Episode 17 嫉妬じゃないと言った
一つのシーンの撮影が終わった。
ソジュンは監督と短く言葉を交わしたあと、
誰かに呼ばれるより先に、ジウが座っている場所へ向かった。
まるで最初から、
そこが自分の居場所だったかのように。
ジウは、台本の最後の修正作業に集中していた。
撮影が進むにつれて変わった動線や台詞を確認し、
括弧の中に小さな文字でメモを書き加えているところだった。
ソジュンはジウの好きなコーヒーを、
彼女の手が届きやすい場所へそっと置いた。
そして、その隣に座った。
ジウはペンを走らせていた手を、
しばらく止めた。
コーヒーを見て。
その隣に座ったソジュンを見た。
ソジュンは作業の邪魔をしないように、
何も言わなかった。
ジウの口元に、
小さな笑みが広がった。
彼女は再び、
台本へ視線を落とした。
ソジュンもスマートフォンを取り出した。
両手の親指で素早く画面を叩いていたかと思うと、
突然うつむいて笑った。
ところが、しばらくすると。
今度は眉を寄せ、
ひどく真剣な顔で画面を見つめている。
写真をめくって。
また戻って。
しばらく悩んだ末に、
何かを選んだ。
そして少しすると、
また一人で笑っていた。
台本の修正をほとんど終えたジウは、
そんなソジュンをちらりと見た。
いったい何をしているんだろう。
あんなふうに笑ったかと思えば、
急に真剣な顔になったりして。
ジウはペンを置き、
ソジュンのほうへ少し身体を傾けた。
画面はよく見えなかった。
もう少しだけ。
一歩分、近づいた。
ソジュンとスマートフォンを交互に見ながら、
ジウが尋ねた。
「何してるんですか?」
画面に集中していたソジュンの肩が、
ぴくっと揺れた。
「いつから見てたんですか?」
「今からです。」
ジウはスマートフォンを指差した。
「何をそんなに一生懸命やってるのかなって。」
「あ。」
ソジュンはすぐに笑い、
スマートフォンの画面をジウのほうへ向けた。
「ファンのみんなと話してたんです。」
画面には、
ファンコミュニケーションアプリのメッセージ画面が開かれていた。
「ファンのみんなが送ってくれるメッセージって、本当に面白いものが多いんですよ。」
ソジュンは、
さっきまで読んでいたメッセージを見せた。
ジウも内容を読んで、
思わず笑った。
「面白いですね。」
「でしょう?」
「うちのファン、本当に面白いんですよ。」
ソジュンは再び画面をスクロールした。
「読んでると、私もこうやって一人で笑っちゃうんです。」
「でも、さっきはどうしてあんなに真剣だったんですか?」
「写真を選んでたんです。」
「写真?」
「はい。送ろうと思って。」
ソジュンは、
並んでいる何枚かの写真を見せた。
「どんな写真なら喜んでくれるかなって考えてると、慎重になるんです。」
「待ってくれてるのに、適当なものを送るわけにはいかないでしょう?」
彼は一枚の写真を選び、
メッセージ画面に載せた。
そして短い言葉と一緒に、
ハートをいくつか添えた。
ジウは目を細め、
画面を見下ろした。
一つ。
二つ。
三つ。
画面のあちこちへ、
ハートが飛んでいった。
ジウがソジュンを見た。
「俳優さんのハート、あっちこっちによく飛んでいきますね。」
「はい?」
「何でもないです。」
ジウは何でもない顔で、
再び台本を手に取った。
ソジュンはそんなジウを、
しばらく見つめた。
そして。
口元に浮かびそうになる笑みを、
ぐっと押し殺した。
「私のファンへの愛が、あまりにも深いもので。」
わざととぼけたように言ってから、
もう一つハートを送った。
ジウの視線が、
また画面へ向かった。
「いいですね。」
「何がですか?」
「彼女が何十万人もいて。」
ソジュンは、
唇をきゅっと結んだ。
けれど堪えきれない笑いが、
何度も口元からこぼれそうになった。
ジウは少しむっとした顔で、
彼を見た。
「なんで笑うんですか?」
ソジュンはうつむいたまま、
下唇を軽く噛んだ。
そしてようやく笑いを堪えながら、
尋ねた。
「先生。」
「何ですか?」
「もしかして、嫉妬してます?」
ジウの目が大きくなった。
「嫉妬?」
声が少し高くなった。
「誰が?」
「私がですか?」
「はい。」
「いいえ。」
ジウはきっぱりと答えた。
「全然。」
ソジュンが、
ジウのほうへ顔を近づけた。
「違うな。」
「何がですか?」
「これは完全に、嫉妬してるジウなのに。」
「違うって言ってるでしょう。」
ジウの顔が、
みるみる赤くなった。
ソジュンはもう隠そうともせず、
明るく笑った。
「先生が嫉妬してくれるのは嬉しいですけど。」
「嫉妬じゃなくて。」
ジウは意味もなく、
軽く喉を整えた。
「羨ましいだけです。」
ソジュンの笑みが、
少しだけ静まった。
「何が羨ましいんですか?」
ジウは答えず、
ファンからのメッセージが流れ続ける画面を見下ろした。
さっきまでのいたずらっぽい表情が、
ゆっくりと穏やかなものへ変わっていった。
「俳優さんを応援してくれる人が、こんなにたくさんいることです。」
ソジュンも、
ジウにつられるように画面を見た。
「私に春と冬があったように。」
「俳優さんには、ファンの人たちがいたんでしょう?」
ソジュンの視線が、
ジウへ移った。
「つらいとき、そのたびにもう一度立ち上がれるようにしてくれた人たち。」
ジウは画面に映るメッセージを、
ゆっくりと読み進めた。
「ハン・ソジュンという人を直接知っているわけでもないのに。」
「演技を見て信じて、待って、好きでいてくれたんでしょう?」
ファンから届いた応援の言葉が、
画面の上を次々と流れていた。
ずっと昔の、
小さな役の名前を覚えているという人。
つらかった時期に、
ソジュンの演技を見ながら耐えたという人。
次の作品も、
待っているという人。
ジウが静かに言った。
「そんなにたくさんの人が、一人の人を応援するために集まるって。」
「考えてみれば、奇跡みたいなことですから。」
ソジュンの顔から、
さっきまでのいたずらっぽさが消えた。
無名の時期が長くなればなるほど。
自分より先に疲れ、
離れていく人も多かった。
平気なふりをして笑い。
何でもない顔で、
オーディション会場をあとにした日々。
そんなときも。
自分が出演した場面を見つけ出し。
ほんの短い台詞一つまで、
覚えていてくれる人たちがいた。
次は、
もっと長いシーンで見たいと。
ずっと待っていると。
そんな言葉が一つ。
また一つと積み重なって。
今のハン・ソジュンを、
ここまで連れてきてくれた。
ソジュンはしばらく、
何も言えなかった。
やがて。
ジウを見つめて、
笑った。
「嫉妬してくれてるんだと思って、喜んでたのに。」
ジウがすぐに言い返した。
「だから、違うって言ってるでしょう。」
「どうしてまた、人を感動させるんですか。」
ジウはペンを手に取り、
台本へ視線を落とした。
「本当のことを言っただけです。」
「だからですよ。」
ソジュンはまだ、
ジウを見つめていた。
「先生は本当のことを言って、何度も人を感動させるんだから。」
ジウは答えなかった。
ただ。
台本の上にペンを置いたまま。
しばらく、
次の一文字を書くことができなかった。
そのとき、
助監督がソジュンを呼んだ。
「ハン・ソジュンさん。」
「次のシーン、準備します。」
「はい。」
ソジュンは席を立った。
そしてスマートフォンを持ち上げ、
もう一度ジウに画面を見せた。
「ハート、もう一つ送ってもいいですか?」
ジウがソジュンを見上げた。
「どうしてそれを私に聞くんですか?」
「また嫉妬するかもしれないから。」
「しないって言ってるでしょう。」
ソジュンは笑いながら、
画面をタップした。
ハートが一つ。
再びメッセージ画面へ飛んでいった。
「行ってきます。」
「早く行ってください。」
ジウは追い払うように手を振ったけれど。
ソジュンが撮影現場へ戻っていくまで、
その口元から笑みが消えることはなかった。
───
しばらくして。
撮影現場の入口のあたりが、
少し騒がしくなった。
ジウが顔を上げた。
見覚えのない男が、
スタッフたちの挨拶を受けながら中へ入ってきていた。
丸い黒縁眼鏡をかけた男だった。
手には、
差し入れの袋を持っていた。
男は撮影中のソジュンとヨヌを眺めてから、
ジウのいるほうへ視線を向けた。
二人の目が、
一瞬だけ合った。
男は先に、
人のよさそうな顔で笑った。
けれどなぜか。
ジウはその人と、
長く目を合わせていたくなかった。
ジウは先に視線を逸らし、
再び撮影現場へ目を向けた。
「カット!」
監督の声が響いた。
撮影を終えたソジュンとヨヌが、
スタッフたちの間を抜けて歩いてきた。
男は待っていたかのように、
二人へ近づいた。
「おい、うちのドラマの顔のお二人さん。」
手にしていた差し入れの袋を差し出しながら、
笑った。
「これでも食べて、また撮影頑張って。」
そして二人を交互に眺めると、
人懐っこい調子で付け加えた。
「最近、二人って本当に付き合ってるんじゃないかって噂でもちきりだけど。こうして見ると、本当にカップルみたいだな。」
ヨヌが笑い声を上げた。
「そうでしょう?」
いたずらっぽく、
ソジュンのほうを見た。
「ソジュンオッパが、あまりにも演技が上手だから。」
そして笑いながら付け加えた。
「私はソジュンオッパとこんな噂になるの、悪くないですけど?」
その瞬間。
ソジュンの顔から、
笑みが消えた。
「何を言ってるんですか。」
声は低かったが、
きっぱりとしていた。
「冗談にも限度がありますよ。」
ヨヌの目が丸くなった。
ソジュンは、
それ以上何も言わなかった。
そして自然に、
視線を別の場所へ向けた。
そう遠くないところ。
テーブルの前に座っている、
ジウが見えた。
ジウは台本を見ていた。
いや。
正確には。
見ているふりをしていた。
さっきの会話は、
すべて聞こえていた。
ソジュンがはっきりと一線を引いたことも、
聞いていた。
それなのに。
なぜか。
直すところなどないページを、
一枚めくった。
何の罪もないペンを、
指先でもてあそんだ。
ついさっきまでは。
ファンが羨ましいと言えた。
何十万人も彼女がいるみたいだと、
冗談だって言えた。
なのに。
ヨヌの言葉には。
どうして同じように、
冗談で返すことができないんだろう。
ソジュンはそのまま、
ジウのほうへ歩いてきた。
トントントン。
誰かが指先で、
テーブルの上を三度軽く叩いた。
ジウは、
テーブルへ視線を落とした。
見慣れた手が見えた。
ゆっくりと顔を上げる。
ソジュンだった。
「何をそんなに見てるんですか?」
「私が来たことにも気づかないで。」
ジウはなぜか慌てて、
再び台本へ視線を落とした。
「台本です。」
「直すところでもあるんですか?」
「探してるところです。」
ジウはページを一枚めくった。
ソジュンは台本をちらりと見下ろした。
「そこ、さっきも見てたページですけど。」
ジウの手が止まった。
「もう一度見ることだってあるでしょう。」
「そうですね。」
ソジュンは素直に頷いた。
けれど。
ジウを見つめるその目には、
笑みが残っていた。
ジウが目を細めた。
「どうしてそんな目で見るんですか?」
「何でもありません。」
「笑ってるじゃないですか。」
「笑ってませんけど。」
「笑ってました。」
「先生。」
ソジュンが、
さっきより少し声を低くした。
「また嫉妬してます?」
「いいえ。」
今度は。
答えるのが、
あまりにも早かった。
ソジュンの口元が上がった。
ジウはその表情を見て、
意味もなく台本をもう一枚めくった。
「台本でも覚えに行ってください。」
「私、今撮影が終わったばかりですけど。」
「じゃあ、休んでください。」
「ここで?」
ソジュンはジウの向かいの椅子を引き、
そこへ座った。
ジウは呆れたように、
彼を見た。
ソジュンは何事もなかったような顔で、
テーブルの上に置かれていたコーヒーをジウのほうへ押した。
さっきファンのことで交わした冗談のように。
今回も、
笑って流せばいいだけのことだった。
なのに。
ジウはなぜか。
ヨヌの言葉だけは、
一緒に笑うことができなかった。
少し離れたところ。
所属事務所の代表は、
何も言わず二人を見つめていた。
ヨヌの前で、
硬く強張っていたソジュンの顔と。
ジウの前で、
何でもないように笑っている顔。
あまりにも違っていた。
代表はしばらくその姿を見つめたあと、
指先で眼鏡を直した。
そして。
何も言わず、
視線を逸らした。
───
翌朝。
「ねえ、お姉ちゃん。」
誰かが、
ジウの身体を激しく揺さぶった。
「お姉ちゃん。」
「早く起きて。」
ジウはようやく目を開け、
布団の中から身体を起こした。
「何なの……。」
目をこすりながら、
スジンを見た。
「朝からどうしてそんなに騒いでるの?」
スジンは答える代わりに、
スマートフォンをジウの前へ差し出した。
「これ見て。」
ジウはまだ眠気の残る顔で、
画面を見た。
そして。
そのまま固まった。
ハン・ソジュン&ソ・ヨヌ、本当にカップル?
『初雪と括弧』撮影中のロマンスをキャッチ
大きな見出しの下には、
二人の写真が並んでいた。
夜遅く。
帽子を深くかぶったソジュンと、
その隣を歩いているヨヌ。
そして、もう一枚。
二人が同じ車に乗り込む姿。
写真だけを見れば。
どう見ても、
二人きりで会っているように見えた。
スジンが素早く画面をスクロールした。
「これも見て。」
「二人、撮影が終わってから別で会ったんだって。」
「同じ車に乗って移動してる写真もあるし。」
「今、記事がものすごい勢いで広がってる。」
ジウは何も言わなかった。
画面の中の写真だけを、
じっと見つめた。
昨日。
ヨヌが言っていた言葉が、
頭に浮かんだ。
「私はソジュンオッパとこんな噂になるの、悪くないですけど?」
そしてすぐに。
ソジュンの声も、
思い出した。
「冗談にも限度がありますよ。」
確かに聞いた。
ソジュンがきっぱりと一線を引くのを。
自分の耳で、
ちゃんと聞いた。
それなのに。
どうして。
たった数枚の写真を見ているだけなのに。
こんなにも、
心がおかしいんだろう。
「お姉ちゃん?」
スジンが、
ジウの顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「……うん。」
ジウはようやく答えた。
「何が?」
何でもないふりをして、
スマートフォンを返そうとした。
けれど。
指先に、
力が入らなかった。
ジウはもう一度。
画面の中の二人を見つめた。
胸の片隅が、
痛んだ。
じんと。
ちくちくと、
針で刺されるように。
ずっと昔にも。
こんな痛みを、
感じたことがあった。
けれど。
不思議だった。
今度は。
あのときとは、
少し違っていた。




