第八章 それは錯覚に過ぎないけれど
ぷくう、であった。
レイ=レッドスプラッシュ。公爵令嬢にして第一王子の婚約者、すなわち未来の王妃となることが半ば確定している天の上の女の頬が膨らんでいたのだ。
食後の一幕。
ソファに腰掛けて、ぷいっとそっぽを向くレイを確認して、ピーチファルナは近くにいたシンシヴィニアの手を取り、一旦その場を離脱する。
「ねえシンシヴィニアちゃんっ、なんだか大変なことになったの! あれ、レイさんの様子がおかしいんだけど!?」
「大体察しはつくんですわよ。わらわのそれはあくまで友好ですので厳密には別の感情由来ではあるんだけど、同じ人を想っているからあんな反応するのも理解できるんですわよ。とはいえ、いつの間にあそこまで強い感情を向けられるようになったんですわよ? 強さだけならわらわのそれに匹敵するほどですわよ。っと、そうですわよ、勘違いされないよう先に言っておくけど、ぽっと出の令嬢に負けるほどわらわの友情は弱くはないのですわよ!? そこのところは勘違いしないように!!」
「……? ええと、どういうこと???」
「ここまで言っても察しがつかないですわよ!? 何それ鈍感属性? 難聴系ハーレム主人公でも目指すつもりですわよ!?」
「だーかーらー! どういうことなんだってえーっ!!」
「だから! あれ完全に拗ねているんですわよ!!」
「……拗ねて、いる???」
「わらわとピーチファルナとの関係性に嫉妬した、と言えばわかるですわね? わらわが抱くそれとレイ=レッドスプラッシュが抱くそれとが厳密には別物だと分かっているはずなのに、それでもモヤモヤするものですわよ」
「な、なるほど! よっし、レイさあーっん!!」
内緒話は終わりとばかりに飛び出すピーチファルナ。ソファへと飛びかかり、そのままレイの胸にダイブして、一言。
「大好き!!!!」
「いっいきなり何を……っ!?」
「だーかーらー! 大好きなんだって、レイさん!!」
ぐりぐりと胸元に頭を擦りつけて、背中に回した腕でぎゅうっと抱きついて、それはもう純粋にして強烈な感情なのだと丸わかりなくらいの言葉を叩きつける。
そして、もう一つ。
付け加えられた言葉はというと、
「シンシヴィニアちゃんと仲良くしてて拗ねちゃったんだよね、分かるよ! 友達が違う友達と仲良くしてたら、こう、なんか仲間外れになった気がするもんね!! わたしにとってシンシヴィニアちゃんもレイさんも大切な友達だからね!! 大好き!!!!」
「…………、そ、そうでごぜーますか」
呆然と。
困ったように表情を固めるレイ=レッドスプラッシュ。
思わず一部始終を見ていたシンシヴィニアはこう言っていた。
「よくもまあ善意百パーセントであそこまで叩きのめすものですわよ」
ーーー☆ーーー
夜風がレイ=レッドスプラッシュの頬を撫でていた。家の外で一人星空を眺めながら、くるくると手の中で小さな棒状の魔法道具を回す。
『ハニートラップ』。
甘い匂いを軸として無自覚を埋め込んだり、感覚や電気信号や体液などの体内環境に対する変化を促す能力を持つ。無意識的に操られた低級魔獣を呼び寄せる、ゴロツキの体内水分を固めることで身動きを封じるなどの用途で使ってきたものである。
「まったく、いつどこの時間軸でも色んなものにハチミツをかけるのでごぜーますね。つい熱くなってしまったでごぜーます」
くるくると。
小さい棒状の魔法道具が回る。
「大切な友達、でごぜーますか。ええそうでごぜーますよね。一日も経っていないでごぜーますものね。回数を重ねるごとに距離が縮まるまでの時間が短くなっていた気がするから、期待していたのでごぜーますかね。やるべきことから目を逸らして、願望だけはいっちょまえなことでごぜーます」
夜風が体温を奪う。
冷えていく。
だからだろう、こんなにも寒いのは。
「わかっている、分かっているのでごぜーます。最善は見えているでごぜーます。ピーチファルナちゃんのために、それだけを目指すと誓ったのでごぜーます。ええ、ええ、そうでごぜーます。やるべきは一つ、さっさと頼るべきなのでごぜーます」
だけど、それでも。
一歩も前に進めず、立ち止まったまま。せめてどうするか方向性だけでも決められたならば何かが変わるだろうに、無意味に停滞してしまっている。
笑っているのだ。
ピーチファルナが、特別が、本当に幸せそうに笑っているのだ。
もう、いいのではないか?
できるだけ多くの『力』が必要だ。そのためには頼る必要がある。が、頼るとはすなわち巻き込むということ。この幸せに闘争という異物を放り込んでしまうのだ。
敵はわかっている。
『これまで』よりもずっと有利な状況だ。
ならば、ネフィレンスやキアラを巻き込むだけで済むのではないか?
「ハッ、ははっ!!」
ばぢっん! と。
額に手を叩きつける。
脳裏に浮かんだ甘えを叩き潰す。
「違うでごぜーます。言い訳するなでごぜーますよ。それっぽい風に取り繕って、向かい合う勇気が出ないだけでごぜーます」
そして。
そして。
そして。
「レイちゃん、でいいよね。あくまでピーチファルナの友達なわけだし」
「……っ」
声が聞こえた。
そこにはピーチファルナの母親が立っていた。
「ごめんね、うちの娘馬鹿でガキなものでね。騒がしいったらないわよね」
「い、いえ、そんなことはないでごぜーます」
どうやって殺したのだったか。回数なんて覚えていられないくらい殺してきたのだ。方法もまた一つではなかった。
一つ『前』は首吊り自殺に見せかけて殺した。領主暗殺未遂という冤罪をでっち上げた後にである。ピーチファルナを孤独に沈めるためとはいえ、必要な人間の無意識を必要なだけ操作して冤罪をでっち上げた上で自殺に見せかけて殺したのだ。
なのに。
それなのに。
「あんな馬鹿娘と友達やってくれる奴がいるってんだから世界は広いものよね。できればこれからも仲良くやってくれないかね? 公爵令嬢だなんだ、そんなものは抜きにさ」
「……、いいのでごぜーますか?」
知らない。
気づいていない。
ここで『前』どうやって殺したのだと説明して、万が一信じてくれたとして、それはあくまで『実感』できていない上での判断だ。許すなんて言ってもらえたとして、そんなものは救いにはならない。『実感』なく、真相を知った風に思い込んだ上での許しになんて何の意味があるというのか。
だから、なのに。
思わずこう言っていた。
「私、人殺しでごぜーますよ?」
「だから???」
即答だった。
不思議そうに、本当に不思議そうに首さえ傾げていた。
「必要なら殺しくらいやるわよね。うちの夫だって『私のために』大勢殺しているし。長い人生、悪いことだと分かっていてもやらなきゃいけない時もあるものよ。だから悪事に手を染めたか否かはその人を判断する指標にはならない。何をしたかじゃなくて、何を守りたいかが重要なんだから」
これは救いにはならない。
無知なる声に真実は宿らない。
だけど、そう、だけどだ。
「少なくともうちの馬鹿娘のそばに立っていてくれているってのはわかるものよ。その悩みも含めてね」
「っ!? まさか、気づいて……っ!?」
「何も知らないわよ。何か悩んでいるんだろうなってくらいよ」
ぽんぽんと。
頭に手を置いて、撫でて、そして、
「これは単なる勘なんだけど、もしもその悩みがうちの馬鹿娘に関係することなら本人に素直に言っちゃいな。あれは本当に馬鹿だからね。案外簡単に済むかもよ」
じゃ、そういうことで! と締めて、ピーチファルナの母親は立ち去っていった。その背中をレイは何も言えずに見つめていることしかできなかった。
これは救いではない。
何も解決などしていない。真に許しがあるとすればそれは殺された時間軸の当人が判断するものだ。変わり巡った『今』ではなく、この手で殺しをばら撒いた『前』に生きた人たちが、だ。
わかっている、そんなことはレイ=レッドスプラッシュが一番わかっているのだ。
だけど。
それでも。
「やっぱりピーチファルナちゃんの母親でごぜーますね。眩しいでごぜーますよ」
やはりレイは悪党なのだろう。
全部わかっていて、それでも幸せな錯覚に沈んでいるのだから。




