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Episode 6 もう一度、息づく季節


家へ戻ったジウは、玄関のドアに背を預けたまま、しばらく動けずにいた。

慣れ親しんだ静けさ。

誰もいない家の空気。

それなのに今日は、不思議なくらい心が落ち着かなかった。


『……私は、まだ一度もいただいていませんけど。』

撮影現場で見たハン・ソジュンの表情が、何度も頭に浮かぶ。

表向きはいつものように冗談めかして笑っていたのに、

その笑みの奥には、どこか寂しそうな色が滲んでいた。

まるで、自分だけを抜きにして話が交わされていたことを、

あとから知ってしまった子どものような顔。


ジウは小さく眉を寄せた。

――何だったんだろう、あの表情。

かわいい、と思った瞬間もあった。

それなのに、胸のどこかに引っかかったまま離れない。

どうして、こんなに気になるんだろう。

どうして、何度も思い出してしまうんだろう。


ジウは自分をたしなめるように、軽く髪をかき乱した。

「……ありえない。」

小さくつぶやくと、そのままキッチンへ向かった。


キッチンの窓の向こうでは、夕暮れの陽射しが長く傾いていた。

シンクにカップを置いたまま、ジウはしばらく動かなかった。

電気ポットに水を注いでおきながら、

電源ボタンを押すことさえ忘れ、ぼんやりと立ち尽くしていた。

「……あ。」

遅れてボタンを押すと、

低い作動音とともに、小さなランプが灯った。

今日はどうして、こんなにも別のことばかり考えてしまうのだろう。

一度だけじゃない。

何度も。


コーヒーを淹れているあいだも、思考は途切れなかった。

ゆっくりと落ちていくお湯の音。

馴染み深い香り。

マグカップを手にしたジウは、そのまま書斎へ入っていく。

そして自然と、本棚の前で足を止めた。


本棚には、たくさんの本が整然と並んでいた。

新しく出版された小説もあれば、

好きな作家のエッセイもある。

けれど、その手はどの本にも伸びなかった。

いちばん古くからある場所。

いつも変わらず、そこに置かれている一冊。

まるで、ずっと昔から自分を待っていてくれたかのように。

ジウはそっと、その本を取り出した。


『初雪と括弧』

背表紙の感触まで手になじんだ、自分のデビュー作。

指先で、ゆっくりと背表紙をなぞる。

ジウはしばらくのあいだ、その本を見つめ続けていた。


あの頃のことは、今でも昨日の出来事のように鮮明だった。

あの頃は、胸が痛くなるほどつらかった。

それなのに、時が流れた今では、

人生が苦しくなるたびに、そっと取り出してしまう記憶になっていた。


だから、書きたかった。

消えてしまう前に。

夢の中でさえ繰り返されていた、あの頃の感情を残しておきたかった。


けれど、いざ書こうとすると、

なぜか素直にはなれなかった。

韓国語では、最後まで自分の感情を隠してしまった。

文章を書きながらも、

何度も自分自身を振り返ってしまった。


だから、日本語で書き始めた。

幼い頃から親しんできた言葉。

不思議なことに、日本語で書くと、

心の奥深くに押し込めていた感情が、

ほんの少しだけ、素直に流れ出してくれた。


そして、そうして書き上げた日本語版『初雪と括弧』は、

ドラマ化までされることになった。


ジウはゆっくりと目を閉じた。

今でも時々、

これは夢なのか、それとも現実なのか、

わからなくなることがある。

嬉しいというよりも、

どこか不思議だった。

胸の奥が、もう一度、静かに疼いた。


だからこそ、

ハン・ソジュンの演技が怖かった。


あの人は、

ジウが必死に心の奥へしまい込んできた感情を、

あまりにも容易く、引き出してしまう。


まるで、

ずっと昔の自分を、

誰よりも正確に知っている人のように。


一方、

ソジュンは灯りの消えた家へ帰ってきた。

コートも脱がないまま、

ソファへどさりと身を預ける。

部屋の中は暗かった。

ソジュンはいつもの癖でテレビの電源を入れた。

音量は、ほとんど聞こえないくらいまで下げる。


バラエティ番組が流れていた。

誰かが大きな声で笑い、

誰かが拍手をしている。

ソジュンはリモコンを手に取り、

チャンネルを一つずつ変えていった。

ニュース。

ドラマ。

映画。

何を映しても、

目には入ってこなかった。


静かに揺れるテレビの明かり。

明るすぎず、

暗すぎもしない。

そのくらいが、ちょうどよかった。


しばらく黙って座っていたソジュンは、

テーブルの上に置かれていた一冊の本を手に取った。

角が擦り切れ、

背表紙がやわらかく反った本。

ページの間からは、

色あせた付箋が何枚ものぞいていた。

何度も何度も読み返した痕跡だった。


『初雪と括弧』

イ・ジウ。


ソジュンは、この一冊が自分をどこまで連れてきてくれたのかを、

誰よりもよく知っていた。

不合格のメッセージだけで終わっていた夜。

そんな夜を越えさせてくれた文章。

そして、

今の自分がいる場所。


長いあいだ、愛し続けてきた作品。

長いあいだ、会いたいと願い続けてきた人。


けれど、

実際に出会ったイ・ジウは、

思っていたよりも、ずっと難しい人だった。


ソジュンはソファにもたれたまま、

静かに笑った。


今日、撮影現場で――

キム・ソヌと肩の力を抜いて笑っていたジウの姿が、ふと頭に浮かんだ。


「……私には、ああしてくださらないのに。」

小さくつぶやく。

少しだけ寂しくて。

少しだけ嫉妬して。

何より、そのことが気になって仕方がなかった。


ソジュンは、ゆっくりとページをめくった。

そして、静かに思う。


――それでも、いい。


人には、それぞれの歩く速さがある。

一歩で近づいてくる人もいれば、

十歩後ろへ下がってから、

ようやく一歩を踏み出せる人もいる。

彼女は、きっと後者なのだろう。

だから、待つことができた。


今度こそ。

決して、

逃すつもりはないのだから。



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