↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/21

Episode 16 警戒対象第一号


翌日の撮影現場は、

大学のキャンパスを少し離れたところにある小さな公園だった。


古びたベンチが置かれ、

その後ろには木々が長く立ち並んでいた。


今日撮影するのは。


チョン・ウジンが、

遠ざかっていくヨヌの後ろ姿を見つめながら、


最後まで引き止めることのできなかった想いを、

胸の奥に飲み込む場面だった。


原作にはなかった場面。


ドラマのために、

新たに脚色されたシーンだった。


言葉よりも、

沈黙のほうが多い場面。


誰かを引き止められない想いは。


ときに長い台詞よりも、

たった一度の眼差しのほうが、


ずっとよく伝わるものだから。


撮影が始まる前。


ジウは何度も、

ソジュンのほうを見た。


ソジュンは、

いつもと変わらなかった。


台本を読み。


監督と次のシーンについて話し。


撮影の準備が始まると、

静かに自分の場所へ戻っていった。


昨日のことを、

自分から口にすることはなかった。


教授のことも。


その前にあったことも。


結局。


先にソジュンのそばへ近づいたのは、

ジウのほうだった。


「どうして聞かないんですか?」


ソジュンが台本から顔を上げた。


「何をですか?」


「昨日、聞いたでしょう?」


ジウは彼の隣に座った。


「教授の話も。」


「そのほかの話も。」


ソジュンは台本へ視線を落とした。


ジウは、

そんな彼の顔を窺った。


「いつもなら、口を尖らせて『嫉妬してます』って言いそうなのに。」


「してますよ。」


「何をですか?」


「嫉妬。」


ソジュンは台本を一枚めくった。


「ものすごく。」


「じゃあ、どうして何も言わないんですか?」


今度はソジュンが、

ジウを見た。


「嫉妬より、感謝する気持ちのほうが大きいからです。」


「感謝?」


「はい。」


ソジュンは再び台本へ視線を落とした。


「あの方に出会ってから。」


「先生は少しずつ、立ち直っていったんでしょう?」


ジウは何も言わず、

ソジュンを見つめた。


「だから、嫉妬はするけど。」


「感謝する気持ちのほうが大きいんです。」


ジウは手にしていた台本の端を、

無意識に指先で押さえた。


「開けたくない部屋があるってことを、知られたくなかったんです。」


少しして、

ジウが付け加えた。


「そんな部屋があるってことまで。」


ソジュンはたいしたことではないというように、

肩をすくめた。


「別に、いいじゃないですか。」


「俳優さんは違うんですか?」


「私だって、まだ見せてない部屋はたくさんありますよ。」


ジウは少し驚いた顔で、

ソジュンを見た。


「俳優さんも?」


「もちろん。」


ソジュンは当然だというように言った。


「私の部屋だからって、全部明るくて広いと思います?」


ジウは答えられなかった。


ソジュンは、

それ以上何も聞かなかった。


開いていた台本を、

もう一度手に取っただけだった。


「先生が話したくなったときに、話してください。」


そして何でもないことのように、付け加えた。


「開けなくてもいいですし。」


ジウの指先が、

台本の上で止まった。


開けてみろと急かさない人。


知りたいと思っていても。


自分から話すまで、

聞かずに待ってくれる人。


少なくとも。


この人の前では、

知られてしまったことを後悔しなくてもいい気がした。


「ふうん、そうですか?」


ジウはスマートフォンを取り出した。


「じゃあ、これも大丈夫そうですね。」


画面を、

ソジュンのほうへ少し傾けた。


昨夜。


教授とやり取りした、

近況を尋ねるメッセージだった。


ソジュンの視線が、

画面にぴたりと止まった。


「何ですか?」


「近況を話したメッセージです。」


「それは見ればわかりますけど。」


ソジュンが身体を、

ジウのほうへ傾けた。


「何を話したんですか?」


ジウはすぐにスマートフォンを伏せた。


「嫉妬より感謝する気持ちのほうが大きいって言ってたじゃないですか。」


「大きいとは言いましたけど、嫉妬がなくなったとは言ってません。」


「さっきは聞かないって言ってたじゃないですか。」


「それは、先生が話したくないことだったからです。」


ソジュンは、

伏せられたスマートフォンを指差した。


「これは先生が先に見せたじゃないですか。」


「それで?」


「責任取ってください。」


「何をですか?」


「気になるようにした責任です。」


ジウはしばらくソジュンを見つめたあと、

何事もなかったように再び台本を開いた。


ソジュンはまだ、

スマートフォンから視線を離せずにいた。


「ところで教授、結婚してますよね?」


「いいえ。」


ジウは何気なく答えながら、

台本を一枚めくった。


「え?」


ソジュンが勢いよく顔を上げた。


「え?」


もう一度。


「え?」


そこでようやく、

ジウが台本から顔を上げた。


「何をそんなに驚いてるんですか?」


「そんなに驚くことですか?」


「でも……。」


ソジュンは言葉を選ぶように、

唇をわずかに動かした。


「結婚適齢期なんて、とっくに過ぎてるじゃないですか。」


「教授には、そういう方も多いですよ。」


ジウは再び台本へ視線を落とした。


「別にいいじゃないですか。」


「年齢に合わせて生きるより、自分のやり方で生きるほうが素敵じゃないですか?」


ソジュンは黙って、

ジウを見つめた。


「さっき言ったこと、取り消します。」


「何をですか?」


「感謝する気持ちのほうが、嫉妬より大きいって言ったこと。」


「もう?」


「はい。」


ソジュンはきっぱりと答えた。


「警戒対象第一号です。」


ジウの口元が、

そっと上がった。


「さっきまで教授に感謝してたじゃないですか。」


「感謝はしてますよ。」


「じゃあ、何なんですか?」


「感謝してる相手だからって、警戒しちゃいけないなんて決まりはないでしょう?」


「変な理屈ですね。」


「それに、結婚もしてないんでしょう?」


「それが何なんですか?」


「先生。」


ソジュンが納得いかないというように、

身体を前へ乗り出した。


「本当にわからなくて聞いてるんですか?」


ジウは答えず、

また台本を一枚めくった。


そして。


台本を少し持ち上げ、

口元を隠した。


ソジュンはそんなジウを見つめていて、

遅れて気づいた。


「今、わざとやってるでしょう?」


ジウが台本越しに彼を見た。


「何をですか?」


「私に嫉妬させようとして。」


ジウは何でもない顔で、

また一枚ページをめくった。


「さあ。」


「やっぱり。」


ソジュンが確信したように言った。


「今、私のことからかってるでしょう。」


ジウは最後まで答えなかった。


ただ。


今度は台本をめくる手が、

少しだけゆっくりになっていた。


そのとき。


助監督の声が聞こえた。


「ハン・ソジュンさん。」


「撮影、準備します。」


「はい。」


ソジュンが席を立った。


数歩進んだところで、

もう一度ジウを振り返った。


ジウは何も知らないという顔で、

台本だけを見ていた。


口元に残った笑みだけは、

隠しきれないまま。


ソジュンは小さく首を振り、

撮影位置へと歩いていった。


───


撮影現場が静まり返った。


スタッフたちは俳優の集中を妨げないよう、

息を潜めるようにしてその場から動かなかった。


監督も何も言わず、

モニターだけを見つめていた。


ジウはスタッフたちの動線を避け、

少し離れた場所まで下がった。


そこから、

ソジュンを見つめた。


彼の眼差し。


唇の動き。


ほんのわずかに変わっていく表情まで。


けれど。


距離が遠すぎた。


もともと顔が小さいうえに、

こんなに離れていては。


表情どころか、

眼差しさえまともに見えなかった。


――あ……見えない。


残念そうに見つめていたジウは、

ふと右手を上げた。


五本の指をくるりと丸めると、

手の中に小さな穴ができた。


ジウは丸めたその手を、

右目の前へ持っていった。


遊び半分で。


その小さな穴の向こうから、

ソジュンを覗いてみた。


その瞬間。


「……あれ?」


ジウの目が丸くなった。


もちろん、

本物の望遠鏡ではない。


それなのに。


なんとなくソジュンの顔が、

少しだけ近くなったように見えた。


ジウは左目をぎゅっとつぶったまま、

もう一度、手で作った望遠鏡の向こうを覗いた。


丸めた手の中にできた小さな円に、

ソジュンの顔がぴたりと収まった。


「……見える。」


思わず、

笑みがこぼれた。


なんとなく、もう一度。


そして。


もう一度。


手で作った望遠鏡をあちこちに動かしながら、

ソジュンを覗いてみる。


まるで新しいおもちゃを見つけた子どものように。


ジウは一人で笑いながら、

手の望遠鏡の中にいるハン・ソジュンを見つめていた。


───


撮影の準備をしていたソジュンは、

手にしていた台本をもう一度開いた。


キューがかかる前。


最後にもう一度、

台詞を確認しようとした、そのときだった。


何気なく顔を上げた。


そして。


遠くに。


陽射しの下に立つジウが見えた。


右手で小さな望遠鏡を作り、

自分を見つめていた。


左目を閉じて。


一人で笑いながら。


「……。」


その瞬間。


思わず笑いそうになった。


ソジュンは慌てて顔を伏せた。


唇をきゅっと結んで笑いを堪えたものの、

口元はどうしても緩んでしまう。


――あんな顔もするんだ。


いつも静かで。


いつも落ち着いていて。


いつだって一歩後ろから、

人々を見つめていたジウ。


そんな人が今。


手で望遠鏡まで作って、

自分を見ている。


監督の声が、

静かに響いた。


「レディ。」


撮影現場が、

再び息を潜めた。


「……アクション。」


その瞬間。


ハン・ソジュンは消え。


チョン・ウジンだけが残った。


遠ざかっていくヨヌの後ろ姿。


最後まで、

引き止めることのできなかった手。


何度も。


何度も飲み込まなければならなかった言葉。


ソジュンは台詞よりも、

眼差しで。


眼差しよりも、

沈黙で。


チョン・ウジンの想いを、

ゆっくりと満たしていった。


風が通り過ぎる音だけが、

静かに聞こえた。


そして。


「……カット。」


監督の声とともに。


止まっていた時間が、

再び動き始めた。


「いいですね。」


監督は席から立ち上がり、

モニターを指した。


「本当に良かったですよ、ソジュンさん。」


スタッフたちの間からも、

小さな感嘆の声が上がった。


けれど。


ソジュンの視線は、

再び遠くへ向かっていた。


まだ右手で、

小さな望遠鏡を作ったまま。


撮影が終わったことにも気づかず。


手の望遠鏡の向こうから、

自分を見つめているジウ。


ソジュンの口元に、

再び笑みが広がった。


「お疲れさまでした。」


スタッフたちに軽く頭を下げると。


ソジュンはそのまま、

ジウのいるほうへ歩いていった。


近づいていくほど。


手の望遠鏡の中で、

自分の顔が大きくなっていくのが見えた。


それでもジウは。


彼が近づいてきていることに、

気づいていなかった。


「……先生。」


返事はない。


「先生。」


そこでようやく。


はっとしたジウが、

手を下ろした。


「……え?」


目の前には、

いつの間にかソジュンが立っていた。


「……いつ来たんですか?」


ジウは慌てたように、

急いで手を背中に隠した。


ソジュンはとうとう、

笑いを堪えきれなかった。


「望遠鏡。」


「……はい?」


「なかなか性能、良さそうでしたけど。」


ジウの目が丸くなった。


「……見てたんですか?」


耳まで、

一気に赤くなった。


「はい。」


ソジュンは一度、

頷いた。


「最初から全部見てました。」


「……あ……。」


ジウは両手で、

顔を覆った。


しばらく手のひらの間に顔を隠していたジウが、


「ん……。」


と、咳払いでもするように小さく声を出した。


ソジュンが首を傾げた。


ジウは何でもないような顔を作りながら、

そっと視線を横へ逸らした。


「ただ……撮影、ちゃんとできてるかなって見てただけです。」


ソジュンは、

まるで自分を見ていたわけではないと言い訳するジウを見つめて。


とうとう笑い出した。


ジウが止める間もなく。


ソジュンは、

ジウの目の前へ顔を近づけた。


「望遠鏡なんて、いらないのに。」


そして。


いたずらっぽく目を合わせながら言った。


ジウの目が、

大きくなる。


ソジュンはすぐそばにあるジウの顔を見つめながら、

さらに柔らかな声で付け加えた。


「これからは、私が直接クローズアップしてあげます。」


「必要なときは、いつでも。」


ジウはまだ、

ソジュンをまともに見ることができなかった。


けれど。


耳元から広がった赤みだけは、

もう隠すことができなかった。


ソジュンはそんなジウが愛しくて、

とうとう笑いを堪えきれなかった。


ついさっきまで。


手の望遠鏡の向こうから、

自分を見つめていたその顔が。


今度は目の前で、

自分から逃げるように視線を逸らしている。


その姿が可愛くて。


そして。


まるで自分だけが、

その姿を見られるような気がして。


ソジュンはしばらく。


ジウのそばを離れなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。