Episode 14 過去との再会
ドラマ『初雪と括弧』の放送が始まってから、
原作小説は再び書店の平台に並ぶようになった。
絶版になっていた初版も改訂版として刷り直され、
オンライン書店のベストセラーランキングにも名前を連ねた。
出版社はすぐに、
サイン会を提案してきた。
ジウは長いあいだ迷った。
人前に顔を出すことは、
今でもやはり負担だった。
「先生、今回はもう隠れなくてもいい気がします。」
そうして、
サイン会の日が決まった。
当日の朝から。
ジウは指先から心臓まで、
少しずつ凍っていくような緊張を感じていた。
年齢を重ねるうちに、
一つだけ身につけたことがあるとすれば。
その緊張を、
どうにかやり過ごす方法だった。
何度も深く息を吸い、
心の中で繰り返す。
――すぐに終わる。
――たいしたことじゃない。
――これもいつか、
また一つの思い出になる。
会場には朝早くから、
長い列ができていた。
制作発表会のときとは、
まるで違う光景だった。
あのときは帽子とマスクで自分を隠していた。
けれど今日は。
正面に座って、
一人ひとりの顔と向き合わなければならなかった。
ジウはテーブルの前に座り、
小さく微笑んだ。
胸がいっぱいになるような感覚があった。
ずっと昔。
一人で書き続けた文章を。
こんなにもたくさんの人が、
実際にその手に持って、
自分の前に立っている。
一人ずつ本を差し出されるたびに、
ジウは短く言葉を交わし、名前を尋ねた。
サインペンの先が、
紙の上を滑らかに走っていく。
一時間ほど経った頃だった。
ジウの前に。
一人の女性が、
幼い子どもの手を引いて立った。
その顔を見た瞬間。
ジウの顔から、
さっと血の気が引いた。
女性は堂々とした様子で尋ねた。
「私のこと、覚えてる?」
ジウの時間が、
ほんの一瞬止まった。
指先から足の先まで、
氷になったように固まっていく。
――あの子だ。
間違いない。
十四年が過ぎても、
忘れることのできなかった顔。
十九歳だったジウを、
学校でのいじめの中へ突き落とし。
その傷のせいで、
二十歳を過ぎても長いあいだ暗闇の中で生きることになった。
その人。
キム・ヘジン。
その瞬間。
何もかもが、
あの頃へ戻っていくような気がした。
表では優しかった子たち。
けれど。
いつも全校一位だったジウが生徒会長になった途端、
彼女たちは突然態度を変えた。
キム・ヘジンを中心に、
ありもしない噂が広がった。
他校のホームページにまで、
ジウについての書き込みが載るようになった。
ジウは、
一緒に合気道を習っていた男子生徒から聞くまで、
その事実さえ知らなかった。
そして。
自分の目で、その書き込みを確認した瞬間。
世界が崩れた。
――どうして、ここまでするの。
――私はただ、
誰にも迷惑をかけずに一生懸命生きていただけなのに。
――どうして私に、
こんなことをするの。
それからのジウは。
世界中の人が、
自分を指差しているように感じた。
人の視線が怖かった。
笑い声が聞こえるだけで、
自分のことを笑っているような気がした。
毎晩、涙を流しながら過ごした。
いっそこのまま、
消えてしまえたらと思ったこともあった。
ある日。
両親には散歩に行くと言って家を出て、
川沿いを歩いていた。
涙で顔がぐしゃぐしゃになり。
もう、こんなふうに生きたくない。
そう思っていた、そのときだった。
通りかかった一人の男性が、
ジウを呼び止めた。
「お嬢さん、ちょっと待って。」
「私、人相を見るのが少し得意なんだ。」
ジウは戸惑いながらも、
足を止めた。
男性はしばらくジウの顔を見つめてから、言った。
「あなたはね。」
「将来、ものすごく幸せに暮らす人だよ。」
そして、手を差し出した。
「すごくいい人にも出会う。」
「本当に、幸せになる。」
ジウがおそるおそる手を差し出すと。
男性は手のひらまでじっと見つめながら、
笑った。
「ほら。」
「手相にも出てるじゃないか。」
そして最後に。
こう言った。
「だから。」
「今、私が言ったことを忘れないで生きなさい。」
それだけを残して。
男性は去っていった。
あの日から。
ジウはもう、
悪い考えをするのはやめようと決めた。
けれど。
心に残った傷は、
そう簡単には消えてくれなかった。
夜ごと繰り返す悪夢と戦い。
長いあいだ、
自分自身を暗闇の中へ閉じ込めた。
人を簡単には信じられず。
いつも距離を置いた。
近づいてくる人さえ、
自分から先に遠ざけた。
――どうせこの人も。
――本当は違うことを考えている。
そう思いながら。
けれど。
新しく入った大学で。
新しい人たちと。
新しい感情に出会って。
少しずつ。
過ぎ去った暗闇を忘れていった。
嫌な記憶が浮かぶたびに。
春と冬を思い出した。
あの頃の温かい感情を、
一つずつ取り出すようにして。
心を覆っていた黒い雲を、
少しずつ追い払っていった。
そうして。
今のイ・ジウになった。
もう大丈夫だと思っていた。
全部、忘れたと思っていた。
それなのに。
再び目の前に現れたその顔を前に。
ジウの指先は。
今もなお。
かすかに震えていた。
ジウはゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、心を落ち着かせた。
「もちろん、覚えてる。」
できるだけ何でもないような顔で、
その女を見つめた。
「私があなたを忘れるわけないでしょう。」
そして、隣に立っている子どもへ視線を落とした。
「この子、娘さん?」
女は冷たい笑みを浮かべた。
「作家になったんだね。」
「法学部に入ったから、てっきり法曹になるのかと思ってた。」
一瞬、嘲るようにジウを眺めた。
「……あんまり、うまくいかなかったみたいね。」
ジウは何でもないふりをして答えた。
「そうね。」
ほんの少しだけ、口角を上げる。
「ゴミを片づけたくて法学部に入ったんだけど。」
「文学のほうが好きだったみたい。」
女の顔が、
一瞬こわばった。
ジウはわずかに首を傾げた。
「まさか、私のサインをもらいに来たの?」
「それとも何?」
女は鼻で笑うように言った。
「ご立派な作家先生のサインをもらいに来たのよ。」
ジウは冷たく笑った。
「あなた、変わってないね?」
ジウは本を自分のほうへ引き寄せた。
そして最初のページに、
ゆっくりと文字を書いた。
娘さんに恥じない母親でありますように。
――イ・ジウ
その一文を目にした瞬間。
女の顔が固まった。
何も言わず本を閉じ、
そのまま背を向けようとした女を、
ジウが呼び止めた。
「ヘジン。」
女の足が止まった。
ジウは椅子に座ったまま、
その背中を見つめた。
「でも、あなたにはお礼を言っておいたほうがいいと思って。」
女がゆっくりと振り返る。
ジウは淡々と笑った。
「あなたのおかげで、人を見る目ができたから。」
「本当にありがとう。」
ほんの一瞬、
目と目を合わせた。
「私に武器を作ってくれて。」
そして最後に言った。
「じゃあね。」
「もう二度と会わないでおこう。」
ジウは軽く片目をつむった。
そして何事もなかったかのように、
もう一度席に座った。
女の後ろ姿が、
人混みの中へ完全に消えてから。
ようやくジウは、
全身から力が抜けていくのを感じた。
――私はまだ。
――自分の過去と、戦っているんだ。
自分の指先を見つめた。
ついさっきまで、
震えていた手だった。
けれど。
サイン会はまだ終わっていない。
ジウはゆっくりと、
次の本を開いた。
「お名前、教えていただけますか?」
自分でも驚くほど、
声は穏やかだった。
サインペンを握る手も、
もう震えてはいなかった。
一人。
そして、また一人。
ジウはまるで何事もなかった人のように、
笑顔を絶やさなかった。
そうして最後まで。
その場所を離れなかった。
イベントも、
そろそろ終わりに近づいていた。
最後の読者を見送ったあと。
ジウはテーブルの上に、
そっと額をつけた。
――終わった。
ようやくそう思った、
その瞬間。
トントン。
誰かが手の甲で、
テーブルを軽く叩いた。
ジウは力なく顔を上げた。
そして。
そのまま固まった。
何も言われていないのに。
まだ何も、
起きていないのに。
涙のほうが先に落ちた。
頬を伝った一粒の涙が、
ぽつり。
手の甲に落ちた。
ジウは戸惑ったように、
目元をぬぐった。
自分でも気づかないうちに、
こぼれていた涙だった。
そして、もう一度。
その人を見つめた。
懐かしい顔だった。
「元気にしてましたか?」
聞き慣れた声が、
優しく笑った。
「身体は、元気?」
ジウは、
何も言えなかった。
ずっと昔。
自分の春だった人。
英文学科の教授だった。
【次回更新のお知らせ】
都合により、来週金曜日21時に更新予定だった第15話を、
今週土曜日21時に更新します。
来週金曜日の更新はお休みしますので、
次回は少し早めの土曜日更新です。
よろしくお願いします。




