W 024話 揺れる陸軍
1941年8月 『日本』
連合艦隊司令部にて伏見宮連合艦隊司令長官が対アメリカ作戦の変更を指示していた頃、陸軍参謀本部と陸軍省も揺れていた。
閑院宮総長自ら発案し既に準備の為されている対アメリカ作戦計画が示されたからである。
ただし、こちらは南方攻略作戦に支障は無い事から大きな反対は無かった。
しかし、別の問題を閑院宮総長は持ち出して陸軍参謀本部と陸軍省を困惑させた。
ある一定の人物達への作戦強制参加である。
一般の刑務所に収監されている受刑者達により囚人部隊を編成し作戦に参加させようというのである。
この当時、日本全国の刑務所に収監されている受刑者は約3万人。
その中でも懲役5年以上の者や無期懲役等の受刑者を利用しようという構想だった。
ただし、光輝ある帝国陸軍に民間の犯罪者を所属させるのは陸軍内にも心理的抵抗がある。
それは閑院宮総長も同様だ。
そこで閑院宮総長は、受刑者については志願した義勇兵という体裁にした。
志願と言ってはいるが実際には強制参加である。
表向きには更に刑務所で服役して罪を贖う代わりに、義勇兵として国の為に戦い罪を贖うという事にもされた。
それで戦争を無事に生き延びれば罪は帳消しにするという事にもなっている。
ただし、それはあくまでも建て前でしかなかった。
受刑者達を投入する作戦は殆ど生還の望みの無い作戦だったからだ。
この当時、刑務所を管轄する司法省のトップである司法大臣は近衛首相が兼任していた。
近衛首相は閑院宮総長の意を受けた陸軍大臣からの要望に反対する事はなく、受刑者による義勇兵部隊の創設を受諾した。
正直、近衛首相としては受刑者の権利や人権については、それほど関心が無かったのだ。
それより、首相として迫りくる戦争の脅威に頭を悩ませていた。
こうして日本全国の刑務所から受刑者が日本の某所に集められる事となる。
また、この他に閑院宮総長は陸軍省に特定の人物達を徴兵させていた。
右翼の人物達である。
この時代、多くの政治団体があり、その中には当然の事ながら無数の右翼団体もあった。
こうした右翼団体が平和的な政治活動で自らの主張する思想や政策を推進していこうというのなら問題は無かったが、暴力に訴えようとする団体も存在していた。
1932年の「血盟団事件」はその代表例である。
首謀者の僧侶、井上日召は近隣の青年達を集め政治運動をしていたが、テロにより政財界要人を暗殺し、それにより軍部のクーデターを誘発して国家の改革を試みようとした。海軍士官との繋がりもあったようだ。
実際に民政党幹事長の井上準之助と團琢磨◯◯財閥総帥が青年達に暗殺されている。
しかし、警察の捜査の手が伸び組織構成員は殆ど逮捕される。
ただし、軍部側は蜥蜴の尻尾切りの如く問題が表面化する事はなかった。
1933年には「神兵隊事件」があった。
この事件は「大日本生産党」と「愛国勤労党」という団体が軍内部の一部の将校と結びついてクーデターを起こそうとした事件である。
海軍霞ヶ浦航空隊の山口三郎中佐が参加した事から、まずは首相官邸で閣議が行われている日に、首相官邸を空爆し更に政財界の要人を殺害、政権転覆を図る計画だった。
陸軍内部にも協力者、賛同者がいたらしい。
約130人がこの計画に参加し活動を開始しようとしたが、計画が未然に漏れ警察に一斉検挙されている。
同じ年に「救国埼玉青年挺身隊事件」というクーデター事件も発生している。
右翼団体に所属していた埼玉に住む青年達が、軍内部の陸軍将校と結びつき、政財界の主要人物を暗殺して政権転覆を図ろうとした事件である。
実行前に事件が発覚し青年達17人が逮捕された。
しかし、軍側の方は隠蔽が行われ民間人の逮捕だけに終わっている。
当初の軍側の計画では千葉駐屯の戦車隊から数両の戦車も出動する予定であったと言う。
こうした事件以外にも右翼団体や右翼思想を持つ者達が軍人や政治家と結びついて多くの事件を起こしている。
昭和1936年、広田首相暗殺計画事件。寺内陸軍大臣暗殺計画事件。
昭和1937年、岩崎小弥太◯◯財閥総帥暗殺計画事件。
昭和1938年、社会大衆党党首、安倍磯雄襲撃事件。
昭和1939年、松平内大臣邸襲撃事件。イギリス大使館襲撃事件。政友会総裁、中島知久平襲撃事件。
財閥総帥が狙われたのは右翼思想の中には資本主義を否定する主義の者や、財閥が民衆から富を搾取していると考える者達がいたからである。
右翼団体はこのような過激な行動に走る団体も少なからずあったので、内務省の特別高等警察が監視対象や内偵を行っている団体もかなりあった。
その為、事件が起きる前に未遂で検挙した例はかなりある。
閑院宮総長は内務大臣より特別高等警察がマークしている右翼団体メンバーのリストを入手し、彼らに片っ端から招集令状を出したのである。
「皇国の為を思うならばよもや招集令状に嫌はあるまい。喜んで招集され作戦にも参加出来る筈だ。帝国陸軍の兵士として是非とも皇国の敵アメリカを叩き潰す一助を担ってもらおう」
そう閑院宮総長はそう言っていた。
この当時の日本の徴兵制度では17歳から40歳までの男子が「兵籍簿」に載せられていた。
満20歳になると本籍のある所で徴兵検査を受け、体格と体力の面で甲乙丙に分類される。
そして最も優れた甲と判断された者達から現役兵として招集された。
人数が多かった場合は抽選である。
そして2年間の兵役を務めた。
ただし、日米が開戦し太平洋戦争が始まり戦争が激化すると兵役期間は延び、兵士の補充の必要性から招集される者は多くなった。
一度は兵役期間を終えても再度招集される事もある。
右翼の者達は徴兵検査で丙だろうが、再招集になろうが、容赦なく招集された。
こうして招集された右翼の者達も某所に集められ一部隊を編成し開戦を待つ事となったのである。
彼らの待ち受ける運命とは果たして……
【続く】




