Episode 4 レモンキャンディ
「カット!」
監督の声がスタジオに響いた。
モニターを見つめるその表情には、隠しきれない満足そうな笑みが浮かんでいる。
「いいですね。もう一回いきましょう。」
スタッフたちのあちこちから、感心したような声が漏れた。
「今回のキャスティング、本当に大成功でしたね。」
「役との相性が抜群ですよ。」
ジウは、ただ黙ってモニターを見つめていた。
教壇に立つチョン・ウジン。
出席簿をめくる手が、ほんの一瞬だけ止まる。
その視線が、学生たちの中に座るイ・ジウへと向けられた。
その瞬間だった。
瞳が、ごくわずかに揺れる。
それはほんの一瞬の変化だった。それだけなのに。
モニターの前に流れる空気が、静かに変わった。
向かいに座るソ・ヨヌも、小さく息をのむように彼を見つめている。
二人は何も言わない。言葉は、交わされない。
それでも。
その沈黙には、言葉よりも多くの想いが流れていた。
ジウは思わず息をのんだ。
たしかに、自分が書いた物語だった。
けれど。
モニターの中では、もう自分だけの物語ではなくなっていた。
チョン・ウジンとイ・ジウ。
二人は今、この場所で、もうひとつの『初雪と括弧』を紡いでいた。
そんな気がした。
「いいな。」
監督が満足そうに頷く。「想像していた以上だ。」
スタッフたちも次々とうなずいた。
「二人の空気感、本当にいいですね。」
「相性がすごくいい。」
「絶対バズりますよ。」
ジウは何も言えなかった。
そのときだった。
「先生。」
明るい声とともに、ソ・ヨヌが近づいてきた。
「こんにちは。ちゃんとご挨拶したかったんですけど、今日になっちゃいました。」
ジウも小さく微笑み返した。
「こんにちは。」
「撮影、いかがですか?」
ヨヌは照れくさそうに肩をすくめる。
「思っていたより難しいですね。原作を読んでいるときは何とも思わなかったのに、いざ演じてみると……。」
少し笑って続けた。
「どうしてあの二人は、あんなに何も言わなかったんだろうって。」
ジウはモニターに映ったまま止まっている映像から目を離さず、静かに答えた。
「私にも……よくわからないんです。」
少しだけ笑う。
「今になって思えば、私ももどかしくて。」
ヨヌは何度もうなずいた。そして、ふいに目を輝かせる。
「でも私、チョン・ウジンが大好きだったんです。」
ジウは思わず笑った。
「そうなんですか。」
「はい。完全にチョン・ウジン派です。だって、気持ちを隠せない人じゃないですか。言葉にしなくても、目を見れば、仕草を見れば、全部伝ってくる。何を考えているかわからない人より、私はそういう人のほうが好きです。」
少し照れたように笑ってから、続けた。
「それに……かわいそうでした。悪いことなんて何もしてないのに。ただ、タイミングが少しずれただけ。」
その言葉に。
ジウの瞳が、かすかに揺れた。
――タイミング。
その一言だけが、不思議なほど深く胸に沈んでいく。
ヨヌはそんなことには気づかないまま、笑顔を浮かべた。
「でも。チョン・ウジンも素敵ですけど……。」
少し照れながら、視線をソジュンへ向ける。
「正直、ハン・ソジュンさんのほうがもっと素敵です。」
ジウもつられるように笑った。
「そうですか。」
「実際に会うと反則ですよ。」
ヨヌは小さく笑う。
「さっきの目の演技なんて……私、本当にドキッとしちゃいました。」
そう言って、少し離れた場所にいるソジュンを見つめた。
ジウも、何気なくその先へ視線を向ける。
ソジュンはスタッフたちと穏やかに話をしていた。
いつもの撮影現場。それだけの光景だった。
なのに。
胸の奥が、少しだけ苦しくなる。
さっきまで自分は、二人の芝居を見ていたはずだった。
それなのに、いつの間にか。
ヨヌがソジュンを見つめる、その眼差しを見ていた。
そして、そのことが。
どうしてなのか。
心に引っかかった。
まだ、自分でも名前を知らない感情だった。
ジウはゆっくりと立ち上がった。
「どちらへ?」
ヨヌの声に、小さく笑って答える。
「少し、風に当たってきます。」
そのまま逃げるように廊下へ出ようとした、そのときだった。
「先生。」
低く、穏やかな声が背中を呼び止めた。
ジウの心臓が、小さく跳ねる。
ゆっくり振り返ると、そこにはソジュンが立っていた。
撮影で着ていたチョン・ウジンのジャケットを、まだそのまま羽織っている。
まるで、役からまだ完全には戻りきれていないようだった。
「どこか、お加減でも悪いんですか。」
周囲ではスタッフたちが慌ただしく行き交っている。
誰が聞いても、俳優が原作者に向ける、ごく自然な気遣いだった。
けれど。
ジウは、すぐには答えられなかった。
さっきまで自分は、何を見ていたのか。
どうして急に、あの場所にいられなくなったのか。
その理由が、ようやく少しだけわかった気がした。
ソジュンは何も言わない。ただ静かに、ジウを見つめていた。
その視線が、固くなった彼女の指先にふと留まる。
そして、ゆっくりと顔へ戻った。
揺れる瞳を見つめたまま、ソジュンは小さく息をのむ。
けれど、何も言わない。
急ぎすぎてはいけない。
今、必要なのは。近づく勇気ではなく、待つ勇気だから。
「もし、ご都合がよろしければ……」
少しだけ言葉を切り、ソジュンはやわらかく微笑んだ。
「今日の撮影が終わったあと、少しだけ、お話しできませんか。」
ジウは驚いたように彼を見つめた。
「……はい。」
短い返事だった。それだけで十分だった。
ソジュンはそれ以上何も聞かなかった。
「では、あとで。」
それだけ言って、静かにその場を離れていく。
ジウはその背中を見送りながら、ゆっくり息を吐いた。
不思議だった。
さっきまで胸を締めつけていた苦しさが、今度は違う理由で、静かに鼓動へ変わっていた。
最初の撮影は、予定よりも少し長引いた。
秋学期の始まりを迎えたキャンパスには、いつの間にか冷たい夜の空気が降りてきていた。
スタッフたちは機材を片づけ、俳優たちも一人、また一人と控室へ戻っていく。
ジウは机の上に置いていた台本を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。
昼から続いていた感情の余韻は、まだ静かに胸の奥を揺らしていた。
「先生。」
約束どおり、と言うように。
聞き慣れ始めたその声が、再び彼女を呼び止める。
ジウはゆっくりと足を止め、振り返った。
そこにはソジュンが立っていた。
チョン・ウジンという役はもう脱いでいるはずなのに、不思議とその眼差しだけは、まだどこか役の続きを生きているようだった。
「今日の撮影は……いかがでしたか。」
言葉を選ぶように、静かな口調で尋ねる。
「ヨヌさんと私の芝居は。チョン・ウジンとジウの想いは……ちゃんと伝わっていましたか。」
ジウはすぐには答えられなかった。
視線を伏せたまま、小さく息をつく。
「……はい。」
「よかったです。」
その一言だけで十分だというように、ソジュンは穏やかに微笑んだ。
ジウは軽く頭を下げ、その場を離れようとする。
そのとき――
ふいに。
肩先が、かすかに触れた。
引き止めるためではない。抱き寄せるためでもない。
ただ、すれ違う二人の距離が、ほんの少しだけ近かった。それだけだった。
けれど、その一瞬で、ジウの足は止まっていた。
ソジュンは、近づきすぎない距離のまま静かに口を開いた。
「私は――」
小さく笑う。
「言わないという選択より、伝えるという選択のほうが、好きです。」
その視線が、ゆっくりとジウに重なる。
「言わないままだと、伝わらないことが、多すぎますから。」
その一言が、不思議なくらい長く胸に残った。
まるで、ずっと昔から誰かに伝えたかった言葉のように。
ジウが何も返せずにいると、ソジュンは空気を和らげるように小さく笑った。
いたずらっぽく片目をつぶってみせた。
そして――
そっと、彼女の手のひらに小さなものを乗せた。
黄色いレモンキャンディ。
「……キャンディ?」
ジウの指先が、ぴくりと震えた。
ソジュンは何気ない口調で言う。
「撮影現場では、皆さんよく食べているみたいですよ。緊張したときに効くらしいので……。先生も、一つどうぞ。」
どこまでも自然な言い方だった。
けれど――ジウの心臓だけは、少しも平静ではなかった。
ソジュンは知らない。
ジウが現実でも、苦しいときには、涙を飲み込まなければならないときには、息が詰まるほど緊張したときには、いつもこの黄色いレモンキャンディを口に入れることを。
偶然というには、あまりにも出来すぎていた。
まるで彼は――小説の中のイ・ジウではなく、現実のイ・ジウを読んでしまった人のようだった。
「……また明日、お会いしましょう。先生。」
ソジュンは軽く頭を下げると、そのまま静かに歩き去っていった。
ジウは手のひらに残されたレモンキャンディを見つめた。
そっと指を閉じる。
黄色いレモンキャンディ。
いつもそうだった。
涙をこらえるときも、息が苦しくなるほど緊張したときも、心が壊れてしまいそうな夜も。
口に含めば、不思議と少しだけ落ち着くことができた。
なのに――今日は違った。
キャンディは、胸の高鳴りを鎮めてはくれなかった。
むしろ、必死に止めていた心臓を、もう一度、静かに動かし始めてしまった。
ジウは最後まで、遠ざかっていくソジュンの背中を呼び止めることができなかった。
ソジュンもまた、振り返ることはなかった。
ただ――
歩き続けるその横顔に、ほんのわずかな微笑みが浮かぶ。
(少しでも……届いていたら、嬉しいです)




