前夜
…何故、彼女に会いに走った?わざわざ、夜中に、寝間着の上にユニクロのウルトラライトダウンを羽織っただけの格好で、急いで外に出たかったから季節外れのサンダルで。会ってどうするというのだ?伝えたいことが山のようにあるからって、本当に伝えるわけにはいかないのに?
それでも彼は、窓から見えた、空を舞う彼女の姿に、耐え切れなくなった。
高まっていた。彼は彼女の影を追うほどに胸を高鳴らせていた。
顔を見るのは何時ぶりだろう?会って、なんて声をかけたらいいのだろう?分からない。気の利いた一言なんて思いつかない。それでも一目でいいから、また彼女の元気な姿をこの目に収めたい。
そして見つけた。
忘れもしない美しい銀髪。
ずっと、再会を待ち望んでいた彼女。
だが、彼は、こちらに振り向いた彼女の姿を見た瞬間、やっぱり会わなきゃ良かったと絶望した。
だって彼女の、その輝く紅瞳は、彼の名を呼ぶ鈴のような声は、
どこからどう受け止めても、彼女のものではかった。
「フカ…?」
だよな?あぁ、合ってるはずだ。だって会ってるはずだ。増設された記憶がそう言っている。
懐かしいな。
僕は苦笑して言った。
「なんだよ、また助けに来てくれたのか?」
フカは驚いた顔をした。僕は、少しして気付いた。
あ、違った。これ僕の記憶じゃない。慌てて訂正した。
「あっ、ごめっ、いや、吸血姫ならそう言うかなーって思って…、はは…」
すると、フカは静かに言った。
「…そうか。君は、彼女と記憶を共有しているんだな」
彼は乾いた笑いを見せる。そして、何でもない僕と対峙するために平静を装った顔をする。
しかし、僕には分かる。
彼のその顔は、耐え難い心の痛みに耐えるために麻酔を打ったから出来た顔だ。
僕は、彼に慰めの言葉をかけたかった。
それこそ、失恋した友人を励ますように。
事情を知らない、勝手なことばっかり言う第三者でありたかった。
なのに、クソが。
吸血姫の想いが嫌というほどに僕の心に流れ込む。
彼女の“彼への想い”が、知れてしまう。
なんだよ。
なんで、こんな想いを持っているのなら、別れたんだよ。
なんで僕なんかとくっついたんだよ。
想いに対し、だけど、現実は悲しい。
僕と彼女が融合してしまっている以上、彼はきっと、もう、報われない。
だから僕は、投身自殺するような気持ちで彼に伝えた。
嘘を伝えた。
「…あの野郎は、もう、お前のことなんて過去の男くらいにしか思ってないよ。だから、あんな顔が良いだけの奴なんか忘れなよ。このまま性分に合わないことをしても、お前が辛くなるだけだろ」
だが、彼は言った。
「忘れようとしたさ。けど、出来なかった。だからもう、やるしかないんだ」
「…ッ!でも…!」
「もういいんだ。ありがとう。…あぁ、本当は君にも伝えたいことがあったけど、ごめんね。彼女のことを思うと、やっぱり教えられないや」
そして、彼は僕に背を向けた。
最後に「彼女に聞いておいてくれ。今、幸せか?と」とだけ言い残して、彼は暗闇の中に消えた。
鋭い寒さは、きっと彼の肌も刺している。
彼の歩む先に、本当に彼の在るべき場所があるのだろうか。
せっかく会いに来てくれたのに。あんな会話で良かったのか。
とりあえず死ぬべき理由がもう一つ増えた僕は、明日という事実を苦しいほどに噛み締めた。
その後はあっという間だった。帰って寝るだけだったから。




