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変えていかなければならない。復讐などという手段に手を染めなければ自らの思いを成就できない今の司法では、その限界を超えていかなければ、到底この負の連鎖を断ち切ることなどできない。
果たしてそんなことが可能なのだろうか。たかが捜査一課の一刑事でしかない自分に、そんなことが。
相良田正臣の部屋まで上がってきた土居と目が合う。何を考えているのかもわからないその視線の奥にある想いを、酒井は垣間見ることができた。
過去を変えることはできない。我々にできることは、未来に同じことを繰り返さないことなのだと、土居は酒井に語った。その時の自分の決意を思い出す。
隠された真実の裏で誰かが深い傷を負っているのであれば、彼らに手を差し伸べなければならない。傷付く者に手を差し伸べ、秩序と均衡も保つ。それが、我々警察の役目だ。
ぐっと拳を握り締める。
やれるかどうかではない。やるしかないのだ。朝倉のような被害者を救うために、峰村帝のような冤罪を二度と生み出さないようにするために。
「逃走したのは朝倉か」
散らかった部屋をぐるりと見て回った土居が、酒井の顔を見てそう言う。
「おそらく」
「酒井と四方は引き続き朝倉を追え。使える人材は好きなだけ持っていって良い」
「朝倉は自分の足で逃走しました。検問はいくらでもすり抜けられるかと」
「だとしたら、遠くまでは逃げられない。四方、近隣の防犯カメラから、朝倉の逃走経路を割り出せ。相良田の殺人未遂容疑で、朝倉雪穂の逮捕状と近隣防犯カメラ映像の情報開示令状を請求した」
逮捕状と防犯カメラ情報の開示令状とは、さっきの今で随分と手回しの良いことだ。相良田正臣を殺しに来るのが教団の誰かもわからないはずなのに、それが朝倉だと確信めいている。
「一課長。もしや、わざと朝倉を逃がしましたね」
自宅謹慎処分を受けていた朝倉が、監視員の目を盗み容易に逃げ出し、そして行方を眩ませた事に多少の違和感はあった。土居であれば、部下の処分には抜かりがないはずだからだ。けれどそれが、朝倉と教団を接触させるためのわざとのことなのだとすれば、納得がいく。
「何の話だ」
「とぼけても無駄ですよ」
「私は私のやり方をするまでだ」
「私の部下を、殺人鬼にしないでいただけますか」
「なら、殺人鬼になる前に捕まえることだな。うかうかしていると手遅れになるぞ。教団はもう次の計画に移ろうとしている。犯罪者達は、親切に待ってなんてくれないからな」
「次の計画?」
天羽源十郎が白昼堂々殺された後、教団は一切の動きを見せていないように思われた。けれどそれは、酒井が知り得る情報には限界があるからだ。公安を始め、国の上層部には、もう教団の次の動きが見えている。
世間的には足音も聞こえぬ内に、とっくに「再生と創造」は始まっている。
土居が着けていた眼鏡を外す。レンズをクロスで拭いて、そしてまた掛け直す。辺りをちらりと見て、傍に四方しかいないことを確認すると、彼は口を開く。「教団の幹部らの釈放を要求してきている。人質は西新宿にある高層ビルの1つ」
「ビル、ですか」
「江角官房長官の娘が働いている」
「立てこもりですか」
「あぁ」
そんな情報は、テレビでも報道されていなかった。
西新宿にある高層ビルだとすれば、人の出入りも激しいはず。立てこもりには多くの教団員を必要とするだろうし、まだまだ人通りの多いこの時間帯に静まり返ったビルは、むしろ目立って見えるだろう。
「事前の犯行声明もなく、それは突然起きた。まだマスコミには気付かれていないが、それも時間の問題だろうな」
「高層ビルに立てこもるのは、それなりに大掛かりなように思いますが」
部屋にあったテレビを付けてみる。いくつかチャンネルを確認してみるが、現状、やはり立てこもりの報道がされている様子はない。
「5人だ」テレビを見つめながら、土居は言う。
「え?」
「ビルに立てこもっている教団員は、全員で5人」
「たった5人で立てこもるのは無理でしょう」
「連中はビルにメチルイソシアネートを持ち込んだ。1人でも騒ぎ立てれば、ビルの中の人間はもれなく全員あの世行きだ」
「メチルイソシアネート?」
「農薬などに使われる劇薬だ。1984年、インドのボパールで発生した工場事故でメチルイソシアネートが流出し、およそ3800人が即死したと言われている。世界史上最悪な産業災害の1つだ」
3800人が即死。
ゴクリと唾を飲み込む。
そんな劇薬を教団はビルに持ち込んだ。従わなければ死ぬ。だからたった5人で、1000人をも超えるであろう人質を従わせることができるというわけか。時刻は18時を迎えようとしていて、既に仕事を終え帰宅した者もいるだろう。実際には、もっと人質の人数は少ないのかもしれない。
「メチルイソシアネートは通常は液体だが、ガス化することもできる。ビルの中央空調システムと出入り口さえ乗っ取れれば、後は連中の独壇場というわけだ。まぁ、実際のところ、乗り込んできたのが5人なだけで、ビル内部には教団の人間が予め潜入していただろう」
それだけの劇薬であれば、周囲への影響もゼロとは言えないはずだ。最悪の場合、ビル内の従業員は全員死亡し、漏れ出したガスがビル周辺を行き交う人々をも襲う。
教団幹部らの命と一般市民の命が天秤に架けられている。けれど天羽源十郎を殺された今、教団の要求を飲み幹部らを釈放すれば、5年前の爆破事件の真相は永久に闇の中だ。
爆破事件の犯人を誰一人裁けないまま。
次回投稿は7/20(土)
を予定しております。




