Devil's fire
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鬼月佐治の脚が勝手に動く。敵対する存在を認識した脳が指令を下すよりも先に反射的に。
視界の端に短い白髪を携えた誰かの影が映り──鬼月の鳩尾に鋭い痛みが走った。身体が勝手に前方へ崩れる。ほぼ同時に襟首と左腕を力強く掴む血管が浮き出た太い腕によって身体が宙に浮く。
吸血鬼の付き人は自分の重心がズラされ操られる感覚で理解した──投げられている!
短く切られた黒い髪を携えた頭が今しがた入ってきた扉の枠を擦る。このままだと頭から落ち、首を折られる。そう確信を持てる速度と角度。
菊の刺繍をあしらったジャケットが上下逆さまになって視界に飛び込む──その瞬間、鬼月の両脚が相手の首を挟み込む。
考えての行動ではない。熱した薬缶を触った手が跳ね戻るような反射行動。
その行動を受けて、順序を逆に鬼月の脳は即座に判断を下す。
頭より先に掴まれていない方の手を地面につけ──ガシリと掴まれ動かせない左腕の骨が、耐え切れず関節を外し皮と肉の中で弾けていく痛みに歯を食いしばりながらも──前転の要領で身体を、相手ごと一回転。
車輪の如く二人は通路を転がる。二人の対照的な服装が、ほぼ黒と言って差し支えない藍色と装飾に凝ったトラックの如く派手な色が円運動により混ざり合い──崖から踏み場を無理矢理生やしたといった風体の階段。それの少し手前で、老人が円運動から弾き出された。いや、自ら抜け出した。
白髪の老人とは思えない敏捷さを発揮した派手なジャケットの男は、勢いそのまま僅かな凹凸の上に蹄を置く山羊の様に、梯子じみた出口への階段手足を置いて貼り付く。
一人、回転の中に取り残された若人は、芯を失くしてあらぬ方向へ暴れ回る左腕を押さえつけながら地面に思い切り両の踵を突き刺して、踏みとどまる。
放棄された坑道にも似た地下通路。目を刺す人工的な明かりが点けられたその場所で、やっと両者はお互いの顔をはっきりと見据えた。
神経質な庭師が刈った芝生の様に短く切り揃えた白髪の下には、眼を、額を、頬を横断する古傷。顔面の皮膚を突っ張らせるその傷の所為で奇妙に上がった口角。吊り上がった暗い黒い眼。下品さえ感じさせる輝きを見せる菊の刺繡があしらわれたジャケット。対照的に地味なベージュのチノパンツ──そのベルトに挟み込まれた、白木の鞘に収まる“長い匕首”は男の身分をこれでもかと証明していた。
鬼月は確信を持った。今相対しているものが牛緒組の長、牛緒源一郎であると。
そして、あまりに明度が低くほぼ黒と言って差し支えない群青色のゆったりしたポケットだらけのジャンパーに、登山でもするのかと尋ねたくなるような丈の長さと靴底の分厚さを見せるブーツを身に纏った若い男を、牛緒源一郎はじっと見た。
正確には、自分が粉々にした筈の左腕を──奇妙な蠕動を交えて腫れが引いていく左腕を、何の感情も、先程鬼月が声色から感じ取った怒りさえ感じさせない瞳で見据えていた。
感情の揺らぎが見えない牛緒源一郎に対し鬼月佐治は、それを敵に感じ取らせまいと押さえつけられる程度ではあるが、心が揺らいでいた。
突然の襲撃。その相手がほぼ確実に遥か格上だろうという事態。
自らの恩人を逃がそうにも逃げ場がない現状。
そして、もしも標的が接近することがあれば渡された電子機器に来るはずだった連絡が無かったという事実。
破片が寄り集まり再度形成された左腕骨とは対照的に、鬼月の心は様々な思考に引っ張られ千々に分かれていた──だが、自らの恩人の所在。それに辿り着いた心の破片が吸血鬼の従者を我に返らせる。
“セラさんは?今どうなっている?”漸く纏まった思考が若人を振り返らせる。
首を一瞬向けた先の扉は、ビタリと隙間なく閉まり、書かれた魔術陣が部屋の主人に施錠が完了していることを知らせるように淡く光る。つまり厚い鉄の板が部屋の中を隠している。
扉が閉まっているのは、二人がもんどりうって通路に躍り出た際に蹴り飛ばした所為なのだが、鬼月にその自覚は無かった。ただ、セラ・テンキーンの身を守る壁がそこに在ることに少しばかりの安堵を覚えていた──
その瞬間。鬼月の視界の端にあった影が、跳ねた。
攻撃を警戒して、身体がまたもや反射的に構える。
だが、何も来ない。
「……?」
それどころか、いない。視界の端に捉えていた老人の姿が、影も形もない。当然ながら背後にもいない。
それならば、跳ねあがって地下を出たとしか考えられない。そう結論付けるより他はなかった。
ただ、そうする動機に納得させられるものがなかった──いや、一つあった。
「閉じ込める気か!」
鬼月がその結論に辿り着けたのは、自分達も牛緒源一郎という怪物に対してそうすべきと思考を巡らせ共に策を練っていたからだろう。
結論から述べると、それは間違いとは言い難かった。
だが、吸血鬼の従者は一つ、行動を誤った。
「サ、サジ君。君は、無事か……?」
内側から押され、開いた厚い鉄扉の隙間から漏れる怯えた声。
「セラさん!」
即座に駆けた。通路は短く狭く距離はほんの僅か。直ぐに辿り着く。
思考は、出口に重しを置かれ閉じ込められるのを危惧し“一か八か、セラさんを連れて出口から飛び出して逃げる”と恩人を救い出すことに集中していた。
──自分の背中に押し寄せる、異様な熱風を感じるまでは。
背中越しに伝わる熱が強くなる度、反比例して鬼月の肝が冷える。
(……何で、気付かなかった!あいつは“普通”じゃないと分かっていた筈なのに!──此処は“閉所”なのに!)
牛緒源一郎はかつての経験上理解していた。この攻撃はこの状況で非常に効果的であると。
骨が割れても、皮膚が裂けても、たちどころに治癒する怪物であっても、いや、そんな相手だからこそ“この手”は非常に効果的だと。
懸命に駆ける若人の目の前の扉が大きく開く。
「サジ君!!早く入って──」
眼を見開き血相を変えた吸血鬼が、必死の形相で手を伸ばす。部屋に飛び込めと喉が枯れんばかりに叫ぶ。
だが、駆ける若人はもう間に合わないことを悟っていた。鬼月は自分が助かる為に走ってはいなかった。
「えっ!?サジく──」
全力疾走の勢いそのまま、扉へ体当たりをかまし、セラ・テンキーンを鉄扉ごと部屋に押し込む。
再び扉は一分の隙間もなく閉じられて、魔術陣が役目を果たし淡く輝く──
──ほぼ同時に、通路を舐め尽くす魔術の炎が、全てを飲み込んだ。




