第11話 私を誰だと思っているの?
第11話 私を誰だと思っているの?
春の柔らかな陽射しが東京の街を照らしていた。
桜は散り始めている。
風が吹くたびに花びらが舞い、歩道を薄桃色に染めていた。
神楽坂恵流沙は都心の高層ビルの一室にいた。
大きな鏡の前で最後の身支度を整える。
濃紺のパンツスーツ。
自社ブランドが手掛けた新作だった。
派手さはない。
だが凛としている。
まるで今の彼女自身のようだった。
「社長」
真奈が顔を覗かせる。
「そろそろです」
「ありがとう」
「緊張してます?」
「少しだけ」
「嘘ですね」
真奈が笑う。
「社長が緊張するわけないです」
「失礼ね」
「だって倒産も婚約破棄も乗り越えた人ですよ」
恵流沙は苦笑した。
その時、相沢が現れる。
「準備は?」
「完璧」
「なら行こう」
短いやり取り。
それだけで安心できる。
そんな関係になっていた。
会場へ向かう。
扉が開く。
その瞬間、眩しい光が押し寄せた。
無数のカメラ。
フラッシュ。
歓声。
拍手。
大勢の記者たち。
巨大スクリーンには雑誌の表紙が映し出されている。
そこに写っているのは恵流沙だった。
経済誌特集。
今年の経営者。
日本を変えた百人。
中央に大きく彼女の写真が掲載されていた。
かつて六畳一間でカップ麺を食べながら事業計画書を書いていた女性とは思えない。
だが。
間違いなく同じ人間だった。
司会者が紹介する。
「神楽坂商事代表取締役社長、神楽坂恵流沙氏です!」
拍手。
歓声。
フラッシュ。
恵流沙は壇上へ上がった。
ライトが眩しい。
だが不思議と落ち着いていた。
壇上から会場を見渡す。
最前列には社員たちがいた。
真奈。
森川。
相沢。
皆が笑っている。
その姿を見た瞬間、胸の奥が温かくなった。
授賞式が終わる。
続いて記者会見だった。
長いテーブル。
無数のマイク。
記者たちが一斉に手を挙げる。
「神楽坂社長!」
「こちら!」
「質問です!」
司会者が指名する。
「どうぞ」
女性記者が立ち上がった。
「神楽坂社長は倒産と婚約破棄を経験されています」
会場が静かになる。
「普通の人なら立ち直れなかったと思います」
記者は続けた。
「なぜ立ち上がれたのですか?」
静寂。
誰もが答えを待っていた。
恵流沙は少しだけ考えた。
そして笑った。
あの日のことを思い出す。
高級ホテル。
婚約破棄。
六畳一間。
門前払い。
最初の一万円。
全部。
鮮明に思い出せた。
「簡単です」
マイク越しに声が響く。
「倒産したのは会社だからです」
会場が静まり返る。
「え?」
記者が目を丸くする。
恵流沙は続けた。
「神楽坂グループは倒産しました」
「はい」
「家も失いました」
「はい」
「婚約者も失いました」
会場から小さな笑いが起きる。
恵流沙も笑った。
「でも」
声が少しだけ強くなる。
「私自身は倒産していません」
静かな拍手が起こる。
さらに続ける。
「私はあの日、全てを失ったと思いました」
「……」
「でも違った」
バッグを開く。
中から一枚の紙を取り出す。
大切に保管していた学位記だった。
MBA。
経営学修士。
何百時間もの勉強。
何百冊もの本。
何百回もの徹夜。
その結晶だった。
会場がざわつく。
「これは私が取った学位です」
記者たちがメモを取る。
カメラが向けられる。
「家は差し押さえられました」
「……」
「会社もなくなりました」
「……」
「でも」
恵流沙は学位記を掲げた。
「これは差し押さえられませんでした」
拍手が起こる。
少しずつ。
そして大きくなる。
恵流沙は笑った。
「MBAは紙切れだと言う人もいます」
「……」
「確かに紙です」
会場に笑いが広がる。
「でも、その紙を手に入れるまでに積み上げた努力は消えません」
記者たちが真剣な顔になる。
「知識も経験も失われません」
その声は穏やかだった。
しかし力強かった。
「だから私は立ち上がれました」
誰も喋らない。
皆が聞いている。
そして別の記者が尋ねた。
「神楽坂社長」
「はい」
「今のご自身を一言で表すなら?」
会場が再び静かになる。
恵流沙は少し考えた。
そして微笑んだ。
昔から変わらない。
あの日から変わらない言葉。
「私を誰だと思っているの?」
記者たちが顔を見合わせる。
恵流沙は笑った。
いたずらっぽく。
誇らしげに。
「MBAを取るために何百回も徹夜した女ですよ」
一瞬。
静寂。
そして。
会場が大きな拍手に包まれた。
フラッシュが光る。
歓声が響く。
誰かが立ち上がる。
また拍手。
さらに拍手。
恵流沙は少し照れながら頭を下げた。
その時だった。
最前列にいる相沢と目が合う。
彼は笑っていた。
誇らしそうに。
嬉しそうに。
MBA時代から変わらない笑顔だった。
会見終了後。
会場を出る。
夕暮れだった。
高層ビルの窓が夕日に染まっている。
風が吹く。
春の匂いがした。
「終わったわね」
恵流沙が言う。
「いや」
相沢が笑った。
「始まりだろ」
「そうかもしれない」
空を見上げる。
どこまでも青い。
まだ知らない世界がある。
まだ挑戦したいことがある。
まだ会いたい人がいる。
人生は続いていく。
恵流沙は歩き出した。
倒産した令嬢としてではなく。
婚約破棄された女性としてでもなく。
自分自身の力で未来を切り開いた経営者として。
そして。
新しい夢へ向かう挑戦者として。
春風が背中を押していた。




