第2話 消えた香料見本瓶
夜の王宮香房は、昼の華やかさが嘘みたいに静かだった。
私は見本瓶箱の内張りを指先でなぞる。白百合の場所だけ、薄く埃が切れていた。今日盗まれたのではない。もっと前から、計画的に抜かれていたのだ。
記録棚から春薫祭用の出納帳を引き抜く。北辺蒸留所から届いた白百合精油は三瓶。帳簿上はすべて正規封蝋つき。だが今夜の香卓に並んでいた瓶の尾香は、王都南区で密かに流れる安溶媒のものだった。
「まだ帰っていなかったのか」
振り返ると、セドリックが戸口にいた。
「見本瓶が消えています」
「探し物なら明日にしろ。春薫祭の直前だ。これ以上、ミレーユに嫌な思いをさせるな」
「嫌な思いをしているのは、正規の香りが消えている王宮です」
私が帳簿を差し出しても、セドリックは読もうとしなかった。
「君はいつもそうだ。人の顔色より数字と匂いを優先する」
「それが仕事です」
その瞬間、扉が大きく開いた。
父ハルトムート、継母オデット、香房長、そしてミレーユまで揃って立っていた。妙に集まるのが早い。誰かが、私がここに残ると知って呼んだのだろう。
「リディア」
父は疲れた声を出した。
「お前が主香の選定に不満を持っていることはわかる。だが、祭を前に騒ぎを起こすのはやめなさい」
「不満ではありません。すり替えです。白百合の見本瓶が消えていて、今夜の香卓には偽物が置かれていました」
「まあ、怖い」
ミレーユが胸に手を当てる。
「わたくし、お義姉様に嫌われているのはわかっていましたけれど、まさか偽物呼ばわりされるなんて」
「論点をずらさないで」
私が一歩進むと、香房長が書類を取り出した。
「北辺蒸留所への臨時転任命令だ」
一瞬、言葉の意味が入ってこなかった。
「白百合精油の管理責任は記録官にある。祭の混乱を避けるためにも、君には王都を離れて現地の在庫を直接調べてもらう」
それは調査ではなく、実質の左遷だった。
セドリックは静かに言った。
「リディア。少し距離を置こう。君は今、冷静じゃない」
その口ぶりで、全部つながった。
見本瓶の紛失。偽物の白百合。主香の交代。そしてこの異様に整った処分。
私は見本瓶箱を閉じ、ただ一つ残っていた琥珀色の封蝋片を掌に乗せた。
「わかりました。行きます」
泣きも怒鳴りもしなかったからか、皆が少し驚いた顔をした。
けれど、私の中ではもう別の感情が立ち上がっていた。
私はこの匂いを覚えている。
そして匂いは、嘘より長く残る。




