Episode 18 文章よりも、あなたを愛するようになった
ソジュンは記事を見るなり、
所属事務所の代表のもとへ向かった。
代表室のドアを開けて入ると、
すぐにスマートフォンの画面を机の上に置いた。
「これ。」
ソジュンの声が低く沈んだ。
「代表の仕業ですよね?」
代表は画面をちらりと見下ろした。
「この前、みんなで食事会をしたときに撮られた写真じゃないですか。」
ソジュンは必死に怒りを抑えた。
「あの日、どうしてヨヌさんを私の車で帰らせたのか。」
「今になって、ようやくわかりました。」
代表はたいしたことではないというように、
指先で眼鏡を一度直した。
「悪いことじゃないだろう。」
「スキャンダルのおかげで視聴率はさらに上がるし、二人とも話題の中心になれる。」
代表は机の端に置いてあった書類を、
ソジュンの前へ押し出した。
「これを見ろ。」
広告の契約書だった。
「広告のオファーが一気に来てるんだ。その半分以上がカップルでの広告だぞ。」
ソジュンは書類に目もくれなかった。
「たったそれだけのために、こんなことをしたんですか?」
代表の口元から笑みが消えた。
「たったそれだけ?」
「お前には、これがたったそれだけのことに見えるのか?」
「今、お前のギャラがどれだけ跳ね上がったかわかってるのか?」
ソジュンの表情が硬くなった。
「私はそんなこと、望んだ覚えはありません。」
しばらく沈黙が流れた。
ソジュンは代表をまっすぐに見つめた。
「今日中に、きちんとした訂正記事を出してください。」
「出していただけないなら。」
一拍置いた。
「代表とは、もう契約を更新しません。」
代表の眉がゆっくりと上がった。
「お前が今、こんなことを言うのは。」
しばらくソジュンを見つめた。
「……あの作家のせいだろう?」
ソジュンの顔が強張った。
「どうしてここで先生の話が出てくるんですか?」
代表はその反応を見逃さなかった。
「ほらな、ほら。」
「お前はあの女の話が出るだけで変わる。」
「話し方から行動まで。」
代表は椅子の背にもたれながら言った。
「そもそも、お前はあの女への接し方からして違うんだ。」
「俺はそれが、どうにも気に入らない。」
「関わったところで、何一ついいことなんかない。」
ソジュンはしばらく何も言わなかった。
やがて、
ひどく低い声で言った。
「先生のことを、軽々しく言わないでください。」
代表がソジュンを見た。
「今日中に訂正記事を出してください。」
「私からお伝えすることは、それだけです。」
ソジュンはそのまま背を向けた。
ドアが閉まった。
代表はしばらく、
閉じられたドアを見つめていた。
そしてゆっくりと眼鏡を直した。
───
廊下に出たソジュンは、
すぐにスマートフォンを取り出した。
ジウに電話をかけた。
呼び出し音が長く続いた。
出なかった。
もう一度かけた。
やはり出なかった。
ソジュンの胸に、
焦りが少しずつ募っていった。
もしかして、記事を見たんだろうか。
見たはずだ。
何を思っただろう。
もしかして。
誤解したんじゃないだろうか。
ソジュンはもう、
じっとしていられなかった。
すぐに車のキーを取り出した。
───
一方。
ジウは仕事部屋に座り、
ずっと次回作を書いていた。
いや。
書いているふりをしていた。
一文を書いては消し。
また書いて。
また消した。
どうしても、
次の一文へ進めなかった。
それでも、
画面だけを見つめ続けた。
わざとそこへ、
意識のすべてを向けた。
ほかのことを考えないように。
何も考えずに済むように。
机の端に伏せて置いたスマートフォンが、
何度も鳴っていた。
けれどジウは気づかなかった。
いや。
もしかしたら、
気づきたくなかったのかもしれない。
そのときだった。
ピンポーン。
突然のインターホンの音に、
ジウが顔を上げた。
「……誰だろう?」
誰かが来る予定はなかった。
まして、こんな時間に。
ジウはゆっくりと玄関へ歩いていき、
ドアを開けた。
そして。
そのまま固まった。
「……俳優さん?」
ドアの前に、
ハン・ソジュンが立っていた。
どれほど息を切らしていたのか、
肩が小さく上下していた。
ジウは信じられないというように、
一度目をこすった。
そしてもう一度、見た。
本当にハン・ソジュンだった。
「どうしてここに……」
「違います。」
ジウの言葉が止まった。
ソジュンは一度息を整え、
もう一度言った。
「記事に出ていたこと。」
「事実じゃありません。」
ジウはしばらく、
ソジュンを見つめた。
そして静かに言った。
「……知ってます。」
ソジュンの瞳が揺れた。
「事実じゃないことくらい、わかってます。」
その言葉を聞いた瞬間、
ソジュンの顔に一瞬、安堵が浮かんだ。
けれど、
すぐに消えた。
ジウの顔が、
少しも大丈夫そうには見えなかったからだ。
「私は……。」
ソジュンはジウの目を見つめた。
「先生が誤解してるんじゃないかって、どれだけ気が気じゃなかったか。」
ジウは無理に笑ってみせた。
「とりあえず、入ってください。」
「落ち着いて。」
「何か飲み物、持ってきますね。」
───
二人はソファに並んで座った。
テーブルの上には、温かいコーヒーが二杯置かれていた。
しばらく、どちらも先に口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは、ジウだった。
「そのために、わざわざここまで来たんですか?」
ソジュンは迷うことなく頷いた。
そして今日、代表に会って何を話したのか、ゆっくりと説明した。
食事会の席で撮られた写真だったこと。
ヨヌと同じ車に乗るように仕向けたのも、代表の意図だったこと。
訂正記事を出すよう求め、それができないなら契約を更新しないと告げたことまで。
話しているあいだ、ソジュンの表情は次第に硬くなっていった。
ジウはそんなソジュンを、黙って見つめていた。
いつも明るく笑い。
軽い冗談を言い。
何の悩みもない人のように見えていた、ハン・ソジュン。
けれど、その華やかな姿の裏には、自分の知らないものがあった。
彼が背負わなければならないもの。
望んでいなくても、耐えなければならないもの。
誰かにとっては憧れの的であるその場所が。
もしかしたら彼にとっては、耐えなければならない重荷でもあるのかもしれなかった。
ジウはふと、そんなソジュンが痛ましく思えた。
それなのに。
心の片隅は、さらに重くなっていった。
ジウはしばらくコーヒーカップだけを見つめていたが、静かに口を開いた。
「全部、わかりました。」
「でも……。」
カップを包む指先に、少しだけ力がこもった。
「お二人、とてもお似合いでした。」
ソジュンがジウを見た。
「写真を見ていたら、そんなことを思ったんです。」
「ソジュンさんと私は……。」
ジウは無理に笑った。
「生きている世界が違う人間なんじゃないかって。」
「ソジュンさんには、ヨヌさんでも、それ以外の誰でも。」
「あちらの世界にいる綺麗な人たちのほうが、似合う気がするんです。」
「先生。」
「それに。」
ジウはソジュンの言葉を遮るように、少し急いで続けた。
立ち止まってしまったら、もう何も言えなくなりそうだった。
「ソジュンさんは、勘違いしているんです。」
ソジュンの眼差しが硬くなった。
「私のことが好きなんじゃなくて。」
一瞬、息が詰まった。
ジウは必死に、何でもない顔を作った。
「私の文章に夢中になっているだけなんです。」
「長いあいだ好きだった作品を書いた人だから。」
「その人が、目の前に現れたから。」
「だから、一時的に勘違いしているだけなんです。」
言葉を重ねるほど、胸の奥から喉元まで痛んだ。
込み上げてくる涙を、必死に飲み込んだ。
「時間が経てば、わかると思います。」
「だから……。」
ジウはようやく言葉を続けた。
「もう、私たち。」
「これ以上、近づかないようにしましょう。」
静まり返った。
ソジュンは何も言わず、ジウを見つめていた。
そしてゆっくりと身体の向きを変え、ジウと正面から向き合った。
「勝手に私の気持ちを決めつけないでください。」
低く、揺るぎのない声だった。
ジウが顔を上げた。
「自分の気持ちは、誰よりも私自身がよくわかっています。」
「そうじゃなかったら、最初から始めていません。」
「俳優さんは……。」
「そうです。」
ソジュンが言った。
「最初は、先生の文章でした。」
ジウの瞳が揺れた。
「その文章が好きで、何十回も読み返しました。」
「その文章に支えられて、耐えてこられました。」
「だから、その文章を書いた人がどんな人なのか、知りたくなったんです。」
ソジュンは一度、言葉を止めた。
そしてジウを見つめた。
「でも、実際に会ってみたら。」
声が、もう少し低くなった。
「文章には書かれていなかった先生の姿が、見え始めたんです。」
ジウの瞳が、ゆっくりと揺れた。
「人の中にはいくつもの部屋があると話していた先生も。」
「嫉妬しているのに、そうじゃないふりをして、台本ばかり見つめていた先生も。」
ジウの唇が、ほんのわずかに震えた。
「山の中で怖くなって、泣いていた先生も。」
「手で望遠鏡を作って、本当に見えるって一人で喜んでいた、ちょっと変わった先生も。」
ジウはもう、ソジュンの目を見ることができなかった。
視線を落とそうとした、その瞬間。
ソジュンの声が続いた。
「そんな姿は、本のどこにも書かれていなかったでしょう?」
ジウの視線が止まった。
「私が好きになったのは。」
「そんなイ・ジウなんです。」
ソジュンはゆっくりと、
ジウの目を見つめた。
「先生が書いた文章は、先生そのもので。」
「先生自身もまた、その文章なのかもしれません。」
「でも、今は……。」
一度、息を整えた。
「むしろ、先生の書いた文章よりも。」
「……先生のことを、もっと愛するようになったんです。」
ジウの目元が赤くなった。
「文章は。」
ソジュンがほんの少し笑った。
「私たちをつないでくれた、きっかけにすぎません。」
ジウは何も言えなかった。
最初は、自分の文章を愛してくれた人。
その文章をたどって、
自分のところまで歩いてきてくれた人。
けれど今、その人は。
文章にさえ書けなかった自分の姿まで、
一つひとつ覚えていてくれた。
「だから。」
ソジュンが静かに言った。
「私が誰を愛しているのかまで。」
「先生が代わりに決めないでください。」
ジウの目から、
とうとう堪えきれなくなった涙が一粒、こぼれ落ちた。




