Episode 19 先生のだから、食べたんです
ソジュンが帰ったあとも、
ジウはなかなか眠れなかった。
ベッドに横になり、
何度も寝返りを打った。
ソジュンへの想いは、
膨らんでいくばかりだった。
もう、気づかないふりなどできないほどに。
けれど、その想いを見せることも。
ソジュンの気持ちを受け入れることも、
怖かった。
長いあいだ閉ざしていた部屋の扉を、
もう一度開いて。
その中へ誰かを招き入れて。
また一人、取り残されてしまったらどうしよう。
今度こそ本当に。
もう二度と、
立ち上がれなくなる気がした。
心は何度も彼のもとへ向かおうとするのに。
頭は、始めてはいけないと言い続けていた。
そうして一晩中、
心と頭のあいだを行ったり来たりしているうちに。
いつの間にか、
窓の外がぼんやりと明るくなり始めていた。
結局ジウは、
ほとんど一睡もできないまま朝を迎えた。
───
翌日の撮影現場。
誰が見ても寝不足だとわかる顔で現れたジウに、
真っ先に気づいたのはソヌだった。
ソヌはしばらくジウの顔を見つめてから、
静かに近づいてきた。
「先生。」
ジウが顔を上げた。
「昨日、眠れなかったんですか?」
ジウは少し照れくさそうに笑った。
「はい。ちょっと寝つけなくて。」
そして自分の顔を指先で示しながら尋ねた。
「そんなに顔に出てます?」
「顔色、かなりひどいですよ?」
ソヌはそれ以上答える代わりに、
手にしていたコーヒーと、
色とりどりのマカロンが入った小さな袋を差し出した。
「そうだろうと思って、持ってきたんです。」
「疲れてるときは、カフェインと糖分を一緒に補給しないと、なかなか生き返れませんからね。」
ジウは思わず笑って受け取った。
「ありがとうございます。」
マカロンを一口かじった。
まず、やわらかな甘さが口いっぱいに広がり。
続いて飲んだコーヒーの、
ほろ苦い香りが口の中に残った。
一晩中、重く沈んでいた頭が、
少しだけすっきりしていくようだった。
ジウはコーヒーカップを持ち上げて笑った。
「本当に、ちょっと目が覚めてきました。」
「おかげで助かりました。」
ソヌもつられて笑った。
それからしばらくジウの顔をうかがい、
遠慮がちに尋ねた。
「何かあったんですか?」
「眠れなくなるほどのことが。」
ジウの手が、
コーヒーカップを持ったまま一瞬止まった。
「たいしたことじゃないんです。」
何となく視線を逸らし、
小さく笑った。
「ただ、あれこれ余計なことを考えてしまって。」
ソヌは、
ジウの瞳が一瞬揺れるのを見た。
けれど、それ以上は尋ねなかった。
「そうですか。」
それだけだった。
話したくない人に、
無理に答えを求めないこと。
それがソヌの優しさだった。
しばらくして、
ソヌは何でもないことのように話題を変えた。
「ところで、先生。」
「はい?」
「僕、今ものすごくお腹が空いてるんですけど。」
ソヌはお腹を一度さすりながら言った。
「一緒にご飯を食べに行く相手がいなくて。」
「先生も、まだ食事してませんよね?」
「はい、まだです。」
「この撮影現場の近くに、有名なお店があるらしいんです。」
ソヌは少し間を置いてから笑った。
「一緒に来てもらえませんか?」
「一人で食べるのって、どうにもつまらなくて。」
思いがけない誘いに、
ジウは少しためらった。
「あ……。」
そんなジウを見ると、
ソヌはすぐに一歩引いた。
「無理なら大丈夫ですよ。」
「僕はまあ、一人で食べればいいだけですから。」
そう言いながらも、
どこか残念そうな表情を浮かべているソヌに。
ジウはとうとう笑った。
「行きます。」
「そんなにお腹が空いてたら、次の撮影はどうするんですか。」
ソヌの顔に、
たちまち笑みが広がった。
「やっぱり、先生だけですね。」
「行きましょう。」
ソヌが先に身体の向きを変えた。
ジウもそのあとについて、
数歩歩き出そうとした。
そのときだった。
服の袖口が、
そっと引っ張られた。
ジウが足を止めた。
「どこへ行くんですか?」
聞き慣れた声。
ジウは驚いて振り返った。
そこには、
撮影を終えたばかりのソジュンが立っていた。
撮影のせいなのか、
額にはまだ少し汗が浮かんでいた。
「俳優さん?」
ソジュンはジウの袖口をつかんだまま、
一度ソヌを見た。
そして再びジウに尋ねた。
「どこへ行くんですかって、聞いてるんです。」
「あ……。」
ジウはなぜか慌てて答えた。
「ソヌさんが、一人でご飯を食べるのは嫌だって。」
「一緒に行ってほしいと言うので……。」
ソジュンの視線が、
ゆっくりとソヌへ向かった。
ソヌは二人を交互に見た。
ジウの袖口をつかんでいる、
ソジュンの手。
そして、それがあまりにも当然のことのように立っているソジュン。
最後に。
いつもとは違って、
妙に慌てているジウの顔まで。
ソヌの眼差しが、
ほんの一瞬だけ変わった。
けれど、何も尋ねなかった。
代わりに平然と言った。
「ちょっと腹が減っててね。」
「でも、一人で食べるのも嫌なんだよな。」
その言葉を待っていたかのように、
ソジュンがすかさず口を挟んだ。
「じゃあ、私も一緒に行きます。」
ジウが目を丸くした。
「え?」
「私だって、お腹が空いてるんです。」
ソジュンは、
それが当然だという顔でソヌを見た。
ソヌはそんなソジュンを、
じっと見つめた。
そしてやがて、
まったく仕方がないなというように小さくため息をつき、
頷いた。
「わかった。」
「一緒に行こう。」
そこでようやく、
ソジュンの口元がわずかに上がった。
ジウはそんな二人を、
交互に見つめた。
どういうわけか。
三人で一緒に、
昼食を食べに行くことになった。
───
撮影現場の近くにある有名な定食屋には、
あらかじめ電話を入れておいたおかげで。
三人はほかの客の目につかない、
奥の個室へと案内された。
扉が閉まるなり、
ソジュンはあまりにも自然にジウを奥の席へ座らせた。
そして、すかさずその隣を陣取った。
ソヌはその様子を見ると、
やれやれと首を横に振った。
結局、ジウの向かいに腰を下ろした。
ソジュンは何も知らない人のように、
無邪気に笑った。
「私たち三人で食事に来るのって、初めてじゃないですか?」
あたりを一度見回すと、
おどけた調子で言った。
「この組み合わせも、悪くないですね。」
ソヌは黙っておしぼりの袋を開け、
ジウに差し出した。
続いてグラスに水を注ぎ、
ジウの前に置いた。
するとソジュンも、
待ってましたとばかりに箸とスプーンを用意した。
スプーンと箸をきちんと揃え、
ジウの前に置いた。
ジウは水の入ったグラスと、
スプーンと箸を交互に見つめた。
そしてソヌを一度。
ソジュンを一度。
……これ、いったい何なの?
目の前で繰り広げられる奇妙な状況に、
どう反応すればいいのかわからず。
ただ、視線だけが忙しく行き来していた。
───
しばらくすると、
料理が一品、また一品と運ばれてきた。
丁寧に盛りつけられたおかずが、
テーブルいっぱいに並んだ。
食事が始まると、
ソヌがジウに優しく尋ねた。
「どうですか? お口に合います?」
ジウはナムルを一口食べると、
ぱっと明るく笑った。
「はい。お料理が上品で、とてもおいしいです。」
「人気のお店なのも納得です。」
向かいに座るソヌも笑った。
そのときソジュンは、
何も言わずジウの箸の動きを見つめていた。
肉よりも、
ナムルや野菜のおかずに何度も箸が伸びる様子。
しばらくすると、
大きな手が一つ、そっとおかずの皿を動かした。
ジウがよく食べていたナムルの皿が、
少しずつ彼女の近くへ寄せられていった。
ジウの箸が、
宙で一瞬止まった。
ソジュンは何もしていないかのように、
平然とご飯を食べていた。
ジウはそんなソジュンを、
ちらりと見た。
頬が少しずつ赤くなった。
何となくうつむき、
黙ってご飯を食べ続けた。
その姿を、
向かい側からソヌが静かに見つめていた。
───
それから間もなく、
ジウが箸を置いた。
ご飯はまだ半分ほど残っていた。
先に尋ねたのはソヌだった。
「もう食べないんですか?」
心配そうな視線がジウに向けられた。
「どこか具合でも悪いんですか?」
「いいえ。」
ジウは少し照れくさそうに笑った。
「さっきコーヒーとマカロンを食べたからかもしれません。」
「もうお腹がいっぱいで。」
そのときだった。
大きな手が一つ。
ジウの前に置かれたご飯茶碗を、
何でもないように持ち上げた。
「……え?」
ソジュンだった。
彼はジウが食べ残したご飯茶碗を自分の前へ引き寄せると、
あまりにも自然にスプーンでご飯をすくい、
食べ始めた。
ジウの目がまん丸になった。
「は、は、俳優さん!」
慌てた声が飛び出した。
「それ、私が食べてたご飯ですよ。」
ソジュンはスプーンを口にくわえたまま、
ジウを見た。
そして何でもないように言った。
「それがどうかしました?」
再びご飯を一口食べた。
「私、ちょうどこれくらい足りなかったんです。」
「……。」
ジウの顔が一瞬で赤くなった。
今度は耳の先まで、
真っ赤に染まっていた。
言葉さえ、うまく出てこなかった。
「いえ、でも、それは……。」
ソジュンはジウがどうしてそんなに慌てるのかわからないという顔で、
平然とご飯を食べ続けた。
その様子を見ていたソヌも、
思わず目を見開いた。
そして初めて。
ソジュンを少し長く見つめた。
何でもない顔で、
ジウが食べていたご飯を食べている人。
ためらいも、
遠慮もなかった。
そのときようやく、
ソヌはわかった気がした。
自分が思っていたよりも。
ハン・ソジュンの想いは、
ずっと深いところまで届いていたのだと。
そして、ふと。
ソヌの視線がジウへ向かった。
耳まで真っ赤にしたまま、
意味もなく水ばかり飲んでいるジウ。
再びソジュンへ視線を戻した。
ソヌは何も言わず、
グラスを持ち上げて水を一口飲んだ。
三人は食事を終え、
撮影現場へ戻ってきた。
それぞれコーヒーカップを手に、
並んで座りながら青い空を見上げた。
今日に限って、
空がひときわ美しかった。
青い絵の具を薄く溶かしたような空に、
大小さまざまな雲が思い思いに流れていた。
雲のあいだから、
陽の光が差し込んでいた。
三人はしばらく何も言わず、
同じ場所を見つめていた。
その静けさを先に破ったのは、
ソジュンだった。
「こうしてると、私たち、まるで大学生みたいじゃないですか?」
ソジュンが無邪気に笑いながら言った。
「三人でご飯を食べて、コーヒーを飲みながら、こうして座ってると。」
少し空を見上げてから、
付け加えた。
「授業の前に、眠気を覚ましに出てきた大学生みたいです。」
ソヌは思わず笑い、
頷いた。
「こういうのも悪くないですね。」
それからふと、
ジウを見た。
「ずっと先の未来に、先生が思い返すあの日々の中に。」
「今日という日も、一日くらい入っているんじゃないでしょうか。」
ジウはソヌを見つめてから、
再び顔を上げて空を見た。
しばらくして、
ゆっくりと口を開いた。
「そうですね。」
「いつかは……。」
「今、私たちが一緒に息をしている、この時間も。」
「この場所も。」
「この空気も。」
一度言葉を止めたジウは、
二人を振り返り、
満面の笑みを浮かべた。
「胸が締めつけられるほど、恋しくなる日が来るんでしょうね。」
そして再び空を見上げた。
「だからこそ、今この瞬間が大切なんだと思います。」
ソヌとソジュンは、
そんなジウを見つめていた。
二人の眼差しが、
ほんの一瞬だけ揺れた。
誰も言葉を続けなかった。
ただ三人のあいだを、
午後遅くの風が静かに通り過ぎていった。
───
しばらくして。
撮影の時間が近づいたソヌが、
先に立ち上がった。
「じゃあ、僕は先に行きますね。」
「はい。撮影、頑張ってください。」
ジウが笑顔で見送った。
ソヌが遠ざかると、
ベンチにはソジュンとジウの二人だけが残った。
しばらく静かだった。
ジウは手にしたコーヒーカップをもてあそびながら、
ふとソジュンのほうを見た。
さっきから、
どうしても気になっていたことが一つあった。
「俳優さん。」
「はい?」
ジウは本当に不思議そうに、
目を丸くして尋ねた。
「普段から、ほかの人が食べ残したご飯を、あんなふうに食べるんですか?」
ソジュンがジウを見た。
そして、
ふっと笑いながら言った。
「私、誰の食べ残しでも平気な男じゃありませんよ。」
ジウが目を瞬かせた。
ソジュンはしばらく何も言わなかった。
手にしたコーヒーカップをゆっくりと回しながら、
再び空を見上げた。
しばらくして。
まるで何でもないことのように、
言った。
「先生のだから、食べたんです。」
ジウの手が止まった。
「……。」
ソジュンはたいしたことではないというように、
コーヒーを一口飲んだ。
むしろ、
何も言えなくなったのはジウのほうだった。
顔がゆっくりと熱くなっていった。
以前なら。
ただの冗談だと思っていたかもしれない。
ハン・ソジュンは、
もともとこういう人だから。
いたずら好きで。
素直で。
人を戸惑わせるようなことを、
何でもない顔で言ってしまう人。
けれど今は、
わかっていた。
彼が自分に向けてくれる言葉は、
少しも軽いものではないのだと。
山の中で、
自分の名前を呼んでいた声も。
怪我をした足首のために、
薬を山ほど買ってきてくれたことも。
自分の好きなおかずを、
何も言わずそっと近くへ寄せてくれたことも。
そして、ついさっき。
自分が食べ残したご飯を、
何でもないように食べていたことも。
ジウはふと思った。
これまで自分は。
この人の想いを、
どれほどたくさん。
冗談という言葉で、
受け流してきたのだろう。
ソジュンは何も急かさなかった。
ただ、最初から今まで。
自分なりのやり方で。
ずっと伝え続けていただけだった。
ジウは黙って、
ソジュンを見つめた。
そのとき、
ソジュンが小さく首を傾げた。
「どうしてそんなに見るんですか?」
ジウははっとして視線を逸らした。
「何でもありません。」
「何でもないって顔じゃないですけど。」
「何でもないって言ってるでしょう。」
ジウは意味もなく、
コーヒーを一口飲んだ。
ソジュンはそんなジウを見て、
小さく笑った。
そして再び空を見上げた。
ジウも少し遅れて、
同じ場所を見つめた。
さっきとまったく同じ空だった。
なのに、不思議だった。
さっきまでとは。
違って見えた。




