この世界は心の在り様に苦しみの原因を依拠し過ぎている
なんでもかんでも「あなたの物事の捉え方次第!」って言うな。
私のせいにするな。
「主様~!えへへ~、何百年ぶりかのぉ!もう日本へは戻ってこないもんかと思っとったぞ~!」
一通り泣いて、カウンター席に戻ったアゼヲは、しかし僕を放さないで、まんまと自分の膝の上に乗せて抱いている。
豊満ボディに全身が沈む。ヨギボーに座ったみたいに沈む。コア子や凪野さんに抱きしめられるのとは違う、明確に『女』を感じられる。
びっくりして、僕の心臓は恐ろしいほど跳ね上がる。恥ずかしい。顔が赤くなる。この汚い興奮が周囲にバレていないのは偏に僕に何も備わっていないからだろう。今だけは女で良かったと思う。
網走さんは、今に本当に嬉しそうな顔をして僕に頬ずりするアゼヲに呆れて言う。
「それが寂しいって感覚よ?分かったら、今度からは定期的に店に顔を出してね?」
「おう分かった!これからは毎日通ってやろう!」
「そんなには来なくていいから…」
ハイテンションについていけない網走さんは、苦笑いをしながらモヒートを作り直す。
僕は…、どうしたらいいのだろう。
しかし、アゼヲはお構い無しに僕に思いの丈を全てぶつける。
「懐かしいなぁ…!なぁ、この前は蛮族共と一緒に暮らして、大陸中の神々を破壊して回ったもんなぁ…。あ、そうじゃ、あの時にお揃いで買った可愛い虎の枕、まだ使っておるぞ?もう塗装が剥げちゃて、何が描いてあったかサッパリ分からんようになっておるがな!」
「そ、そうなんだ…?」
「そうなんじゃ!後で見せてやろう!主様も絶対ウケるぞ!」
「へぇ…」
…虎の枕ねぇ。
見ても、何も分からないんだろうなぁ。
「…」
…アゼヲ、本当に嬉しそうに話している。そりゃあそうだよな。久々なんだもんな。それに、何故か知らないが、あのカス野郎、部下から死ぬほど慕われてるもんな。そりゃあ、そんな反応になるよ。
しかし、それもこれももどかしい。
アゼヲという存在は全てにおいて僕と合致しない。
楽しそうに『主様』に話しかける彼女に対し、
僕は僕だから。
だから言わなきゃいけない。「僕はあんな偏屈コウモリとは違ぇよ」と。
言って、それで、誤解を解かなきゃいけない。
…なのに、胸がきゅっと締め付けられるのは何故だ?
アゼヲを、裏切るような気分になるのは何故だ?
「…なぁ、主様?再会してすぐにこんなことを聞くのは野暮かもしれんが…。その、こうして再びワシの前に現れてくれたということは、つまり、あ、あの約束を果たしに来てくれたってことじゃよな?な?」
「…」
『僕はあなたが思っているような人間ではありません』
その事実を提示することが、どうしてこうも恐ろしい?
糸ちゃんの時とは違う。
現状、僕は吸血姫の人間関係に巻き込まれた被害者だぞ?
それなのに、何故、目の前の笑顔が消えることが怖い?
その想いに囚われている?
「…本当のこと、言わなくていいの?」
見かねた網走さんが、僕に助け舟を出した。
いや、その舟はアゼヲを流刑するための監獄船か。
「僕、は…」
しかし、僕は言うことにした。僕がアゼヲにとってあまりにも期待外れであることを。
伝え終えた。アゼヲはポカンとしながら僕を膝の上から降ろし、酒の代金をカウンターに置いてトボトボと帰った。
「一人ではしゃいでごめん…」
全てを知った彼女がポツリと漏らしたその一言が、耳にこびりついて離れなかった。
…期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。期待を裏切るのが怖い。
「…しかし不思議だ。君は何故そこまで『どう見られたいか』に固執する?あぁ、『どう見られるべきか』ということが社会生活の上で重要であることは理解する。外面にあまりにも無頓着では、仕事に就くことも、金を借りることもままならんからな。…しかし、今に君が気にしているのは、それ以上のこと。アゼヲは…、まぁ、よくは覚えていないが、確かに私の部下だったらしいが、別に今更、彼女にどう見られようがどうでも良いではないか。それにも関わらず、何故、君は彼女のことで頭を悩ませている?何故わざわざ自分から課題に取り組む?不思議だ。不思議でしょうがない。だって…」
「君はその手の問題から解放されるために、かつての体を捨てたのだろう?」
「そうだっけ…」
思考は巡る。
ぐるぐる
る
…吸血姫は、この世で最も幸福な生物は犬だと言った。
正直、理解できる。
満たされる、という観点において、あれほど完璧な生物はいないと思う。
コア子の持ってた本の中に、『O嬢の物語』というものがあった。最初と最後の方だけ読んで驚いた。それはコア子の生き方とは真逆に思えた。奴隷の幸福を追求する作品を、何故彼女が所蔵しているのだろう?と疑問に思った。
が、今の僕には分かる。要するに人は不安定が怖いのだ。生活環境にしても、人間関係にしても、「明日、揺らぐかもしれない」という不安に勝てないのだ。別の本で、脳は変化を拒むと読んだ。きっとこれは生理の領域にあるのだろう。
コア子は多分、自分の幸福を考えた時にそれらが重要であることに気づいたから、あの小説を持っていたのだろう。
奴隷の幸福の本義とは、自由からの解放ではない。
つまり、犬が幸福なのは、いつまでも犬でいられるからだ。
お前は犬だよと、みんなが認めてくれるからだ。
揺るぎないからだ。
変わらなければ、人は何の不安もないんだ。
幸せなんだ。
なのに何故、人は変わるんだ。
いや、違う。変わったつもりなんてない。僕は変わっていない。僕は僕のままで、揺るぎない。
なのにみんなが僕を変わったと指差すんだ。僕を変わったことにしてくるんだ。
「なんで、みんな、僕に愛想を尽かしちゃったの?小さい頃の僕は、確かに愛されていた。可愛い、可愛いとみんなから言われて、愛されていたのに。…大きくなったのがいけないの?股間に陰毛を生やして、小さい子からどこにでもいる男に変わってしまったから、だから、みんな、僕に可愛いと言ってくれなくなったの?」
そうだ、僕は思うのだ。
他者の目こそが、僕を変えるのだ。
僕は変わったつもりなんてないのに。
他者の目だけが、僕を不安定な存在にして、僕を不幸にするのだ。
なのに、なぁ、世の中の成功者は、『自分を変えよう!』なんて言って、まるで自分に自己決定権があると思い込んでいて、滑稽だよ。
人は、望む望まないに関わらず変えられるのに。
そんな防御不可能な暴力に曝され続けているというのに。
…だけど、それが幸福なことなのか、不幸なことなのか、僕にはやがて、分からなくなった。
大雪警報の言う通りに吹雪が吹きすさぶ夜だった。
「…」
客なんていなかった。だけど、僕は滅茶苦茶にグロッキーだった。あのカウンター席を見る度に思い出していた。心の中がカラフルな泥で溢れていて、冷笑的だったり衝動的だったりした。今までそんなこと思ったことないのに、今日は何だか酒の臭いが苛立たしかった。
今日こそは休もう。今日こそは休ませてもらおう。もう無理なんだ。気分が悪すぎるんだ。自分の中で色んな苦痛が混ざりすぎて、もう不幸しか感じられないんだ。
そう思った時だった。
いや何でだよ。何でまたそんなピンポイントなタイミングなんだよ。
しかし、バーの扉は、またバタッと開いた。
「じー…」
開いた扉から、昨日見た顔が分かりやすくこちらを覗いている。
驚く僕を、少し不安げな表情で凝視している。
「…あの、開けっ放しだと寒いんだけど」
しばらくそうするもんだから、網走さんは遂に苦言を呈した。
そして、アゼヲはモジモジしながら店内に入ってきた。
彼女は、席についても相変わらずこちらを見ていた。
今に簡単なカクテルの作り方を教わっていた僕を見ていた。
僕は手を止めて尋ねる。
「なん…、ですか…?」
…嫌われていると分かっている相手に話しかけるのは勇気がいる。
一歩が重い。冷蔵庫を背負いながら登山をするよりも、ずっと。
僕に話しかけられて、アゼヲは「あっ、えっと、その…」と動揺した。
だが、彼女は数度深呼吸をして落ち着いたら、苦虫を噛み潰したような顔の僕に対して、もどかしそうに言った。
「いや、あの、その、なんだ、昨日のこと、謝ろうと思ってな…」
「…は?」
謝る?なんで?
アゼヲは言う。
「その…、急に白けた態度を取って悪かったな…。あの時はワシ、主様に会えたことが嬉し過ぎて、周りが何も見えていなかったというか、何と言うか…」
「お前さんという存在を、軽んじてしまっておった…。だから…」
あろうことか、彼女は次の瞬間、僕に深々と頭を下げた。
いや、だから、なんで?
しかし、アゼヲは確かに言う。
「本当にすまんかった!ワシの勝手な期待でお前さんを傷つけてしもうた!」
「それで、こうやって許しを請うといてなんじゃが…。お願いじゃ!お前さんとの出会いのチャンスを、もう一度ワシに与えてほしい!もちろんコレはエゴじゃ…!お前さんとの別れ方を悔やむワシの勝手なやり直しに過ぎん…!じゃが、もし許されるのなら、ワシは今度こそはお前さんにちゃんと向き合いたい!奇妙なご縁で出会った、本来出会うはずのなかったお前さんというただの人間との時間を大切にしたい!」
そして、彼女は顔を上げて、「どうじゃ!?」と分かりやすく僕に回答を求める。
僕は、…しかし、分からなかった。
なんでだよ。おかしいだろ。お前は被害者だろ?僕という余計な壁が間に挟まったせいで、本来ご希望だった『主様』に会えなかった哀れな被害者だろ?
なのに、なんで、打って変わってそんな態度なんだよ。ご縁ってなんだよ意味分かんねぇな。お前が思ってたような存在じゃなかった僕に、もはや価値なんてないだろ。
なのに、なんで、見方を変えようとしてるんだよ。
僕という存在を再解釈して、
幸せを模索してるんだよ。
僕の脳内は、反射的に拒絶の言葉でいっぱいになった。
だけど、網走さんが面白そうに笑って、「だって。どうする?」と言うもんだから、僕はもはや、アゼヲを受け入れるしかなかった。
その後、僕はカウンター越しにアゼヲと会話した。会話しながら僕は、…まぁ、アゼヲもどうせ、すぐに僕がつまらない人間だと気づいて考えを改めるだろうと思っていた。
しかし、期待とは裏腹に、彼女は、何が面白いわけでもないだろう僕との会話に何故か段々と盛り上がっていって、勢いづいていって、お酒をガブガブ飲んで、
気がついたら、また僕を膝の上に乗せていた。
ベロベロになりながら、まるで『主様』に向けていたような情愛を、嬉しそうに僕に向けていた。
「なんじゃぁ~、捻くれたガキじゃのぉ~。かわいいのぉ~、このボケェ~」
そう言って、笑って、まるでイヤイヤ期に入った甥っ子を愛でるように、満足そうに僕の頭を撫でていた。
アゼヲはやがて、酔い潰れて爆睡した。時刻はとっくに閉店時間を迎えていた。このまま彼女を店にほったらかして帰るわけにも、ブリザードの中に放り出すわけにもいかないので、彼女のことは、家に連れて帰ることになった。
夜空の下、アゼヲの巨体を背負う網走さんは、鼻の頭を赤くしながら、僕に、嬉しそうに言った。
「すっかり好かれちゃったわね、貴方」




