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Episode 8 初めて、彼女の名前を呼んだ。


ソジュンの眼差しも。


ヨヌの笑顔も。


そして、その二人を見つめながら揺れてしまった自分の心も。


今は、何も見たくなかった。


夕焼けはいつの間にか山の稜線の向こうへ沈み、


ジウは空がすっかり暗くなっていることにも気づかないまま、


ひとり山道を歩き続けていた。




───


私は……


今、自分の過去に嫉妬しているんだろうか。




───


それとも。


あの過去を美しく演じている、


二人の俳優に。




───


……それとも。


ソ・ヨヌを見つめていた、


ハン・ソジュンの眼差しに。




───


歩みを止められないまま、


ジウは小さくつぶやいた。


「……どうして。」


「どうして、この場所は。」


「あの頃も、今も。」


「……私をこんなにも苦しめるんだろう。」




───


そのときだった。


ジウはふいに足を止める。


……ここ、どこ?


辺りはもうすっかり暗くなっていた。


さっきまで山の下から聞こえていた人の声も、


いつの間にか聞こえなくなっている。


風が吹いた。


木々の葉がさらさらと揺れる。


遠くで、


ふくろうの鳴き声が響いた。


その音に、


ジウの背筋がひやりと冷たくなる。




――そうだ。


スマホ。


慌ててバッグの中を探る。


……ない。


その瞬間、思い出した。


撮影現場のベンチに、


エコバッグと一緒に置いたままだった。




「……どうしよう。」


ジウは深く息を吸い、


無理やり気持ちを落ち着かせる。


落ち着いて。


このまま下りていけば、


きっと道に出られる。


道は、どこかで必ずつながっているから。


そう自分に言い聞かせ、


もう一度ゆっくり歩き出した、その瞬間。




「あっ……」


足元が滑った。


ジウの身体が傾き、


斜面の土道を滑るようによろめいて倒れ込む。


「あっ……」


足首に鋭い痛みが走った。


……捻った。


間違いなく。


辺りはさらに暗くなっていく。


何も見えない。


その瞬間。


ジウは初めて、


怖いと思った。




───


その頃。


サバイバルゲームの撮影を終えたソジュンは、


どこか浮き立つ気持ちのまま、


ジウの姿を探していた。


今日の撮影は、本当に良かった。


感情もうまく乗っていたし。


何より――


ずっと先生のことが気になっていた。


撮影が終わったら、


どんな顔をしているだろう。


一番最初に見たかった。




けれど。


どこにもいなかった。


ベンチにも。


スタッフたちの中にも。


ジウの姿が見当たらない。


ソジュンの表情が、


ゆっくりと強張る。




「先生、見かけませんでしたか?」


スタッフの一人が首を横に振った。


「さっきまでは、いらっしゃったんですけど……。」




その瞬間。


ソジュンの脳裏を、


ある考えがよぎった。


……スマホ。


急いで自分のスマートフォンを取り出し、


ジウの番号へ発信する。


そのときだった。


ベンチの上に置かれたエコバッグの中から、


着信音が鳴り響いた。




ソジュンの表情が、


一瞬で変わる。


「……スマホを置いたまま?」


着信音はすぐそばで鳴っている。


なのに、


肝心の本人がどこにもいない。


嫌な予感が、


一気に胸を駆け抜けた。




そのとき。


近くにいたスタッフが思い出したように口を開く。


「あっ、先生ならさっき、


あっちの山道を一人で下りて行かれましたよ。」


「……一人で?」


心臓が、


どくんと大きく鳴った。




ソジュンは急いでスタッフから懐中電灯を借りる。


そして、


ジウのバッグとスマホを手にすると、


そのまま山道へ駆け出した。




「先生!」


「先生!」


暗い山道に、


ソジュンの声だけが響いていく。


けれど、


返事はない。


名前を呼ぶたびに返ってくるのは、


風の音だけだった。




呼吸が、


少しずつ荒くなる。


……道に迷ったんじゃないか。


……怪我でもしたんじゃないか。


……一人で怖がっているんじゃないか。


次から次へと、


嫌な考えばかりが押し寄せる。




「イ・ジウ!」


初めて。


彼女の名前を呼んだ。


「イ・ジウ!」


声が、


焦りに震える。


「どこにいるんです!」




その瞬間。


ソジュンの足元に、


何かが触れた。


スカーフだった。


いつもジウが


ヘアバンド代わりに身につけていた、


あのスカーフ。


胸が、


大きく跳ねた。




「イ・ジウ!」


さっきよりも大きな声で名前を呼んだ、そのとき。


木々の向こうから、


誰かがよろめきながら歩いてくる。


「……俳優さん?」


目を赤くしたジウだった。


片足をかばうように、


痛そうに歩いている。




その姿を見た瞬間。


ソジュンの顔に、


安堵が広がる。


……けれど次の瞬間、


それは怒りへと変わった。




「先生、何を考えてるんですか!」


ソジュンの声が震えた。


息も荒く乱れている。


「ここがどこだと思ってるんです!」


「スマホも持たないで、一人で山を下りるなんて。」


「どれだけ探したと思ってるんですか。」




その視線が、


ゆっくりとジウの足元へ落ちる。


「……足。」


「どうしたんですか。」


「怪我したんですか。」




その言葉を聞いた瞬間だった。


張りつめていた緊張が、


ふっとほどけた。


安心が、


一気に胸へ押し寄せてくる。


ぽたり。


涙が一粒、


頬を伝って落ちた。


「……ごめんなさい。」




その一言とともに。


ジウは思わず、


ソジュンの胸へ飛び込んでいた。




ソジュンは一瞬、


息をのむ。


けれど、


すぐに。


とてもゆっくりと、


ジウを抱きしめた。


手のひらが、


そっと彼女の頭を包み込む。




「どうしたんですか。」


低く、


優しい声だった。


「そんなに痛いですか。」


少し間を置いて、


もう一度尋ねる。


「……怖かったですか。」




その一言に、


ジウの肩が小さく震えた。


ソジュンは、


抱きしめる腕にほんの少しだけ力を込める。


そして静かに言った。


「……もう大丈夫です。」


短く息をつき、


優しく続ける。


「私がいますから。」




───


どれくらい、


そうしていただろう。


ソジュンの腕の中で泣いていたジウは、


ふと我に返った。


……え。


その瞬間。


自分が今、


ハン・ソジュンの胸に抱かれていることに気づく。


みるみるうちに、


顔が赤く染まった。




「す、すみません!」


慌てて身体を離す。


「びっくりしてしまって……。」




ソジュンはそんなジウを見て、


小さく笑った。


「そんなに慌てなくても。」


少しいたずらっぽく笑う。


「私の胸なら、


いつでも貸しますよ。」




ジウは目を丸くした。


「……え?」




ソジュンは肩をすくめながら笑う。


「いつでも。」


「必要になったら、


遠慮なく来てください。」




ジウは思わず吹き出した。


「ふふっ……。」


「何ですか、それ。」


「『いつでも』だなんて。」




ソジュンはゆっくりと微笑んだ。


「キャンディは、


もう別の人に先を越されてしまいましたから。」


そう言って、


ほんの少しだけジウを見つめる。


「……でも。」


「私の胸は、


まだ誰にも取られていません。」




その言葉に、


ジウはふと小説の一節を思い出した。


レモンキャンディ。


英文学科の教授。


少しずつ、


心に染み込んでいく優しさ。




「……私の小説、


ずいぶん深く読んでくださっているんですね。」




ソジュンは優しく笑った。


「先生が思っているより、


もっとずっと。」


「この作品は、


私をここまで連れてきてくれた一番の立役者ですから。」




ジウは不思議そうに彼を見つめた。


「……え?」




ソジュンは意味ありげに笑う。


「もっと仲良くなったら、


お話しします。」


少しだけ首をかしげた。


「知りたければ、


もっと仲良くならないといけませんね。」




ジウは思わず言葉を失う。


……この人は、


いったい何なんだろう。


いつも明るく笑って、


冗談みたいに話すのに。


その言葉は、


どうしてこんなにも軽く聞こえないんだろう。




そのときだった。


「ちょっと失礼します。」


ソジュンは突然、


ジウの前に片膝をついた。


「……俳優さん?」


ポケットの中から、


さっき山道で拾ったスカーフを取り出す。


そして、


そっとジウの捻った足首へ巻き始めた。




ジウは戸惑ったように、


ソジュンを見下ろす。


「……それ、


どこで。」




ソジュンは最後の結び目を整えながら、


小さく笑った。


「そそっかしく落として歩くおつもりですか?」


少し笑って、


冗談っぽく続ける。


「ヘンゼルとグレーテルかと思いました。」




ジウは照れくさそうに視線を落とした。


ソジュンはスカーフをもう一度確かめてから、


静かに言う。


「山道に落ちていたんです。」


「これを見て。」


「先生はきっと、


この近くにいると思いました。」




ジウは巻かれたスカーフを見つめ、


小さく微笑んだ。


「……ありがとうございます。」




ソジュンは答える代わりに、


優しく笑みを返した。


そして、


ゆっくりと立ち上がると、


ジウの前で背中を向けた。


「おぶりましょうか。」




ジウは目を丸くする。


「だ、大丈夫です!」


「このくらいなら歩けます。」


顔がまた赤く染まる。




ソジュンはくすっと笑うと、


今度は腕を差し出した。


「それなら。」


「せめてこれにつかまってください。」


「……支えるくらいは、


させてください。」




少しだけためらったあと、


ジウはそっとソジュンの腕をつかんだ。


厚く、


しっかりした腕だった。


気づけば、


ほんの少しだけ寄りかかるように歩いていた。




ソジュンは、


ジウの歩幅に合わせて歩く。


ゆっくり。


本当に、


ゆっくりと。




「先生。」


ソジュンがふいに口を開いた。


「さっき。」


ジウが顔を上げる。


「サバイバルゲームの撮影が終わったあと、


私、すごく興奮していたんです。」




ジウは不思議そうに彼を見つめた。


「小説で、


先生が最後まで一人だけ残る場面。」


「敵陣にも、男の人が一人だけ残っていて。」


「向こうはみんな、


『相手は女一人だ、さっさと片付けて戻ってこい』って言っているのに。」


「先生のほうが先に銃を持って、


真っ先に敵陣へ走り込んで、


その人を撃ってしまうでしょう。」


少し笑う。


「あの場面を読んだとき、


本当に驚きました。」


「普段はあんなに静かな人なのに。」


「どうして、


あんな勇気を出せたんだろうって。」


「それが、


ずっと気になっていたんです。」




ジウはしばらく黙って、


ソジュンを見つめていた。


そして、


ゆっくりと口を開く。


「……人の心の中には。」


「いくつもの部屋があるんです。」




ソジュンの瞳が、


静かに揺れた。




「負けることに慣れてしまった私がいる部屋もあれば。」


「何をやってもうまくいっていた私がいる部屋もある。」


「見たくない私がいる部屋もあれば。」


「……誰かに見せたい私がいる部屋もある。」


「傷ついた私がいる部屋も。」


少しだけ息をついた。


「……あの頃の私は。」


「負けることに慣れてしまった私が、


もう負けたくないと立ち上がった部屋だったんだと思います。」




静かな山道に、


二人の声だけが穏やかに響いていた。




ジウは小さく笑う。


「ソジュンさんにも、


きっといくつもの部屋がありますよね。」


「俳優としてのハン・ソジュンがいる部屋。」


「俳優じゃないハン・ソジュンがいる部屋。」


「華やかな部屋も。」


「静かな部屋も。」


「……時々は、


その部屋同士が混ざってしまうこともあるでしょうし。」




ソジュンはゆっくりとうなずいた。


そして、


静かな声で言った。


「私は。」


少しだけ笑う。


「先生の、そのたくさんの部屋が。」


「全部、知りたいです。」




ジウの瞳が、


かすかに揺れる。




「その全部が集まって。」


「……イ・ジウという人になるんですよね。」


少し照れたように笑って続けた。


「これからは。」


「私にも。」


「その部屋を、


一つずつ見せてもらえたら嬉しいです。」




そう言って。


ソジュンは、


いたずらっぽく片目をつぶった。




その小さな仕草に。


ジウの心臓は、


もう一度だけ、


静かに揺れた。





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