Episode 15 春がもう一度訪れた日
ジウはしばらく、
目の前にいる人を見つめることしかできなかった。
一度、瞬きをした。
そして、もう一度。
緊張しすぎて、
幻でも見ているんじゃないだろうか。
そんなことまで思い始めたとき、
目の前の男が先に笑った。
「サイン、してくれないの?」
そこでようやく、
ジウの目が少し大きくなった。
「……きょ、教授?」
教授は優しく笑いながら、
ジウを見下ろした。
「そう。私だよ。」
両肩を軽くすくめる。
「やっとわかった?」
そこでようやく、
ジウの口元にもゆっくりと笑みが広がった。
昔より、目元の皺は少し深くなっていて。
髪の間には、
白いものも何本か混じっていた。
けれど、不思議なくらい変わっていないものもあった。
話すときの表情。
人を見る眼差し。
そして。
その人だけが持っている、
あの居心地のいい空気。
ジウは教授が手にしている本を見た。
「読んでくださったんですか?」
教授は本を軽く持ち上げてみせた。
「だから来たんじゃないか。」
ジウは小さく笑った。
「サイン会も、もうほとんど終わりですけど……。」
少し周囲を見回してから、続けた。
「隣のカフェ、行きませんか?」
「私がコーヒー、ごちそうします。」
そして少し遅れて、付け加えた。
「サインも、そこでゆっくりしますから。」
教授の口元に、
懐かしい笑みが浮かんだ。
「いいね。」
その短い返事が、
どういうわけか嬉しかった。
まるで十年という時間が、
二人の間からほんの少しだけ退いてくれたように。
会場を出ていく二人を、
少し離れたところから見つめている人がいた。
黒い帽子を深くかぶり。
眼鏡に、マスクまでつけた男。
ハン・ソジュンだった。
ソジュンの視線は、
ジウの隣を歩いている見知らぬ男に釘付けになっていた。
――誰だ?
ついさっきまで、
涙を流していた人だった。
なのに今は、笑っている。
それも。
自分がまだ一度も見たことのない、
ひどく穏やかな顔で。
ソジュンは二人が並んでカフェへ入っていく姿を見つめた。
少し迷った。
本当に、ほんの少しだけだった。
「……これはちょっと、気になるな。」
結局。
帽子をもう一度深くかぶり直し、
二人のあとをついていった。
カフェの奥の席で向かい合ったジウは、
まだ少し浮き立ったような顔をしていた。
「お元気でしたか?」
「本当に久しぶりですよね?」
「身体は大丈夫ですか?」
教授は笑いながら、
軽く手を上げた。
「一つずつ聞いてくれ。」
「息が切れそうだ。」
ジウがふっと笑った。
「あ、あんまり久しぶりだから……。」
少し照れくさそうに笑う。
「嬉しかったみたいです。」
教授はコーヒーカップを手に取りながら言った。
「私は元気にしてるよ。」
教授はジウの顔をじっくりと見た。
「君も元気にしてるんだろ?」
「はい。」
「もっと綺麗になったね。」
ジウが笑った。
「今回は、化粧が濃いとは言わないんですね。」
教授がきょとんとした顔でジウを見た。
「私、そんなこと言ったか?」
「覚えてないんですか?」
ジウは笑いをこらえるように、
唇をきゅっと結んだ。
「昔、キャンパスでばったり会って挨拶したら。」
「教授、いきなり『化粧が濃い』って言ったじゃないですか。」
教授は記憶をたどるように目を細めた。
「そうだったかな?」
「私、あの頃はお化粧の仕方も知らなくて、ほとんどしてなかったんですよ。」
「どれだけ呆れたと思ってるんですか。」
ジウはとうとう声を上げて笑った。
教授も遅れて笑い出した。
「それは、私が悪かったね。」
「今さらですか?」
「今からでも謝っちゃ駄目か?」
「考えておきます。」
教授は笑いながら首を振った。
そして、
ジウの前に置かれた本を指先で軽く叩いた。
「ところで。」
「私のこと、ずいぶん格好よく書いてくれたね?」
ジウの目が一瞬、丸くなった。
それから意味を理解して、笑った。
「あ。」
「でしょう?」
「私、美化しすぎたんですよ。」
「おかげで英文学の教授のファンばっかり増えちゃって。」
少し不満そうに言うと、
教授は平然と答えた。
「まあ。」
「私にそういうところがなかったわけでもないだろう。」
ジウは呆れたように笑った。
「え?」
「そうでしたっけ?」
「本の中のほうが、ずっと素敵だと思いますけど。」
今度は、
二人とも笑った。
少し離れた席。
新聞を読んでいるふりをして座っていたソジュンは、
そこでようやく目の前の男が誰なのかに気づいた。
――英文学科の教授。
ジウが、
春と呼んだ人。
自分があれほど知りたがっていた、
あの――
心に染み込んでいった人。
ソジュンの目が、
わずかに細くなった。
嫉妬が込み上げてきた。
けれど。
まだ何も言うことはできなかった。
ただカップを手にしたまま。
二人の会話に、
じっと耳を傾けていた。
ジウは教授の本を自分のほうへ引き寄せた。
そして、最初のページを開いた。
しばらく何を書こうか迷ったあと、
ジウはゆっくりとペンを走らせた。
あの頃、私のレモンキャンディになってくださって、ありがとうございました。
いつまでも幸せに、そしてお元気でいてください。
――イ・ジウ
教授はしばらく、
その言葉を見つめていた。
そして静かに笑った。
「レモンキャンディ、ずいぶん上手に物語に使ってたね。」
ジウが顔を上げた。
「私があげた、あの小さなキャンディ一つが。」
「君の物語の題材になるなんて、私も思ってなかったよ。」
教授はそこで、
しばらく言葉を止めた。
「でも、その一方で。」
「ほっとしたんだ。」
ジウは静かに教授の顔を見つめた。
「あの小さなキャンディ一つが。」
「君の人生に、ほんの少しでも慰めを与えられたんだって。」
ジウはしばらく、
何も言わなかった。
視線がゆっくりと本へ落ちていく。
そして静かに口を開いた。
「私、十九歳の頃から……。」
一度、息を整えた。
「ずっと、乗り越えられないことがあったんです。」
「そのせいで私、二十代のあいだずっと、暗いトンネルの中に閉じ込められたまま生きるところでした。」
教授の表情が、
ゆっくりと静かなものに変わった。
ジウはほんのわずかに笑った。
「でも、あの頃。」
「私のところに、春と冬がやってきたんです。」
教授は何も言わず、
ただ聞いていた。
「あたたかくて。」
「胸がときめいて。」
「幸せだった記憶です。」
ジウの視線が、
一瞬遠くへ向かった。
「昔の悪夢のせいで、夜になるとなかなか眠れないときは。」
「いつも、その二つの季節を思い出していました。」
「暗い記憶に、また飲み込まれそうになるたびに。」
「桜でいっぱいだった春と。」
「真っ白な雪に覆われていた冬を、思い出したんです。」
ジウはゆっくりと笑った。
「そうすると、不思議と。」
「少しだけ、耐えられたんです。」
少し離れたところで聞いていたソジュンの表情が、
静かに変わり始めた。
ついさっきまで胸の奥で渦巻いていた嫉妬が。
少しずつ、
その力を失っていった。
ジウはもう一度、
教授へ視線を戻した。
「それに。」
「空きコマもなく授業が詰まっていた私の時間割を見て、授業を早めに終わらせてくださったこともありましたよね。」
教授が少し笑った。
「そうだったかな?」
「そうですよ。」
ジウもつられるように笑った。
「ダブルメジャーで忙しいから、宿題をたくさん出さないでくださいって、私が冗談みたいに言ったら。」
「あの頃、本当に課題をあまり出さなかったから、助かったんですよ。」
教授はふっと笑った。
「それは、君にそう言われたから出さなかったわけじゃないけどね。」
ジウが目を細めた。
「また、そういうこと言うんですね?」
二人の間に、
しばらく笑い声が流れた。
やがて。
ジウの表情が、
もう一度少しだけ静かになった。
「それでも。」
「教授の、そういう小さな心遣いが……。」
「私にとっては、本当に大きかったんです。」
教授はしばらく、
ジウを見つめていた。
そして静かに言った。
「私は。」
「君は気づいていないと思ってた。」
ジウの瞳が、
わずかに揺れた。
「でも、本を読んでわかったよ。」
「君は、全部わかってたんだな。」
ジウは笑った。
「私、思ってるより結構鋭いんですよ。」
教授もつられるように笑った。
ジウは少し間を置いた。
そして今度は、
少しだけ真剣な声で言った。
「教授。」
教授が静かにジウを見つめた。
「あの頃。」
「私の、あたたかな春になってくださって。」
一度、静かに息を整えた。
「そして。」
「私のレモンキャンディになってくださって。」
「ありがとうございました。」
教授の瞳が、
静かに揺れた。
ジウは最後まで、
言葉を続けた。
「暗いトンネルの中に閉じ込められていた私が。」
「教授が照らしてくれた、小さな明かりのおかげで。」
「少しずつ、外へ歩いていけたんだと思います。」
しばらく、
静寂が流れた。
教授は何も言えなかった。
目元が、
ほんの少し赤くなっていた。
そして。
少し離れた席からその姿を見ていたソジュンも、
そっと俯いた。
自分が知らなかった。
ジウの、もう一つの部屋。
その中に。
この人がいた。
ジウに愛された人ではなく。
ずっと昔。
ジウが壊れてしまわないように。
少し離れた場所から、
静かに明かりを灯してくれていた人。
それを知った瞬間。
嫉妬は、不思議なくらい簡単に消えていった。
代わりに。
感謝の気持ちが残った。
あの頃のイ・ジウのそばに。
この人がいてくれて、よかった。
しばらくして。
ジウと教授は、
改めて連絡先を交換した。
「いつでも連絡して。」
「教授もですよ。」
ジウは少し笑ってから言った。
「次は、こんなふうに突然現れないでくださいね。」
教授が笑った。
「どうして?」
「びっくりするじゃないですか。」
「でも、嬉しかっただろ?」
ジウはしばらく教授の顔を見つめてから、
小さく笑った。
「……それは、そうですけど。」
教授もつられるように笑い、
席を立った。
「じゃあ、また会おう。」
「はい。」
「元気でいてくださいね。」
「君も。」
ジウは教授の後ろ姿がカフェの外へ消えるまで、
しばらくその場で見送っていた。
そして。
ゆっくりと席を立とうとした、そのとき。
隣のテーブルに座っている一人の人物が、
妙に目に入った。
黒い帽子。
眼鏡。
マスク。
ジウの目が細くなった。
――……まさか。
一歩。
そして、もう一歩。
近づいて顔を確かめたジウは、
とうとう呆れたように笑った。
「俳優さん?」
ソジュンの肩が、
びくっと揺れた。
「ここで何してるんですか?」
マスクの上から覗くソジュンの目元が、
妙に赤かった。
ジウは一瞬、驚いた。
「どうしたんですか?」
「なんで泣いてるんですか?」
ソジュンは気まずそうに視線を逸らした。
「いや。」
少し言葉を選んでから、
ぼそりと呟いた。
「お二人の話が……。」
「……ちょっと感動的だったので。」
ジウはしばらく、
ソジュンを見つめた。
あまりにも突拍子もなくて。
それに、少し可愛くて。
笑ってしまいそうになった。
けれど、
わざと表情を険しくした。
「何なんですか?」
「まさか、盗み聞きしてたんですか?」
ソジュンの目が少し大きくなった。
「いや、それは。」
「私もサインをもらいに来たんですけど。」
ジウが眉を上げた。
「はい?」
「先生が、知らない男の人とカフェに入っていくから。」
少し言い淀んだ。
「……誰なのか気になって、ついてきたんです。」
ジウは呆れたように笑った。
「あとで私に聞けばいいじゃないですか。」
「なんでついてくるんですか?」
そして、
ソジュンの格好を上から下まで眺めた。
「それに、この格好は何なんですか?」
「『私はどう見ても芸能人です』って宣伝してるわけでもないのに。」
ソジュンは自分の格好を見下ろした。
「これくらいなら、完璧な変装じゃないですか?」
ジウは呆れたように笑った。
「どこが完璧なんですか。」
「人がほとんどいなくてよかったですよ。」
「バレたりしたらどうするつもりなんですか。こんなふうに勝手に出歩いて。」
ジウの小言は、
そのまま続いた。
ソジュンはそんなジウの顔を、
しばらく見つめていた。
すると突然、笑った。
「まだ見たことのない部屋、また一つ発見。」
ジウが言葉を止めた。
「……はい?」
ソジュンは目を細めて笑った。
「小言を言うジウ。」
一瞬。
ジウは呆れたように彼を見つめた。
そして、とうとう。
二人とも笑い出した。
人影もほとんどなくなった、
遅い午後のカフェで。
一人は。
ずっと昔の、
自分の春と再び出会い。
もう一人は。
彼女の中にあった新しい部屋を、
また一つ知った。
そして不思議なことに。
あの日を境に、
ソジュンはジウの過去にいるあの人を、
もう嫉妬しなくなった。
あの人がいてくれたからこそ。
今のイ・ジウが、
ここまで歩いてくることができたのだと。
今なら。
わかるような気がしたから。




