エピローグ 差し押さえられなかったもの
エピローグ 差し押さえられなかったもの
初夏の風が吹いていた。
神楽坂商事本社ビルの屋上庭園には色とりどりの花が咲いている。
ラベンダー。
ローズマリー。
白いマーガレット。
風が吹くたびに爽やかな香りが漂い、遠くには東京の街並みが広がっていた。
神楽坂恵流沙はベンチに腰掛け、コーヒーを飲んでいた。
空は青い。
どこまでも青い。
あの日、六畳一間のアパートの窓から見上げた空と同じはずなのに、まるで違って見える。
「ここにいたか」
聞き慣れた声がした。
相沢蓮だった。
手にはサンドイッチの入った紙袋を持っている。
「昼食抜いたろ」
「よく分かったわね」
「十年以上の付き合いだ」
相沢は隣に座った。
パンの香ばしい匂いが漂う。
卵サンドだった。
恵流沙は一口かじる。
ふわふわの卵が口の中でほどける。
「おいしい」
「だろ」
しばらく二人で景色を眺めた。
風が心地良い。
忙しい毎日の中で珍しい静かな時間だった。
神楽坂商事は今や全国に知られる企業になっていた。
地方メーカーと消費者をつなぐ事業は大成功を収め、社員数も三百人を超えている。
だが恵流沙が一番嬉しかったのは数字ではなかった。
取引先の笑顔だった。
売上が伸びたと喜ぶ味噌屋の社長。
孫を大学に進学させられた漬物屋の夫婦。
廃業寸前から立ち直った老舗和菓子店。
そんな報告を聞くたびに胸が温かくなった。
「社長」
屋上の扉が開く。
真奈と森川が現れた。
二人とも笑顔だった。
「見つけた」
「会議まであと十五分です」
「逃げてたわけじゃないのよ」
「知ってます」
真奈が笑う。
「でも皆、社長を探してます」
「何かあった?」
「あります」
森川がタブレットを差し出した。
そこにはニュース記事が映っていた。
神楽坂グループ倒産事件。
調査委員会最終報告。
不正取引。
優越的地位の乱用。
金融機関との不適切な取引。
長い調査の末、真相は明らかになっていた。
父の名誉も回復された。
神楽坂恒一郎は無能な経営者ではなかった。
最後まで会社を守ろうと戦った経営者だった。
記事を見ながら恵流沙は静かに目を閉じた。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
「お父様」
小さく呟く。
風が吹いた。
まるで返事のようだった。
「やっと終わったわ」
涙は出なかった。
もう悲しくないからだ。
父が残したものは会社ではなかった。
諦めない心だった。
それを受け継いだのだと思う。
会議室へ向かう。
廊下には社員たちの笑い声が響いている。
挨拶する人。
相談に来る人。
皆が生き生きしている。
大きな会議室の扉を開ける。
そこには役員たちが集まっていた。
新しい事業計画。
海外展開。
地域支援プロジェクト。
未来の話ばかりだった。
「社長」
真奈が微笑む。
「始めましょう」
「ええ」
恵流沙は席に着く。
ふと窓に映る自分の姿が見えた。
高級ホテルで婚約破棄された日。
六畳一間で泣きそうになった夜。
二十回門前払いされた日。
最初の一万円に涙した日。
全部が昨日のことのように思い出せる。
だからこそ今がある。
「社長?」
相沢が首を傾げる。
「どうした」
「何でもない」
恵流沙は笑った。
「少し昔を思い出してただけ」
資料を開く。
新しい事業計画書。
白い紙。
まだ何も書かれていない未来。
それが妙に愛おしかった。
「それじゃ始めましょう」
役員たちが頷く。
ペンが走る。
会議が始まる。
その時だった。
若い社員が言った。
「社長」
「何?」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「どうしてあんな状況から立ち直れたんですか?」
会議室が静かになる。
皆がこちらを見ている。
恵流沙は少しだけ考えた。
そして笑った。
「簡単よ」
「え?」
「私は何も失ってなかったから」
社員たちが首を傾げる。
恵流沙は鞄を開いた。
中から一枚の紙を取り出す。
少し古くなった学位記。
MBAだった。
「家は失った」
「はい」
「会社も失った」
「はい」
「婚約者も失った」
会議室に笑いが広がる。
恵流沙も笑った。
「でもね」
学位記を見つめる。
徹夜した日々。
失敗したプレゼン。
眠れない夜。
努力の記憶がよみがえる。
「知識は残った」
静かに言う。
「経験も残った」
さらに続ける。
「仲間も残った」
真奈が笑う。
森川も笑う。
相沢は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「だから立ち上がれたの」
窓の外では初夏の光が輝いていた。
恵流沙は立ち上がる。
そして未来へ向けて歩き出す。
倒産した令嬢ではなく。
婚約破棄された女性でもなく。
努力で人生を切り開いた一人の経営者として。
人生は時々、全てを奪う。
けれど本当に価値のあるものは奪えない。
学び。
経験。
仲間。
そして何度でも立ち上がる勇気。
それだけは決して差し押さえられないのだから。




