Episode 3 始まりの予感
逃げるように会議室を飛び出したジウは、建物の入口で足を止めた。
冷たい風が頬をかすめる。
激しく脈打つ心臓を落ち着かせようと大きく息を吸い込んだが、ほとんど意味はなかった。
やがてバッグの中を探り、いつものレモンキャンディーを一粒取り出して口に含む。
甘さのあとに広がるほのかな酸味。
それでも、さっきオーディション会場で向けられたあの眼差しは消えてくれなかった。
――ハン・ソジュン。
……あなたはいったい、何者なの。
ジウはその考えを振り払うように強く首を振った。
そして小さく息を整え、もう一度会議室のドアを開ける。
中ではまだ、ソジュンの話題が続いていた。
「本当に驚きました。」
「あれだけ演じられたら、もう決まりでしょう。」
「演技というより、チョン・ウジン本人でしたよ。」
監督がジウの姿に気づき、穏やかな声で言った。
「先生、お戻りでしたか。」
「では、結論を出しましょう。」
「チョン・ウジン役は、ハン・ソジュンさんでいきたいと思います。」
ジウはしばらく黙ったままだった。
やがて静かに口を開く。
「……私は反対です。」
その一言で、会議室は静まり返った。
「どうしてですか?」
「演技は申し分なかったでしょう。」
ジウはしばらく言葉を探し、ゆっくりと顔を上げた。
「……ハン・ソジュンさんは、最初から知りすぎている人として演じていました。」
制作スタッフたちが顔を見合わせる。
「どういう意味でしょうか。」
ジウは少しだけ目を伏せた。
「チョン・ウジンは、そういう人ではありません。」
そして静かに続けた。
「自分の気持ちには、誰よりも正直な人でした。」
「でも、人の気持ちを先に読み取れる人ではなかった。」
「誰かを理解するのは、いつも少しだけ遅かったんです。」
誰も口を開かなかった。
沈黙だけが部屋を満たしていく。
ジウはゆっくり息を飲み込んだ。
「でも、ハン・ソジュンさんは違いました。」
その声はかすかに震えていた。
「……最初から、すべてを知っている人のように演じていたんです。」
そして、小さく首を振る。
「……あれは、私が書いたチョン・ウジンではありません。」
監督は少し考え込むように視線を落とした。
やがて穏やかに口を開く。
「先生のおっしゃることは、よくわかります。」
「ですが、今日ご覧になったはずです。」
「ハン・ソジュンさんは、誰よりも説得力をもってチョン・ウジンを生きていました。」
監督は一拍置いた。
「私たちが作るのは、小説の複製ではありません。」
「ドラマという新しい作品です。」
「だからこそ――」
監督は静かに結論を告げた。
「私たちは、ハン・ソジュンさんが最適だと判断しました。」
ジウは唇を噛んだ。
反論できなかった。
できないことが、何より苦しかった。
問題は演技ではない。
あまりにも正確だった。
あまりにも深く、知りすぎていた。
まるで、自分でさえ文章の奥底に隠していた感情まで読み取られてしまったようだった。
けれど、その理由だけは誰にも説明できなかった。
監督が静かに締めくくる。
「それでは、決定します。」
「チョン・ウジン役は、ハン・ソジュンさんで。」
ジウはゆっくりと目を閉じた。
胸の奥で、何かが静かに動き始める。
それが何なのか、まだわからない。
けれど一つだけ、はっきりしていた。
何かが始まろうとしている。
――――――――――――――――
その夜――。
ジウは家へ帰っても、しばらく灯りをつけることができなかった。
玄関のドアにもたれたまま、ただ立ち尽くしている。
会議室の空気。
ハン・ソジュンの眼差し。
そして最後に聞いた、あの言葉。
「私は喜んで、待つという選択をします。」
その一言が、いつまでも耳の奥に残っていた。
ようやくバッグを床へ置き、リビングへ入る。
握りしめていたレモンキャンディーの包み紙は、手の汗で少しだけ皺になっていた。
「おかえり。」
リビングから、いとこのスジンが顔をのぞかせる。
「今日、オーディションだったんでしょ?」
「どうだった?」
ジウは、すぐには答えられなかった。
その表情を見たスジンは、ふざけた笑みをすっと引っ込める。
「どうしたの?」
「何かあった?」
ジウはしばらく立ち尽くしていたが、力が抜けるようにソファへ腰を下ろした。
「……変な人に会った。」
「変な人?」
ジウは少し間を置いて、小さく呟く。
「……私の文章の余白まで読んでしまった人。」
スジンは眉をひそめた。
「ちょっと待って。」
「それ、どういう意味?」
「演技が上手かったってこと?」
「それとも、その人が変だったってこと?」
長い沈黙のあと、ジウはようやく口を開く。
「……どっちも。」
「でも、それって原作をちゃんと理解してくれたってことでしょ?」
「……違う。」
ジウはゆっくり首を振った。
「そんなレベルじゃなかった。」
少し息を整え、静かに続ける。
「ハン・ソジュンがチョン・ウジンを演じていたのに……」
「……私が書いたチョン・ウジンより、本物だった。」
スジンはますます首をかしげた。
「それなら、すごい演技だったってことじゃない。」
「なのに、どうして怖いの?」
ジウは答えなかった。
長い沈黙が部屋を包む。
やがて、ぽつりと呟いた。
「私の知っているチョン・ウジンは、自分の気持ちには正直な人だった。」
「でも……私の気持ちには気づけなかった。」
「私を理解するのは、いつも少しだけ遅かった。」
ジウは目を閉じる。
「だけど……」
小さく息を吸う。
「ハン・ソジュンは違った。」
「最初から、私が口にしなかったことまで知っている人みたいだった。」
リビングに静けさが落ちる。
ジウは視線を落としたまま、小さな声で言った。
「私が文章の下に隠しておいたものまで……全部見つけられてしまった気がした。」
スジンは困ったように笑う。
「初めて会った作家を、そんなふうに読み取れるものなの?」
「……だから怖かった。」
ジウは力なく微笑んだ。
「もう、演技なんかじゃなかった。」
「私より私のことを知っているように見えた。」
少し息を整え、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「私を見る、あの眼差し。」
「迷いなんて、ひとつもなくて……」
「何もかも知っていると信じている人の話し方で。」
しばらく沈黙が続く。
「……まるで。」
「私の文章じゃなくて。」
「……私自身を読んでいる人みたいだった。」
スジンはしばらく何も言えなかった。
やがて遠慮がちに尋ねる。
「それで……キャスティングは?」
ジウはゆっくりと首を振る。
「決まった。」
「……彼に。」
「最後まで反対したのに。」
スジンは目を丸くした。
「それでも?」
ジウは静かに目を閉じる。
「……反対できなかった。」
あの演技は間違っていなかった。
むしろ、あまりにも正確だった。
だからこそ怖かった。
だから――
受け入れるしかなかった。
窓の外では、夜風がカーテンを静かに揺らしている。
終わったはずだと、自分ではそう思っていた物語が。
今度は別の誰かの姿を借りて、
もう一度、動き始めようとしている。
そんな予感だけは、どうしても消せなかった。
その夜。
ジウは、なかなか眠りにつくことができなかった。
――――――――――――――――
二週間後。
ドラマ『初雪と括弧』、クランクインの日。
慌ただしく行き交うスタッフたちの間で、照明が一つ、また一つと灯っていく。
やがて撮影現場は、不思議なほど静まり返った。
ジウは小さく息をのみ、モニターの前に立つ。
その先に――
もうチョン・ウジンになっているハン・ソジュンの姿があった。
ジウがゆっくりと視線をモニターへ移した、その瞬間。
パンッ。
鋭くカチンコが鳴り響く。
「レディ。」
一拍置いて、
「スタート。」
その瞬間――
予感だったものは、
もう予感ではなくなっていた。
静かに。
けれど確かに。
二人の物語は、動き始めた。




