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屋上からまた階段を下りた私たちは、吉岡の部屋がある二階へとやって来た。
「201」という部屋番号の横には「野々木」と書かれた表札が入っている。表札は紙に名前を書いて入れるタイプのようだ。
こういったマンションで名前を表示する人は少ないように思う。実際、二階で表札を入れているのは吉岡の部屋だけだ。なぜか「吉岡」ではなく「野々木」の表札が入っているが。もしかしてこの部屋を野々木が使っていた頃の表札が入っていることに、吉岡は気付いていないのだろうか。
「あの、吉岡さん。表札が『野々木』のままになってますよ。取った方が良いんじゃないですか?」
「ああ、これは気にしないでください。なぜか外しても外しても『野々木』の紙が入ってるんです。幽霊が入れてたりして。なんちゃって」
そんなことがあるだろうか!?
もう一度表札を見る。どう見てもパソコンで出力された文字だ。人間が作ったとしか思えない。
「吉岡さん、マンションの住人に嫌がらせをされてるんですか?」
私はズバリ聞いてみた。もし吉岡が友人だったならもう少し気を遣った言い回しをしたかもしれないが、吉岡は今日で会うのが二回目のSNSで知り合った他人だ。それどころか帰宅したらアカウントをブロックすることが決まっている仲なのだ。嫌われようと一向に構わない。だから好感度を気にするよりも、明確に事実確認がしたかった。
「嫌がらせじゃないと思いますけどね。挨拶をしてくれたり、食べ物をくれたり、優しい住人ばかりです。みんな仲良しですよ」
吉岡が一方的にそう思っているだけで本当は嫌われている可能性は無きにしも非ずだが、雰囲気を見る限り吉岡はそういうタイプの人間ではない。基本的に礼儀正しいから、近所付き合い程度で嫌われることはなさそうだ。
「吉岡さんはこのマンションの住人全員のことを知ってるんですか?」
「全員ではないですね。コミュニティに属してない、新しく入って来た住人たちのことはあまり知りません」
どうやらこのマンションには、マンション内コミュニティのようなものが存在するらしい。都会のマンションでそういったコミュニティがあるのは珍しい気がする。ちなみに私は自分の住むマンションにどんな人が住んでいるのかをまるで知らない。すれ違ったら挨拶くらいはするが、その人がマンションの住人なのか、それとも遊びに来ただけの人なのか、分からずに終わる。
だから住人が新しくマンションに入って来た人か、昔からいる人かも、当然知らない。
「……ん? 新しく入って来た『住人たち』ですか? 『住人たち』ということは、何人も新しく入居してるんですか?」
「そうですね。と言っても僕が入居する前に入った人たちではあるんですけど。僕が一番最近、このマンションに入居したので」
「ここって、そんなに出入りの激しいマンションなんですか?」
今は3月だから、新生活に向けて引っ越しの多い時期だとは思う。しかし前入居者が退去しなければ部屋は空かないわけで、十六部屋しかない小さなマンションでそんなにも多くの引っ越しが行なわれるものだろうか。
「前まではそうでもなかったらしいんですけど、飛び降りがあってからはマンションを出た人が多数いるらしくて。事故物件に住みたくないと思う人は多いですから」
そうだった。このマンションを普通の基準で考えてはいけないのだった。ここは事故物件なのだから。
「言われてみると、私も自分の住んでるマンションで自殺騒動があったら、引っ越しちゃうかもしれません」
「しかも二件も連続してますからね」
「不吉すぎますよね……あっ、すみません。ここは吉岡さんの自宅なのに」
「いえいえ、僕は事故物件だと知ってて入居しましたから、お気になさらず。もとから住んでた方は可哀想ですけど」
自分の住んでいるマンションが事故物件になってしまったら、どんな気分がするのだろう。
一番安心できるはずの家が、ぞわぞわする不気味な場所になってしまうのは、ものすごく辛い気がする。
「まあ、そういうわけで新しく来た住人のことには詳しくないですけど、知ってる住人たちは嫌がらせをするような感じではありません。親切な良い人たちですよ」
話が逸れてしまったが、私たちは吉岡が嫌がらせを受けているか否かを話していたのだった。
しかし吉岡が嫌がらせをされていないのなら、取っても取っても「野々木」の表札が入っている現象は一体何なのだろう。
「あっ! 野々木さん、こんばんは。こんな時間にお客さんですか?」
そのとき、ハツラツとしたサラリーマン風の男が私たちに声をかけた。
これに吉岡が応える。
「こんばんは。そうなんですよ。でもうるさくはしないので安心してください」
「あははっ。俺、どうせテレビ見てるんで、あんま気にしなくていいですよ!」
「ありがとうございます」
男は笑いながらそう言うと、202号室のカギを開けて中に入って行った。
「あの。今、お隣さんが吉岡さんのことを『野々木さん』って呼んでましたよね?」
男が202号室の中に入ってドアを閉めるところまでを見守ってから、吉岡に尋ねた。
確実に男は吉岡のことを「野々木」と呼んでいた。一瞬私の聞き間違いかと思ったものの「ノノギ」と「ヨシオカ」を聞き間違えるはずはない。聞き間違えるにしては、あまりにも別の単語だ。
「あー……これについては話すと長くなるんですけど、マンションに住んでるおばあさんが僕のことを野々木君と勘違いしていて。それでおばあさんが僕を『野々木君』と呼ぶものだから、他の住人は僕が前居住者と同じ『野々木』という苗字だと思い込んじゃったみたいなんです」
そのおばあさんは若者の顔を見分けることが苦手な人なのだろうか。だって野々木と吉岡は似ても似つかない外見をしているから。
いわゆるウェイ系の野々木がチャラそうな見た目だったのに対して、吉岡はやつれていることもあって陰鬱な雰囲気を漂わせている。やつれておらず陰鬱な雰囲気が薄かった前回も、いかにも真面目そうで、野々木と似ているところなんて見つからなかった。
「訂正しなくていいんですか?」
私なら、野々木と一緒にされるなんて死んでもごめんだ。私は野々木のように軽薄な人間ではないし、マルチだってやっていない。野々木と間違われたら、必死になって自分と野々木の違いを説明することだろう。
「実は何回か訂正しようとしたんですけど、タイミングが悪いのか上手くいかなくて。そのうちにまあいいやって。ニックネームみたいなものだと思うことにしたんです」
「ニックネームって……吉岡さんって、変なところでポジティブですね」
「そうですか? まあそんなこんなで他の住人たちにも『野々木』で広まっちゃって、訂正するのが面倒くさくなったっていうのもあるんですけどね」
力なく笑う吉岡を眺めていた私は、ふと幸子おばさんが先程から一言も発していないことに気付いた。
「幸子おばさん、どうかした?」
「……いいえ。それより早く中に入りましょう。もたもたしていたら電車が無くなっちゃうわ」
幸子おばさんの言葉を聞いた吉岡が、部屋のカギを開け、ドアを開いた。




