第2部 序章
(序章)
ドシンと重たい記号めいた言葉が俺にのしかかった 重いと感じるのも億劫になったら終わりになる 終わりはごめんだ 俺は歯を食いしばろうとしているが
歯ぐきがぐらぐらでうまく噛みあわない 唾が足りないのか変に乾いていて土の味すらしている
乾きに意識をむけていると 重みがどんどん重く重くなって俺はどんどんと沈殿していく
足元に何もないのか ぬかるんでいて臭いをかぐととても嫌な味が口のなかへ広がってくる
閉じ込められ感がやけに途方もなくて、あげく馬鹿馬鹿しくなってきてふいに笑いがこみ上げてきた
何でこんな苦しんでいるのか いつからここにはまっているのか ひきつったように笑っていると
息もできなくなってくる 笑いそのものがかすれていく とぎれとぎれのなか
・・・声がした、からだを揺り動かされる「大丈夫?」
妻が真剣な面持ちでのぞき込んでいた「泣いてたよ」
あたりを見渡すとまだ外はうす暗い「寝ながら声出して泣いてたよ」
妻は俺の髪をそっと優しくなでつけ しばらく俺をみつめるとやがてまた眠りにつく
俺は眼を閉じるのが怖くなって小刻みに呼吸をしながら 時間を過ごした
また痛い朝を迎えるのだ
どこかの大学の教授だった。やや緊張した面持ちで、それでも明朗に画面にむかった喋りはじめる。
LiDという単語、聞き取り困難症と言われる症状、それが耳に届いてきた。
-聴覚情報処理障害(LiD/APD)とは、純音聴力検査で正常であるにも関わらず、うるさい所や、複数人数の会話、電話、接客、授業などの場面で聞き取りの困難を示す状態を指す言葉です。-
「ハジだ」俺は思わずつぶやいた。
-その原因は主として、中枢(脳)の聴覚情報の処理、認知、注意の問題によるとされ、日本において、診断基準などは未だ定まっておりません。-
遠い薄暗がりのなか記憶が徐々に輪郭をおびてきた。
「ハジがいつか話していたあの症状だ」
-小児から成人まで多くの当事者がおられ、その多くは耳鼻咽喉科で聴力検査を受けても正常範囲で大丈夫と言われ、困難を感じているにも関わらず、適切な診断、支援に繋げることができない状態です。-
教授はこれからの研究の必要性を画面にむかって訴えていた。
イノウは資料をしばらく眺め鼻で笑った 無造作に俺に資料を差し出した。
俺はイノウの行動の意図がうまく理解できなかった。さしだされた資料は証拠資料の事情聴取議事録だった。「ここ」イノウは該当箇所をとんとんと指さしながら、じっと俺を観察し続ける。俺は軽く読み直した。イノウはゆっくりと言葉にした。・・・課長さん、職員H、ハジさんのこと何も知らなかったと言ってましたよ。ハジと俺と課長の聴取が掲載されていた議事録の控え。
「え?」俺はとっさに何を言われているかわからず再度聞き直した。イノウはにやりと笑った「係長が勝手にやったこと」俺は息をのんだ。
イノウは面白そうに続けた「・・・重過失であると断じられています」再度、鼻で笑った。
タカスギからその試案がわたされる。ハジの抜けた業務の穴を誰が埋めるか。係内の役割分担はしれつな水面下の駆け引きを巻き起こす。
「タカスギさんはカムラさんに業務をぜんぶ押し付けて、自分は楽な役割につこうとしている」そんな陰口めいた指摘の声が複数の係員に出始めた頃のことだった。
試案には案の定、ハジの複雑な業務分担を新人のカムラにあからさまにあてがっているものだった。「カムラさんなら若いから大丈夫です」タカスギは断定する。
タカスギの試案に対して判断をどうくだすか、俺にむかってくる圧力への自覚はあった。
カムラに話をきこう。カムラは私ですか?と無表情に尋ねてきた。新人のカムラは俺が何を悩んでいるかすでに承知している。カムラはゆっくりと言葉を選ぶように話した
「タカスギさんが言い出したら止められないって皆言っています」その言葉の効果を見極めてそっと続ける
「私がやることになるんだろうって思っています」その決然としたカムラの言い切りが俺を切り刻んでくる。「・・・タカスギさんに話すよ、ぎょ、業務負担は分担だから」
カムラはじっと目を上げた。俺の言葉の意味を整理している印象だ。「次のミーティングまでに調整してみる」カムラのみすえる澄んだ瞳から少し眼を逸らして伏せるしかできない。
俺の失った言葉、刻み込まれた思い 風化している痛み・・・知りたかった言葉 あのとき届かなかった言葉を、過去に出会った誰かの言葉と重ね、
今、それを「物語」り綴ることで何かを変えてみたい。何かが変わってほしい。
あの時、誰の言葉も誰にも届いていなかった。今ここで語りなおす。
届かなかった言葉たちに、息吹を与えるために。
本作品はフィクションです。登場する人物、組織、職業、制度及び出来事は物語上の設定として構成したものであり、実在するいかなる個人、団体、職種、組織とも関係ありません。本作品は特定の職業や組織を描写・評価することを目的とするものではありません。




