第1話 奪われた春薫祭の香席
王宮の春薫祭では、季節の始まりを告げる香りを誰が焚くかで、その年の宮廷の顔が決まる。
香木の産地、花油の抽出日、溶媒の濃度、封蝋の番号。三十二歳になった今も、私は祭そのものより先に記録台帳の整合性を見てしまう。十二年間、宮廷調香記録官としてそう生きてきた。
「今年の主香は、ミレーユが 맡うことになった」
婚約者のセドリック・ラングレーが、あまりにもあっさり言った。
隣には義妹のミレーユが立っている。二十六歳。淡い薔薇色のドレスに、春薫祭用の銀の香炉を抱えて、可憐という言葉を自分のために作らせたような顔で微笑んでいた。
「お義姉様は記録の方が向いていますもの。人前の席は、やわらかい雰囲気の方がふさわしいでしょう?」
「主香は雰囲気で決めるものではありません」
私は香卓に並んだ見本瓶へ目を向けた。白百合精油の色がわずかに濁っている。正規品なら透明な乳白色を保つはずなのに、目の前の瓶は後味の強い琥珀色を引いていた。
「この白百合、どこから出しましたか」
私が問うと、ミレーユは小首をかしげた。
「香房に置かれていたものですわ。わたくし、とても上品な香りだと思いましたの」
違う。近づいただけでわかる。白百合特有の静かな甘さの奥に、安い溶媒の刺すような匂いが混じっていた。
私は反射的に、自分の机の抽斗に手を伸ばした。亡き母から受け継いだ香料見本瓶の箱を開ける。だが、そこにあるはずの白百合の見本瓶だけが消えていた。
「……誰か、この箱を開けましたね」
部屋の空気が微妙に揺れた。セドリックは視線をそらし、ミレーユは香炉の持ち手を細い指で撫でる。
「また記録ですか、リディア」
セドリックの声は、私をたしなめるときだけ妙に甘い。
「祭の前日に場を乱さないでくれ。主役になる者が不安になる」
「不安になるべきは、主役ではなく王宮です。この香りは正規品ではありません」
「言いがかりにしか聞こえないわ」
ミレーユが小さくため息をつく。周囲の侍女たちが気まずそうに目を伏せた。彼女はそういう空気を作るのがうまい。私は冷たい。彼女は可憐。いつの間にか、宮廷ではその構図が完成していた。
「見本瓶が消えています。確認が必要です」
「十分だ」
セドリックは私の前に立ち、春薫祭の席順表を片手で折った。
「今年はミレーユが主香を務める。君は裏方に回れ。もともと、君は表に立つより影で支える方が向いている」
その言葉より、机の上に残った安い溶媒の匂いの方が、私にはずっと冷たかった。
誰かが白百合をすり替えた。
そして、その誰かは今、この部屋で平然と笑っている。




