Episode 5 名前のない人
午後のカフェは静かだった。
窓際に座ったジウは、冷めていくコーヒーカップを両手で包みながら、窓の外を眺めていた。
外では、授業を終えた学生たちが何人かずつ連れ立って歩いている。
友人と笑いながら話す者もいれば、
分厚い専門書を胸に抱え、足早に通り過ぎていく者もいた。
涼しい風が吹くたびに、街路樹の葉が軽く揺れた。
濃かった緑は少しずつ色を薄め、
季節はいつの間にか、秋へ向かって歩き始めていた。
時間は、いつもそうだった。
人が気づくよりも先に、
静かに流れていってしまう。
ジウはカップを持ち上げ、コーヒーをひと口飲んだ。
もうすっかりぬるくなっていた。
いつ冷めたのかもわからないほど、長いあいだ考え込んでいたらしい。
先ほどから同じページを開いたままだったが、一行も読めていなかった。
原稿を閉じては、
もう一度開き、
結局、静かに鞄の中へしまった。
ふと、そんなことを思った。
この速さで時間が流れていくのなら。
自分もいつの間にか三十を過ぎ、
四十を過ぎ、
五十、六十へと歩いていくのだろう。
時間は、いつだって待ってくれなかった。
そのとき。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、短く震えた。
制作会社からだった。
少し迷った末に、電話に出る。
「……はい。」
通話は長くなかった。
今日は、英文学科の教授役を務める俳優の初撮影の日だった。
制作スタッフは、できれば撮影現場へ来てほしいと頼んだ。
「原作の空気を、いちばんよくご存じの方ですから。」
「今日の俳優さんも、ぜひ先生のお話を伺いたいとおっしゃっています。」
丁寧な頼み方だった。
簡単には断れないほどに。
電話を切ったジウは、窓に映る自分の姿をしばらく見つめた。
乱れた髪を整え、
服の襟元を軽く直す。
撮影現場へ行くことには、今もまだ慣れなかった。
正確には。
あの場所へ行くと、いくつもの感情が一度に揺さぶられた。
過去を思い出し。
ハン・ソジュンを思い出し。
説明しにくい緊張が、一日中、胸の中に残った。
だからいつも。
撮影現場へ行った日は、不思議なくらい普段よりも疲れた。
――キム・ソヌ。
ジウは心の中で、その名前を一度だけ呼んでみた。
繊細な感情表現で知られる俳優。
キャスティングの知らせを初めて聞いたときから、よく似合う人だと思っていた。
英文学科の教授は、
誰かの心を揺さぶる人ではなく、
静かにそばを守る人だった。
相手がつらいと言わなくても先に気づき、
それをわざわざ表には出さない人。
温かさを見せるのではなく、
安心だけを残していく人。
だから、華やかな演技よりも、
自然なぬくもりのほうが大切な人物だった。
キム・ソヌは、そんな空気を持った俳優だった。
だからだろうか。
今日初めて会うその俳優のことが、
少しだけ気になった。
ジウは静かに息を吐くと、席を立った。
会計を済ませてカフェのドアを開けると、涼しい秋風が頬をかすめていった。
しばらく空を見上げたあと、
ゆっくりと撮影現場へ向かった。
撮影現場は、大学の講義室だった。
廊下には太いケーブルが長く延び、
照明スタッフたちが慌ただしく機材を運んでいた。
モニターの前で、たった今撮影した場面を確認している人もいれば、
台本にメモを書き込みながら、俳優と動線を合わせている人もいた。
講義室の中では、学生役の端役俳優たちが数人ずつ集まり、リハーサルをしている。
笑い声と台詞を練習する声が入り混じり、
撮影現場は今日も忙しく動いていた。
ジウは、顔なじみになったスタッフたちへ挨拶をした。
「こんにちは。」
「先生、いらっしゃったんですね。」
「こんにちは。」
あちこちから、親しげな挨拶が返ってきた。
初めて撮影現場へ来た頃は、何もかもが見慣れなかった。
けれど何度か顔を出すうちに、
スタッフたちの顔も一人、また一人と覚えるようになっていた。
ジウは小さく笑い、頭を下げた。
人の視線が長く自分に留まることには、今も慣れなかった。
そのため自然と、講義室の後方――
モニターは見えるが、人の目にはつきにくい場所を探して静かに腰を下ろした。
膝の上に台本を置き、ゆっくりと最初のページを開く。
今日撮影する場面を、もう一度確認しようとした、そのときだった。
とん。
肩先が、ほんの軽く触れた。
「すみません。」
低く、柔らかな声だった。
ジウが顔を上げる。
キム・ソヌだった。
「こんにちは、先生。」
近くで見る彼は、思っていたよりもずっと細身だった。
控えめな笑み。
負担を感じさせない目の合わせ方。
初対面の人なのに、不思議なくらい緊張しなかった。
「イ・ジウ先生でいらっしゃいますよね?」
「……はい。」
ジウが小さく笑いながらうなずくと、
ソヌもつられるように笑った。
「ひと目でわかりました。」
「そうですか?」
「はい。」
少しためらったあと、ソヌは言葉を続けた。
「実は今日、先生にご挨拶できることをいちばん楽しみにしていたんです。」
「……私にですか?」
「原作を本当に楽しく読ませていただきました。」
「撮影に入る前に、もう一度読み返しましたし。」
「今日ここへ来る途中にも、いくつかの場面を読み直しました。」
ジウは少し驚いた顔をした。
原作を読んだと言う俳優は多かった。
けれど、ひとつの文章を掴まえ、問いを投げかけてきた人は初めてだった。
「特に英文学科の教授を読んでいて、一つ気になったことがありました。」
「……どうして最後まで、名前がないんだろうって。」
ジウの瞳が、ごくかすかに揺れた。
ソヌはゆっくりと言葉を続ける。
「最初は、何かの間違いかと思ったんです。」
「もしかして、名前をつけるのを忘れたのかなって。」
小さく笑いながら、首を横に振る。
「でも、もう一度読んでみたら違いました。」
短い沈黙。
「名前がないからこそ、成立する人だったんですね。」
ジウは黙ったまま、ソヌを見つめた。
「チョン・ウジンは、名前で記憶される人です。」
「でも、教授は……」
ソヌはしばらく考え込み、それから微笑んだ。
「……名前ではなく、心で記憶される人でした。」
「……『あしながおじさん』のように。」
その瞬間。
ジウの呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。
ソヌは静かに続けた。
「後ろから、黙って応援してくれて。」
「つらいときには、そっと手を差し伸べてくれて。」
「いつも一歩後ろを歩いてくれる人。」
「そう思いながら読んでいるうちに。」
「きっと、名前は必要なかったんだと思いました。」
しばらく微笑んだあと、
ソヌは小さく言い直した。
「いえ……」
「もしかすると。」
「その人だけは、別の名前で呼びたくなかったんじゃないですか?」
「……」
ジウは何も言えなかった。
その言葉を聞いた瞬間、
胸の片隅が、とても静かに揺れた。
「……鋭いですね。」
しばらくして、ジウは笑いながら口を開いた。
「本当に、きちんと読んでくださったんですね。」
その瞬間、ソヌの表情がぱっと明るくなった。
「わあ。」
「先生に褒めていただけた。」
いたずらっぽく笑いながら、照れたように頭をかく。
「今日の撮影。」
「なんだか、うまくいきそうです。」
ジウは、また笑ってしまった。
無理に作った笑顔ではなかった。
本当に久しぶりに。
心が楽だからこそ、自然にこぼれた笑みだった。
そのときだった。
講義室のドアが静かに開いた。
誰かが入ってくる気配に、ソヌが先に視線を向けた。
ジウもゆっくりと顔を上げる。
ハン・ソジュンだった。
台詞合わせに来た彼は、ドアの前で一瞬、足を止めた。
講義室の後ろ。
並んで話している二人。
そして。
久しぶりに、心から楽しそうに笑っているジウ。
ソジュンはその姿を、何も言わず見つめていた。
ほんの一瞬。
その眼差しが、かすかに揺れた。
ジウがあんなふうに気を許して笑う顔を、
初めて見た気がした。
胸の奥のどこかが、妙に熱くなる。
この感情が何なのか。
わざわざ名前をつける必要はなかった。
ただ。
気に入らなかった。
それでもソジュンは、何事もないような顔で笑った。
まるで何も感じていなかったかのように、
ゆっくりと二人のもとへ近づいていく。
「何をそんなに楽しそうに話しているんですか?」
聞き慣れた声に、
ソヌが先に笑った。
「先生に褒めていただいていたんです。」
「なるほど。」
ソジュンはゆっくりとうなずいた。
そして、ごく自然に、
ジウの隣の空いている席へ腰を下ろした。
「……私は、まだ一度もいただいていませんけど。」
ジウは思わず彼を見た。
ソジュンは笑っていた。
いつもと同じように。
けれど。
すぐそばにいる人だけが気づけるほど、
その笑い目の端が、ほんの少しだけ切なそうに見えた。




