185. 一時の忘却
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―――それから暫くの間、ユリはヴォルミシア帝国を忘れることにした。
もちろんヴォルミシア帝国での密偵活動は『撫子』の子達に続けさせているし、とうとう最近では百合帝国の国土内でも、彼の国との国境付近で『泥土狼』が発見されるようになったため、そちらの『駆逐』も精力的に行わせている。
それでもユリ自身はもう、一旦ヴォルミシア帝国を考えないことにした。
少なくとも現時点では、彼の国に何の手出しもするつもりが無いからだ。
先方が魔物の対処に困ろうと、民が食料に事欠く状況にあろうと―――所詮は自国とは全く関わりのない土地でのことだ。国内問題を解決するのは、ヴォルミシア帝国自身であるべきだろう。
自国でも同盟国でもなく、むしろ『仮想敵国』にも近いような相手に、率先して手を差し伸べるほどユリはお人好しではない。
そんなことよりも、今は自国での『教育』の拡充について思案し、『神域都市』の神々と協議してその具体策を詰めることのほうがよっぽど重要だった。
現在はオモイカネに管理を任せている『八意塾』に、テスト運用の第3弾としてユリタニアで農業を営んでいる人達を通わせ、日本語を学ばせている。
元々ユリタニアに暮らす農家の人達からは、何故かユリは猛烈に支持されている節があった。
最初はたぶん、ユリタニアの都市を建造するよりも以前の『要衝都市ニルデア』の頃から。ユリが都市周辺の『駆逐』に精を出したことで、農作物への魔物被害がゼロにまで改善された事実に、農民の人達が歓喜した経緯にまで遡るだろうか。
それ以降も、ニルデアの市民をユリタニアへ引っ越しさせる際に、ユリは農民に対して都市周辺に充分に開墾された農地を用意し、分譲したりもした。
ちなみにこの農地は『青薔薇』の子達が、土の精霊達を使役して開墾したものだ。土の精霊力が十二分に浸透した、極めて肥沃な農地だ。
水路を多く配したユリタニアの都市からは農地へも清潔な水が常に供給される。また農地応援の国策の一環として、神殿から毎日神官の人達が農地へ派遣されてきて【浄化】の魔法を施してくれるため、農地は病害とも全く無縁でいられた。
こうしたことが、農家の人達からしてみれば。世辞抜きに『最高の仕事環境』を用意されたに等しい待遇だったらしい。
しかも今は商人とも交渉する必要が無く、国家に対して農作物を納めた分だけ、適正価格での現金収入を得ることができる。
それも嘗てエルダード王国の農民として暮らしていた頃からすれば、考えられない程の充分な額の収入だ。現在の農民達は毎日、屋台で好きなものを食べて日々を生きることができるし、衣料店や家具店を巡って買い物をする機会も随分と増えていた。もちろん購入するのも『中古』ではなく『新品』の商品ばかりだ。
日々の食料にも事欠き、襤褸を身に纏い、都市に住む大半の人達から『賤しい』者を見るような視線を向けられる―――。
嘗て農民達の誰しもが経験してきた、全ての苦しみを取り払ってくれたユリに対して。猛烈なレベルで農民の人達の支持が集まるのは、ある意味自然なことだとも言えた。
ユリが『神域都市で日本語の勉強をする』よう協力を求めた時。その要請を快諾しなかった農民は、ただ1人として居なかったというのだから驚きだ。
もちろん季節が『冬』であり、農閑期だということも都合が良かったのだろう。農民の人達には現在、その全員に『八意塾』に通って貰い、毎日1時間だけ授業を受けて貰っている。
おそらくはもう少し経てば、日本語の修得を完了する人も出始めるだろう。
―――この世界では一般的に、農民は総じて『馬鹿』と見なされている。
もちろん、実際には全くそうではないことを、ユリは知っている。農民の人達の知識が『農業』に特化されているだけであり、むしろ彼らは博学な『知識人』だ。
とはいえ、世間一般に於いて彼らの浅学が馬鹿にされる対象なのは事実なので。ユリは今回、その世間認識を大いに利用させて貰うことにした。
『新たな言語の習得』を国から呼びかけられたとしても。難易度の高さが容易に想像出来るだけに、腰が引ける人はきっと多い筈だ。
それでも―――新たに修得する『日本語』が、『農民の人達にでも問題無く修得できる言語』だと知れ渡れば、世間の認識は変わるだろう。
農民でも修得できるほど容易い言語なら、自分にも問題無く修得可能だろうと。そう市民に少しでも思わせることができれば、しめたものだ。
―――実際オモイカネの管理下で勉強すれば、その修得が極めて容易いものであることは。既に孤児院の子供達によって実証されているのだから。
また、ユリは『八意塾』で扱う日本語以外の授業についても検討する。
クエビコが子供達に教えることを約束した『計算』については、既に教科書の版本も完了し、数日後にも最初の授業が開始される予定となっている。
それ以外に、現在ユリタニアやユリシスの都市で求職活動を行っている者相手に行う『養蚕』の授業も、近々試験的に開始してみようと思っている。
ユリは『神域都市』の特産品のひとつとして『絹』を考えている。これは五穀の他に『養蚕』も司る神様であるオオゲツヒメが居れば、彼女の力で蚕を幾らでも都合することができるため、事業を始めることが非常に容易だからだ。
現在無職の人で、かつ虫に抵抗が無い人達には。是非とも『八意塾』で製糸作業について学んだ上で『神域都市』の最初の住人達になって貰いたい。
―――ユリは基本的に、週に2度程度は午睡を取るようにしている。
神域の庭園を訪問して、リュディナやアルカナとお茶をするためだ。分体を活動させている時以外には彼女達は常に神域の庭園に居るため、ユリの側から積極的に訪問しなければ、なかなか会う機会が無くなってしまう。
「ユリ、あなたにひとつ頼みたいことがあります」
それは―――『冬月21日』のこと。
神域の庭園にて、3人顔を合わせてのいつものお茶会の際に。唐突にリュディナが真面目な顔をしながら、そうユリに語りかけてきた。
「ヴォルミシア帝国のことかしら?」
「……既にご存じでしたか?」
「うちの国にも『泥土狼』が来ているもの。流石に把握しているわよ」
はあ、とユリはひとつ溜息を吐いて。
それからユリもまた真面目な顔で、リュディナと向き合った。
「リュディナ。私にとってヴォルミシア帝国は『国交のない他国』に過ぎないわ。何ら助ける義理のある国では無いということは、はっきり言わせて貰うわね」
「……それは承知しております」
「それでも、私はリュディナに大恩があると思っている。私が愛する皆といま一緒に暮らせているのは、全てあなたのお陰だからね。だからリュディナが望むなら、それがどんなことであろうと私は協力するし、努力を惜しむつもりも無いの。
―――何でも言ってみなさい。私が全て叶えてあげるから」
「ユリ、ありがとうございます。……いつも甘えてしまってすみません」
「いいのよ。綺麗な女性に甘えられるのは、私も嫌いじゃないわ」
申し訳なさそうに眉を落とすリュディナに、ユリはそう笑顔で応える。
こうしてユリは―――ヴォルミシア帝国に関わることになったのだった。
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