Episode 1 文章を読む人
『初雪と括弧』を読んでくださった皆さま、お久しぶりです。
あとがきで少しだけお話しした新しい物語を、
ようやくお届けできることになりました。
『あなたの文章を愛していた』は、
『初雪と括弧』と同じ世界観で描かれる、
もうひとつの物語です。
前作で語られなかったこと。
言葉にならなかった想い。
そして、
「伝わる愛」について書いてみたいと思いました。
今回は毎週金曜日21時に更新予定です。
また皆さまと一緒に、
この物語を歩いていけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
『あなたの文章を愛していた』
Episode 1 文章を読む人
ハン・ソジュンは、同じページを長いこと見つめていた。
もう三度目だった。
正確には、同じ一文を三度読み返していた。
控室は静かだった。
壁掛け時計の秒針の音と、廊下の向こうから聞こえてくる足音だけが、薄く染み込むように響いている。
テーブルの上には、ドラマの台本とミネラルウォーター、それから誰かが飲みかけのまま置いていったぬるいコーヒーが雑然と並んでいた。
その中で――
彼の手にあったのは、一冊の古びた小説だった。
『初雪とかっこ』
何度も読み返された本は、不思議と人の体温に似てくる。
角は丸く擦り減り、背表紙は柔らかくしなり、何度も開かれたページは誰より先に記憶を宿す。
ソジュンは親指でページの下端をゆっくりとなぞった。
彼は、この本を初めて読んだ夜を今でも覚えていた。
まだ無名だった頃のことだ。
オーディションを一つ終え、また一通の不合格通知を受け取った日だった。
あの夜、彼はまっすぐ家へ帰らなかった。
帰ったところで何も変わらないと知っていたからだ。
地下鉄駅の近くにある小さな書店へ入り、しばらく店内を歩き回ったあと、何となくこの本を手に取った。
最初はタイトルに惹かれただけだった。
変わった題名だと思った。
初雪。
そして、かっこ。
まるで交わることのない二つの言葉が並んでいるようだった。
だが数ページも読まないうちに、彼は気づいた。
これはタイトルで記憶される本ではない。
文章で心に残る本なのだと。
大げさな告白はない。
世界をひっくり返すような事件もない。
誰かが恋をして、
誰かはそれに気づかず、
誰かは最後まで問いかけることができなかった。
それなのに――
その静けさのほうが、ずっと大きかった。
感情のない文章ではない。
感情を最後まで堪え抜いた文章だった。
初めて読んだ夜、彼は本を閉じることができなかった。
そして思った。
これは想像だけで書かれた文章ではない。
実際に誰かを長いあいだ見つめ続けた人だけが書ける文章だ。
言葉にできなかった記憶を抱え、
それでも消すことができずに書き残した人だけが綴れる文章だ。
そのとき初めて、
ソジュンは「イ・ジウ」という名前を心の中にしまった。
作家の名前だった。
けれど不思議なことに、
それはただの名前には思えなかった。
静かな横顔。
一度くらい振り返ったことのありそうな後ろ姿。
簡単には笑わないのに、一度笑えば長く心に残りそうな人。
彼はその作家に会ったことがなかった。
写真も、
インタビューも、
あえて探そうとはしなかった。
知ってしまったら、何かが変わってしまう気がしたからだ。
この文章を書いた人が、
あまりにも具体的な顔を持ってしまったら、
自分が受け取った感情まで軽くなってしまう気がした。
ソジュンは昔から、人を顔より先に感情で覚えるタイプだった。
言葉の終わりを少し曖昧にする癖。
質問をされたとき、すぐには答えず一瞬だけ息を整える仕草。
「大丈夫」と言いながら、その指先にはまったく大丈夫ではない力が入っている瞬間。
そういうものを、彼はよく見ていた。
だから俳優になったのかもしれない。
いや――
正確には、だからこそ続けてこられたのかもしれない。
周囲の人たちは彼を見て、「遅咲きの俳優」だと言った。
運が来るのが遅かった人。
ようやく光を浴びた人。
長い苦労の末に這い上がってきた人。
間違ってはいない。
だがソジュン自身は知っていた。
自分に足りなかったのは才能ではない。
その才能を必要とする作品と、巡り合わせだったのだと。
早く花開く人もいる。
理解されるまでに時間のかかる人もいる。
彼はきっと後者だった。
感情を深く読む人は、
たいてい世界を少し遅れて歩く。
その代わり、一度誰かの心に届けば深く残る。
ソジュンは再び本へ視線を落とした。
一つの文章が目に留まる。
彼は静かに唇を開き、
声を出さずにその一文をなぞった。
――言わないほうを選んだ人の想いは、たいてい長く残る。
ソジュンは小さく笑った。
あまりにも正確だった。
この作家は、人の心を知っている。
いや――
自分の心を長い時間見つめ続けてきた人なのだ。
だからこそ、もっと知りたかった。
イ・ジウとは、どんな女性なのだろう。
二人の男の心をこれほど揺らしながら、
肝心の自分は静かに一歩引いていた人。
引き留めることもなく、
確かめることもなく、
想いの重さを言葉ではなく文章として残した人。
彼女はどんな顔で、
あの冬を越えたのだろう。
どんな眼差しで、
この世界を見ているのだろう。
「ハン・ソジュンさん。」
ドアの向こうからスタッフの声が聞こえた。
ソジュンはゆっくり顔を上げた。
「ご準備お願いします。」
今日はドラマ『初雪とかっこ』のオーディション当日だった。
多くの俳優が応募し、
制作陣はすでに何度も候補を絞り込んでいるらしかった。
それでもソジュンは不思議と緊張していなかった。
彼がここへ来た理由は、
ただ良い役だったからではない。
チョン・ウジンという人物を演じたいからだけでもなかった。
ソジュンは本を閉じた。
まるで何かを傷つけないように、
とても静かに。
そして表紙を手のひらでそっと押さえた。
チョン・ウジンのことは理解できた。
彼の沈黙も、
不器用な傲慢さも、
遅すぎた後悔も。
英文学科の教授のことも理解できた。
相手の呼吸を先に読み、
求められる前に優しさを差し出せる人。
けれどソジュンは、
どちらにも憧れてはいなかった。
一人からは決断を学び、
もう一人からは理解を学んだ。
そして心の中で、ずっと前から決めていたことがある。
愛だと確信したら、ためらわないこと。
けれど相手が怖がる方法では、決して近づかないこと。
行動は早く。
でも、押しつけはしない。
ソジュンは立ち上がった。
鞄に本をしまおうとして、
ふと手が止まる。
今日、この場には――
原作者も来るらしい。
「原作者立会いあり」
その短い案内を見たとき、
彼は何でもないふりをした。
だが本当は違った。
今日、
あの文章を書いた人に会えるかもしれない。
胸の奥が、ほんの少しだけ沈む。
その感覚をソジュンは知っていた。
緊張より静かで、
ときめきより長く残る感覚。
スタッフがもう一度声をかけた。
「どうぞ。」
ソジュンはドアへ向かった。
ドアノブに手をかける直前、
ほんの一瞬だけ目を閉じる。
そして思った。
もし本当に会えたなら、
自分は彼女だとわかるだろうか。
写真も見たことがない。
声も知らない。
どんな表情をするのかも知らない。
それなのに――
なぜか、わかる気がした。
文章を読むということは、
結局、人を読むことだから。
長く読み続けた文章は、
やがてその人の歩き方や沈黙の中にも姿を現す。
ソジュンはドアを開けた。
まず目に入ったのは、白く明るい照明だった。
長いテーブル。
整然と並べられた台本。
数人の制作スタッフ。
会議室特有の乾いた空気。
そしてその中へ、
ちょうど入ってきた誰かの後ろ姿が見えた。
静かな足取り。
派手さのない服装。
人前に立つことに慣れた人ではなく、
できるだけ目立たないようにしている人の佇まい。
それなのに不思議と、
真っ先に目が向いた。
ソジュンは一瞬だけ息を止めた。
理由は説明できなかった。
まだ顔すらよく見えていないのに、
すでに何か確かなものが胸の中へ入り込んできていた。
――ああ。
そんな感覚だった。
誰かがその人へ声をかける。
「イ・ジウ先生、こちらへどうぞ。」
先生。
ソジュンは顔を上げた。
そしてその瞬間、
初めて彼女の顔を見た。
華やかな美人ではなかった。
目を引く美しさというより、
気づけばもう一度見てしまう顔だった。
静かにしているだけなのに、
なぜか思考を止めてしまうような空気を持っている。
何より――
彼女の表情には、
ソジュンが長いあいだ読み続けてきた文章の質感があった。
感情を簡単には外へ出さない人。
話し始める前に、
一度だけ心を内側へ折りたたむ人。
静かだけれど、
決して弱くはない人。
ソジュンにはわかった。
確認したのではない。
気づいたのでもない。
ただ、わかったのだ。
文章を読んで人を知るなんて、
誰かにとっては現実味のない話かもしれない。
けれど彼にとっては、
昔からごく自然なことだった。
だから――
彼はその場で静かに確信した。
イ・ジウ。
あの文章を書いた人。
ソジュンは何も言わなかった。
ただ台本を手に取り、
ゆっくりと自分の立ち位置へ向かう。
物語は、
ここから始まる。




