第八百六十三話・被災地と武士
Side:吉良義安
「殿、……無念でございます」
矢作川の東側にある所領の大半が川の氾濫に呑まれてしまった。所領の屋敷が流されてしまった者もおる。命からがら逃れた者は一族郎党をほとんど失い泣いておる。
数年前の本證寺が滅んだ時も川が氾濫したが、あの時よりも酷い。
「先月には月が欠けたとか。天は織田に罰を与えたのでは?」
ああ、そういえばそんなこともあったな。不吉だと騒いでおったのを思い出す。ひとりの老臣がとうとう天が驕る織田に罰を与えたかと口にすると、他の家臣どもも騒ぎ出した。
織田からは至急、人を集めよと命じられておるが、なにもする気が起きぬ。このあと如何にすればよいのだ?
「殿。織田因幡守様、お越しになられました」
なにもせぬまま顔を突き合わせて呆けておる我らのところに、前触れもなく織田の者がきた。ああ、また良からぬことが起こると怯える家臣どもを黙らせて会うことにする。わしとて会いたくはないが、さすがにそうも言っておれん。
驚いたのは見知らぬ女が四人おったことだ。見たこともない南蛮人。久遠家の女か。
「大の男が揃いも揃って、なにをしているの?」
桃のような髪をした女が、名乗りもせずにこちらを冷たい目で見下すように口を開いた。
「春殿。まあそう言わずに……」
「時が惜しいわ。すぐに人を集めなさい! 貴方たちの所領でしょ!! やらないなら所領を召し上げるわよ!」
因幡守殿が止めるのも聞かずに女は立ったまま家臣らを見下してこちらを睨み、命じてくる。そうか、噂の久遠家の奥方か。
「なにを言うか! 己らなどに臣従をしたせいで、わしはすべてを失ったのだぞ!!」
下手なことを言えぬ。名門とはいえ相手は久遠家の奥方。そう思うたが、すべてを失い泣いておった男が噛みついた。もう失うものがないと怖いものがないらしい。
「己の不手際を不吉なことのせいにするな! すぐに所領に案内しなさい! 生きている者を助けるわよ!!」
しんと静まり返った。女のあまりの迫力と言葉に、誰もが呑まれておる。
「吉良殿。気持ちはわかる。人は天には勝てん。されどな、生きておる者には生きておる者のやるべきことがござろう? このようなところで嘆いてもなにも解決せぬぞ」
女たちはそのまま座りもせずに出ていった。因幡守殿がいささか申し訳なさげにこちらに言葉をかける。
「皆の者、すぐに人を集めよ」
「殿!!」
「不手際がまったくないと言えるか? 織田はこの日のために賦役を毎日しておったのは見ておろう。我らがなにもしておらなんだのは確かだ。それにこうしておってはまことに所領を召し上げられるぞ?」
川の東にある所領を持つ者は、もう織田に従うのが嫌な様子だ。それも当然であろう。されど織田に逆らっては生きてゆけぬ。
それに『不吉なことのせいにするな』という一言には怒りも感じるが、その通りではと思うところもある。
動かぬ者もおるが、最早、如何様でもよい。わし自ら手勢を引き連れて因幡守殿の後を追う。
「家の下には人がいるかもしれない。慎重にやるのよ!!」
織田は安祥から兵を連れてきておったか。野分でまだ川の水が多いというのに渡ると、川の氾濫で流された村に入った。
春と申したか。女の下知で、大声で生きておる者に呼びかけながら、倒壊した家や流された家のあたりと探っておる。
わしばかりではない。家臣らもその光景を呆然と見ておる。大口をたたいた春という女が、自らも兵に混じって泥だらけになりながら人を探しておるのだからな。
「吉良殿、人を放ち近隣の村を確認されよ。すぐに尾張と美濃からも兵がくる。早うせねば助かる者も助けられぬ」
「はっ、ただちに」
信じられなかった。ここは奴らにとって他所の所領ぞ。臣従をしたとはいえ、己で泥にまみれて働くほどのところではあるまい。
そう思うと恥ずかしくなった。己の所領をなにもせずに呆けておった己自身が。
因幡守殿の命を受けて、わしはすぐに家臣に命じる。
「声がしたぞ!!」
「今、助けるからな!!」
ああ、生きておる者がまだおるのだな。わしも動かねばならん。
Side:春
早馬を飛ばして三河に来てみると、安祥城はすでに人を集めていたけど、被災地域の武士たちはなにもしていなかった。
因幡守殿に理由を訊ねると、不吉なことを恐れておるのではないかと言う。冗談じゃない。血縁だ、由緒だと威張る癖に、肝心な時には恐れおののき怯えているだけの武士なんていらない。
吉良殿のところに怒鳴り込むと、案の定、大の男たちががん首そろえて怯えてふさぎ込んでいるだけ。
七十二時間。災害時に生存者を助けられるひとつのリミット。こんな人たちを相手にしている暇はない。
「春! 川の水が多くて堤防の再建はまだ無理だけど、流れを変えるだけならなんとか……」
「やって! 最悪田んぼはいい。これ以上被害が広がらないようにして!!」
現地に向かい人命救助をしていると、氾濫した川の様子を確認にいっていた秋が戻ってきた。重機もないこの時代だと堤防の再建はまだ無理か。水に浸かった田んぼは諦めよう。放置するとまだまだ水が周囲の無事な田んぼにまで流れてしまう。
流れを多少でも変えて、すでに被害を受けた田んぼで食い止めないと。
「アナタたちなにをしていますの!!」
私は夏と冬に因幡守殿と一緒に被害地域を回っていく。無事避難していた村もある。そんな村人には周囲の人命救助を命じて次を急ぐ。
ところが複数の人が争うのが見えると夏が馬を走らせて護衛が続いた。
「ちっ、逃げるぞ!」
「討ち取りなさい!」
火事場泥棒。見ただけでわかった。多分近隣の村の若者だろう。吉良家がなにもしないからこうなる。湧き上がる怒りを抑えて、夏の下知で戦う兵のところに私も加わる。
泥棒たちが持っているのは米俵だ。被災した村のとっておきの食料だろう。年配の女性が奪われまいと足元にすがりつくように必死に止めている。
「このぉ、クズがぁぁ!!」
米俵を担いだ男は年配の女性に持っていた刀を向けた。その瞬間、私は頭に血が上った。持っていた薙刀を男に投げる。
「ぐっ……ふ……」
胸に深々と刺さる薙刀に男はすぐに絶命して、護衛の家臣が男から薙刀を抜くと回収していた。私はその間も予備の薙刀で火事場泥棒を討ち取っていく。
生かしてとらえるべき。司令やエルはそう言うかもしれない。でもこの状況では討ち取ったほうがいい。
泥棒に割く人員がいるなら人命救助に回したいもの。
「ありがとうございます。ありがとうございます……」
年配の女性は男の手から落ちて泥が付いた米俵を守るように覆いかぶさると、こちらに何度も頭をさげていた。
だけどその目には怯えが見える。もしかすると米俵を私に奪われる。そう懸念しているのかもしれない。そんな時代だもの。
「ばあちゃん、すぐに助けの兵がくるから! 安全なところで待ってて!! あといない人と、その人がどこにいたか。助けに来た兵に教えて!」
駄目だ。ここは尾張じゃない。余所者はすべて敵なんだ。尾張なら近隣の村で助け合う。実際に私がここに来るまでにもそんな光景がいくつかあった。
だけどここじゃ、残った食料を奪い合っている。
本当は生き残りをまとめて安全なところに避難させたい。でも現地の状況を知る者を残しておかないと助けられる命も助けられない。
司令が来る前になんとかやれることやらないと!














