Episode 2 気づいて、口にしなかったこと
ドアが閉まると、会議室の空気がほんのわずかに変わった。
「それでは、オーディションを始めます。」
制作スタッフの声に、人々が少しずつ動き始める。名前が呼ばれ、俳優たちが一人ずつ前へ出ていった。
「ハン・ソジュンさん。」
静かに順番を待っていたソジュンが目を開く。席を立ち、ゆっくりと前へ歩き出した。正面に立ったとき、彼は台本を手に取らなかった。ただ静かに立ち、ほんの一瞬だけ視線を横へ流す。原作者、イ・ジウが座っている方向だった。
彼女はうつむいたまま台本を見つめている。けれどソジュンにはわかっていた。直接目を上げなくても、自分を意識している視線というものは感じ取れる。
――行動は早く。でも、押しつけはしない。
ずっと前から決めていた自分なりのルールを思い出しながら、ソジュンは静かに息を吸った。
「始めます。」
その瞬間、小さなオーディション会場の空気が静まり返った。ソジュンはテーブルの上に台本をゆっくりと置く。紙が触れる音だけが不思議なほど鮮明に響いた。
「台本をご覧いただいて構いません。」
「大丈夫です。」
ソジュンは一歩前へ出た。ほんのわずかに目を閉じ、再び開いたとき、彼の眼差しはすでに別人のものになっていた。チョン・ウジン。その名を胸に刻みながら、静かに語り始める。
「この場面で大切なのは――」
力みのない、低く穏やかな声だった。
「――私たちが何を選んだかではありません。」
誰かのペンが止まる。
「――何を言わなかったか、です。」
その瞬間だった。
何気なく台本をめくっていたジウの指先が、わずかに止まる。
――え……?
ジウはゆっくりと顔を上げた。胸の奥が妙に疼く。今の言葉は聞き覚えがあった。いや、誰よりもよく知っている言葉だった。
『初雪と括弧』の中にある、チョン・ウジンの講義シーン。ジウ自身が何度も書き直し、最後まで残した文章だった。
なのに不思議だった。
同じ言葉のはずなのに、まるで違って聞こえた。まるで、自分が書いたときでさえ気づかなかった意味を、誰かが代わりに見つけ出してしまったかのように。
「人は――」
ソジュンの台詞が続く。ほんの短い沈黙。その間の取り方さえ、奇妙なほど見覚えがあった。
「言わないという選択をします。引き留めないという選択をし、去るという選択をします。」
ジウの瞳が大きく揺れた。頭の中が真っ白になっていく。無理やり蓋をしていたあの日の冬の空気が、会議室へ一気に流れ込んでくるようだった。
あの日の沈黙。あの日の距離。最後まで互いを引き留められず、背を向けるしかなかった記憶。
――この人……どうして知っているの?
それは単に演技の上手い俳優の台詞回しではなかった。本当にあの夜を通り抜けた人だけが持つ呼吸だった。
ソジュンはゆっくりと顔を上げる。そして会議室の奥に座るジウを、まっすぐ見つめた。
「――それは、愛じゃなかったからではなく。」
ジウは息を呑んだ。
「――愛だったからです。」
完璧な静寂が訪れた。
ジウは小さく唇を噛んだ。涙が滲まないよう必死にこらえながら、視線を落とす。
この人は、私の過去を知っている。そうとしか思えなかった。見ず知らずの俳優に、自分の最も痛く深い記憶をまるごと見透かされてしまったような、めまいにも似た恐怖がジウを静かに覆った。
「以上です。」
ソジュンが頭を下げる。
「ハン・ソジュンさん、少し外でお待ちください。」
ドアが閉まると同時に、会議室はざわめきに包まれた。
「すごい……。」
「チョン・ウジン本人が入ってきたのかと思った。」
「これはもう決まりでしょう。」
その中で、ジウは青ざめた顔を上げた。
「……演技は素晴らしかったです。」
「ですよね?」
ジウは静かに続けた。
「ですが。」
空気が再び静まり返る。
「この俳優ではありません。」
「え? どうしてですか?」
説明できなかった。自分の内側をあまりにも見透かされそうで怖い、とは言えないから。演技が間違っていたのではない。あまりにも本物すぎたのだ。
「……この人は、この物語を知りすぎています。」
「それって、むしろ良いことじゃないですか?」
ジウは首を横に振った。
「……これは、演技ではありません。」
会議室の外。廊下の端に座っていたソジュンは静かに息を吐いた。
――やっぱり、気づいたか。
しばらくしてドアが開き、ジウが足早に出てくる。
ソジュンは彼女の進む先へ、そっと一歩だけ近づいた。道を塞がない距離で。
「先生。」
ジウの足が止まる。その瞳がかすかに揺れた。
「原作にあった文章でした。」
ソジュンは静かに言った。
「……私の解釈は、間違っていましたか。」
ジウは息を呑む。
それは単なる質問ではなかった。
本当にそんな意味で、あの文章を書いたのか。
あの言葉の奥に、語られなかった物語があるのではないか。
まるでそう問いかけられているようだった。
答えを見つけられないジウを見ながら、ソジュンは一歩横へ退いた。
「もし先生が最後まで、言わないという選択をされるのなら――」
深い眼差しが揺れる彼女の視線を受け止める。
「私は喜んで、待つという選択をします。」
ジウはその場に立ち尽くした。
この男の言葉一つひとつが、自分の築いた壁を揺らしていく。
結局何も言えないまま、彼女は逃げるように廊下の奥へ歩いていった。
振り返らないその背中を見送りながら、ソジュンは静かに目を細めた。
大丈夫です。
少しくらい遅くても。
私はずっと前から、あなたを待ってきた人ですから。




