Episode 7 どうして僕には笑ってくれないんですか?
ドラマの時間は、現実の季節とは違う速さで流れていた。
秋を撮っていた撮影チームは、いつの間にか五月のキャンパスへと移っていた。
今日は大学の合宿(MT)のシーン。 屋外での撮影日だった。
朝から現場には、どこか浮き立つような空気が漂っている。
ジウは家を出る前、鏡の前にしばらく立ち尽くしていた。
淡い水色のブラウスに、薄いブルーのデニム。 いつもより少しだけ丁寧に仕上げたメイク。
……どうしたんだろう。
自分でも少しだけ照れくさかった。
今日は屋外撮影だから。
天気がいいから。
久しぶりに陽射しがきれいだから。
そんなふうに適当な理由をつけて、バッグを手に家を出た。
───
撮影現場には、すでに俳優やスタッフたちが慌ただしく動き回っていた。
ジウはいつものように、穏やかに挨拶を交わす。
「おはようございます。」
「先生、おはようございます!」
「今日はいい天気ですね。」
「ええ、本当に。」
小さく微笑みながら頷いたジウは、そのまま自然にハン・ソジュンへ視線を向けた。
「……おはようございます、俳優さん。」
───
けれど、どこか様子がおかしかった。
ソジュンは、ジウを見ようともしなかった。
「……おはようございます。」
短い返事。
それだけだった。
ジウはゆっくりと瞬きをする。
……あれ?
まるで顔じゅうで、
『今、僕はものすごく拗ねています。』
そう言っているみたいだった。
唇がほんの少しだけ尖っている。
まるで子どもみたいに。
ジウは思わず吹き出しそうになる。
……まさか。
───
けれど、その「まさか」は本当だった。
ソジュンは本当にジウを見ようとしなかった。
ところが、撮影が始まった瞬間――
彼はまるで別人になった。
「よし、もう一回いきます!」
カメラが回る。
その瞬間、ソジュンは一瞬でチョン・ウジンになっていた。
ジウは思わず見入ってしまう。
役への理解。
感情を表現する繊細さ。
視線一つ。
息遣い一つ。
どれを取っても、小説の中のチョン・ウジン、そのものだった。
さっきまで頬を膨らませて拗ねていた人と同じ人物だなんて、とても思えないほどに。
───
五月の陽射しは、思っていた以上に強かった。
撮影を何度も繰り返すうちに、ソジュンの額には細かな汗が滲み始める。
「少し休憩しまーす!」
スタッフの声が響いた。
ジウは近くのテーブルから冷たい飲み物を一本手に取る。
少しだけ迷ってから、
ソジュンのもとへ歩いていった。
「……暑いですよね。」
そう言って、飲み物を差し出す。
「これ、飲んで少し休んでください。」
そして、小さなハンカチも一緒に差し出した。
ソジュンは一瞬だけジウを見つめた。
そして、差し出された飲み物を受け取る。
「……ありがとうございます。」
短い返事。
軽く頭を下げただけだった。
いつもより、ずっとよそよそしい。
ジウは胸の奥が、少しだけちくりと痛むのを感じた。
……本当に、どうしたんだろう。
そのまま立ち去ろうとして、
けれど結局、足を止めた。
「……あの、俳優さん。」
ソジュンがゆっくりと顔を上げる。
「私、何か失礼なことをしてしまいましたか?」
ほんの少しの沈黙。
「何が理由なのかは分かりませんけど……もし私が気づかないうちに何かしてしまっていたなら、ごめんなさい。」
少し照れくさそうに笑いながら、ジウはそう言った。
───
そう言い終えて、ジウはもう一度歩き出そうとした。
その瞬間だった。
ソジュンが堪えきれず、ふっと笑い声を漏らした。
――もう、本当に。
その表情が可愛すぎた。
ソジュンはそっと手を伸ばし、
背を向けようとしたジウの手首に、ほんの一瞬だけ触れる。
引き止めるというより、
ただ立ち止まってほしいと伝えるくらいの、やさしい力だった。
驚いたようにジウが振り返る。
ソジュンは笑っていた。
さっきまでの拗ねた顔はもうどこにもなく、
目尻まで柔らかくほどけた笑顔だった。
「……先生には。」
くすりと笑いながら、ソジュンが言う。
「怒ったふりをする演技さえ、難しいみたいです。」
ジウは目を丸くした。
「……え?」
「僕、拗ねてたんです。」
あまりにも素直な声だった。
「昨日、ソヌさんのことはあんなに褒めていたのに。」
また少しだけ唇を尖らせる。
「……僕は、一度も褒めてもらったことがないじゃないですか。」
ジウは思わず言葉を失った。
ソジュンは少しだけ照れくさそうに笑ってから、
静かに続けた。
「どうして……僕には笑ってくれないんですか?」
あまりにも予想外のひと言だった。
それなのに、
どうしようもなく可愛くて。
ジウは、もう我慢できなかった。
「ふふっ……!」
思わず声を上げて笑ってしまう。
こんなふうに声を出して笑ったのは、
本当に久しぶりだった。
白い歯がのぞくほど、心からの笑顔。
ソジュンはそんなジウを、じっと見つめる。
そして、自分もつられるように笑った。
「……ほら。」
視線がゆっくりと重なる。
「その素敵な笑顔を……
僕も、もっと見たいです。」
その言葉に、
ジウの心臓が、小さく揺れた。
その日の登山シーンの撮影が終わる頃には、
山の上にゆっくりと夕焼けが降り始めていた。
残る撮影は、今日最後のシーン――
サバイバルゲームだけだった。
俳優たちもスタッフも、どこか浮き立った様子だった。
「銃、どこですか?」
「ベスト、このサイズに替えてください!」
「ソ・ヨヌさん、スタンバイお願いしまーす!」
あちこちから声が飛び交う。
俳優たちはベストと帽子を身につけ、
おもちゃの銃を手に笑い合っていた。
ジウは少し離れた場所から、
その光景を静かに眺めていた。
───
休憩に入るたび、
スタイリストたちが俳優のもとへ駆け寄っていく。
ミストを吹きかけ、
乱れた髪を整え、
衣装を直し、
メイクを手早く整える。
その様子を見ていると、
時々、不思議な気持ちになった。
まるでこの世界のどこかに一本の境界線があって、
その線を境に、
現実とは違う世界が広がっているような気がした。
ジウにとって大学時代は、
あまりにも静かな時間だった。
好きという気持ちも、
苦しかった気持ちも、
最後まで誰にも伝えられないまま、
胸の奥へそっとしまい込むしかなかった時間。
けれど、
今、目の前に広がる景色はあまりにも美しかった。
夕焼けに染まる俳優たち。
きらめく照明。
ドラマの中で鮮やかによみがえった、
あの日々。
まるで誰かの思い出を、
ほんの少しだけ優しく描き直した世界のようだった。
あの頃は、
今でもジウにとって一番鮮やかな季節だった。
たくさん傷ついて、
たくさん迷って、
そして、たくさん幸せだった。
もう二度と戻れないと分かっているのに、
ふと恋しくなることがある。
あの季節だけは、
不思議なくらい、あたたかかった。
「――本番、お願いします!」
監督の声が響く。
その瞬間、
賑やかだった撮影現場が静まり返った。
カメラマンもスタッフも素早く持ち場につき、
俳優たちは一瞬で役の中へ入っていく。
ソ・ヨヌは、
カメラの前でひときわ輝く女優だった。
透き通るような白い肌。
整った目鼻立ち。
澄んだ空気をまとったような存在感。
――やっぱり、女優なんだ。
ジウは改めてそう思った。
モニター越しに映るソ・ヨヌは、
思わず息をのむほど美しかった。
カメラはソ・ヨヌを映し、
ゆっくりとパンして、
今度はハン・ソジュンの顔を映し出す。
夕焼けに染まるソジュンは、
現実とは思えないほど鮮やかだった。
白い肌。
すらりと伸びた長身。
ガラス玉のように澄んだ瞳。
まるで漫画の中から、そのまま歩いてきた人みたいだった。
そしてソジュンは、
少し離れた場所にいるソ・ヨヌを見つめていた。
とても静かで、
とても優しい眼差しで。
───
ジウの呼吸が、
ほんの一瞬だけ止まる。
――あれは、誰の眼差しなんだろう。
チョン・ウジンがジウを見つめる目なのか。
それとも、
ハン・ソジュンがソ・ヨヌを見つめる目なのか。
二つの姿が、
不思議なくらい重なって見えた。
胸の奥が、
ゆっくりと締めつけられていく。
二人は、本当によく似合っていた。
まるでドラマの中から抜け出してきた恋人同士のように。
誰が見ても、
絵になる二人だった。
……なのに。
苦しい。
息が詰まる。
理由もなく、
胸の奥がざわつく。
どうして。
ジウは小さく眉を寄せた。
どうしてこんなに苦しいんだろう。
……これは、私の物語なのに。
───
その時、
ソ・ヨヌが笑った。
そして、
ソジュンもつられるように笑う。
その笑顔を見た瞬間、
ジウの胸が大きく揺れた。
――もう、見ていられなかった。
何かに導かれるように、
ジウはゆっくりと背を向ける。
「先生?」
背後で誰かがそう呼んだ。
けれどジウは、
まるで何も聞こえていないかのように
何も答えず、
ただ静かに山道を下り始めた。
夕焼けは少しずつ色を失い、
山はゆっくりと夜へ溶け込んでいった。




