第12話 買い戻したい元婚約者
セドリックが北辺蒸留所へ来たのは、新しい白百合の評判が王都へ届いた直後だった。
応接室に通された彼は、以前と同じ穏やかな笑みを浮かべていた。けれど私にはもう、その笑みが相手を都合よく丸め込むための形にしか見えない。
「君の仕事は認めるよ、リディア」
最初の一言がそれだった。
「香房も、君が戻れば穏便に収まる。ミレーユは表に立つのが向いている。君は裏から支える方が」
「その続きは聞き飽きました」
私は裏伝票の写しを机に置く。
「あなたが買い戻したいのは私ではなく、私の手と記録だけでしょう」
セドリックの口元が引きつった。
「君は昔から、言い方が刺々しい」
「刺々しいのは、偽物の溶媒です」
彼が何か言い返す前に、扉が開いた。レオンハルトが入ってくる。
「商談なら終わったようだ」
静かな声なのに、部屋の温度が変わった気がした。
セドリックは辺境伯へ形だけの礼をした。
「これは個人的な話です」
「ここは北辺蒸留所だ。記録官への圧力も、当然こちらの管轄になる」
逃げ道を失ったセドリックは、最後に私を見た。
「王都へ戻らなければ、君は永遠に影のままだ」
私ははっきり言った。
「もう誰の影にも戻りません」
彼が去ったあと、指先の震えが遅れてきた。
レオンハルトは何も聞かず、ただ机の端に朝摘みの菫を一輪置いた。
「今日は強い匂いより、これくらいがいい」
その不器用な気遣いに、胸の奥が少し痛むほど温かくなった。




