、特に来年どのような役割でその業務を埋めるかが課題になっていること。そこで役割分担の素案があるのでそこについて皆の意見を聞きたい。「ちょっといいですか」カムラが手を挙げた。
「ここにいる皆は役割分担のことは承知しています」カムラは問い詰めるような口調だった。「この話をする前に私は知りたいです」空気が少し動いていた。恐らくカムラはそのことを俺に直接聞くことをもう皆に根回ししているのだろう。
「ハジさんの業務を私がするという案については、係長は調整してくれると約束してくれました。タカスギさんと係長が夜間話し合ったのも聞いています」カムラは少し息を呑んだ「なのにどうして素案では私がその業務のままなんですか。私はその経緯を知りたいと思います」毅然とカムラは口にした。
動いていた空気は収斂したように俺に集中してくる。そうだ俺はきちんと俺の言葉で説明しなければならない。「カムラさんに調整すると話しましたが色々と考えてこの案を提案することにしました」カムラは俺の表情を正面からみすえていた。何かメッセージを探ろうとしているのが伝わってきた。
「色んなことを聞いたうえで係内のバランスを考えました。・・・係長としての私の判断です」場の空気が揺れ動き俺のもとに落ちてきた。
皆、俺の言葉の印象に何かを受け取ったみたいだった「カムラさんのことも考えました、またその他の事情も考慮した上での判断です」俺が言いきった言葉をカムラはじっと考え込んでいた。タカスギのいる方から妙な安堵感が伝わってきた。「ただカムラさんの業務負担は理解しています。何とかして負担軽減できるよう皆の協力をこの場で話し合いたいと思います」
数秒が過ぎたと思う。係員のだれかが口火を切った「カムラさんの業務が繁忙な時には声かけてくれれば助けるよ」カムラはその方をみた。その言葉の先にあったのは淡い光。他の誰かも続いた「春先の忙しい時が過ぎれば自分も手助けできると思う」タカスギは声のする方に反応を示している「そうだよカムラちゃんだけで背負うことないよ」カムラの強張った背中が緩んでいく気配が伝わった。「皆でちょっとづつフォローすれば大丈夫じゃない?」タカスギも少し遅れてためらいながら賛同する「カムラさん私も手伝うからね」それは異様な空気圧だった。殺伐とした冷たい空気が何事か氷解して融和していた。カムラはその中心にいて笑顔をみせて皆に取り込まれている。
そこには融和があった。淡く光る何かが輝いていた。
そうしてミーティングは終わった。俺は信じられない気分で皆の消えた、会議室の扉を施錠した。遠くで係員同士がまとまって小さくなっていた。その姿が妙な角度で俺の心に残っていた。
懲戒処分がくだされる3日前のことだった。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




