Episode 11 春と冬
再び、キャンパスの撮影現場だった。
昨日のことがあってから、
ジウはどんな顔をしてソジュンに会えばいいのかわからなかった。
妙に視線を意識してしまうし、
妙に心臓のほうが先に反応してしまう。
遠くからソジュンの声が聞こえただけで、
無意識にそちらを振り向いてしまって。
目でも合いそうになると、
慌てて別のところへ視線を逸らす。
そんな自分が、なんだか可笑しかった。
ジウは何でもないふりをしてスタッフたちと挨拶を交わしたあと、
監督と今日撮影する追加シーンについて話していた。
原作には入れられなかったけれど、
ドラマにはどうしても入れたかった場面だった。
英文学科の教授とジウの、
グループ課題のシーン。
───
「はい、準備できました!」
監督の声に、俳優たちがそれぞれの位置についた。
グループのメンバーたちと課題の準備をしていたジウは、
見慣れない英単語を前に、しばらく頭を悩ませていた。
「これ、何だろう……?」
隣にいたスジンも首をかしげる。
「私もわからないんだけど?」
ほかのメンバーたちまで頭を寄せ合ったものの、
答えは出てこなかった。
そのときだった。
背後から、聞き慣れた声がした。
「英文学専攻なのに、この単語がわからなくてもいいんですか?」
ジウがぱっと振り返った。
英文学科の教授が立っていた。
口元には、
ほんのかすかな笑みが浮かんでいる。
ジウは思わず唇を尖らせた。
「教授は知ってるんですか?」
「知ってますよ。」
あまりにも当然だと言わんばかりの答えだった。
ジウの顔が、ぱっと明るくなる。
「じゃあ、これってどういう意味なんですか?」
けれど教授は、
すぐには答えなかった。
むしろ出席簿を持ち上げて口元をそっと隠すと、
問題の単語をゆっくりと、もう一度読んだ。
一度。
そして、もう一度。
「…………」
ジウは目を細めた。
絶対、知ってる。
なのに、教えてくれない。
教授はジウの表情を見ても知らないふりをして、
またその単語をゆっくりと発音した。
今度は、さっきよりもはっきりと。
まるで、
ここまで言っても、まだわかりませんか?
とでも言うように。
ジウの唇が、
どんどん前へ尖っていく。
もう、本当に。
こういうところを見ると、ほんと憎たらしい。
そして、その瞬間。
「憎たらしい。」
静寂。
ジウの目が丸くなった。
……え?
自分が今、何を口にしたのか気づくまで、
ほんの一拍かかった。
「……!」
ジウは慌てて両手で口を塞いだ。
隣にいたスジンの目も大きくなる。
ほかのメンバーたちも一斉にジウを見た。
そして、少しして。
「ぷっ。」
誰かが先に吹き出した。
「ちょっと、今、教授に『憎たらしい』って言った?」
「違う、思わず……!」
スジンはとうとう俯いたまま、くすくす笑い始めた。
ほかのメンバーたちまで、
笑いを堪えようと肩を震わせている。
ジウの顔が、
一瞬で真っ赤になった。
ところが。
実のところ、もっと慌てていた人がいた。
教授だった。
いつも余裕のあるその表情が、
ほんの一瞬だけ固まった。
「いや、それは……。」
教授は一度、こほんと咳払いをした。
そして意味もなく、
手に持っていた出席簿を持ち直す。
「私がわざと教えないわけではなくて。」
今度は、ずいぶん真面目な顔だった。
「学生が自分で調べたほうが、長く記憶に残るからなんです。」
ジウは両手で口を覆ったまま、
目だけをぱちぱちさせた。
教授の説明は、
なぜかどんどん長くなっていった。
「答えをすぐに教えてしまうと、すぐ忘れてしまいますから。」
「自分で考えて、答えを見つける過程が大切なんです。」
隣で、スジンの肩がまた揺れた。
ジウも笑いを堪えようと、
ぎゅっと唇を噛んだ。
教授はそこでようやく、
たった一人の学生に「憎たらしい」と言われたくらいで、
自分があまりにも一生懸命弁解していることに気づいたらしい。
ふと口を閉じた。
そして、小さく咳払いをする。
「ですから。」
少し間を置いてから、
今度はどこか照れくさそうに笑った。
「私は魚を釣ってあげる人ではなく、
魚の釣り方を教える人なんです。」
そこでようやく、
教授はグループのメンバーたちに、その単語の意味を一つずつ説明し始めた。
ジウはまだ赤い顔のまま、
そんな教授を見つめていた。
憎たらしかったり。
可笑しかったり。
そして、
少しだけ優しかった。
───
「カット!」
監督の声が響いた。
モニターの前にいたジウは、
自分でも気づかないうちに小さく笑っていた。
ほんの短い出来事だった。
なのに不思議なことに、
長い時間が過ぎた今でも、時々思い出す瞬間だった。
どうしてだったんだろう。
口数が少なく、静かだったあの頃の自分が、
あの人の前でだけは少し違っていたからかもしれない。
いつもより、少しだけ簡単に笑えて。
いつもより、少しだけ簡単に拗ねて。
時には心の中だけにしまっておくはずだった言葉まで、
自分でも気づかないうちに口からこぼれてしまうほど。
あの人の前では不思議なくらい、
いつもより少しだけ多くの「イ・ジウ」が顔を出した。
撮影は、思っていた以上に自然に進んでいった。
キム・ソヌは、彼特有の優しく穏やかな雰囲気で、
あの頃の教授を見事に蘇らせていた。
そしてその傍らで、
次の撮影の準備をしていたソジュンは、
何も言わずその様子を見つめていた。
───
休憩時間。
ソヌがコーヒーを一杯手に、
ジウのもとへやってきた。
「先生。」
「このシーン、原作にはなかった場面ですよね?」
ジウはコーヒーを受け取りながら、
小さく笑った。
「はい。流れの中に入れるのが難しくて。」
「でも、どうしても入れたかったんです。」
ソヌはそんなジウを見つめていたが、
ふと何かが気になったような顔で尋ねた。
「でも、先生。」
「ジウはチョン・ウジンと英文学科の教授、
どちらを愛していたんでしょうか?」
そして、いたずらっぽく笑った。
「初恋がいったいどっちなのか、
気になって仕方なくて。」
ジウはしばらく考え込んだ。
そして、
とても淡々とした声で言った。
「そうですね。」
「どちらか一人だと、
はっきり言い切ることはできない気がします。」
しばらく、視線が遠くへ向かった。
「チョン・ウジンが……」
ジウの声が、少しゆっくりになる。
「初雪のように舞い降りて、
ジウの心臓を壊してしまった冬だとしたら。」
そして、ゆっくりと言葉を続けた。
「英文学科の教授は、
桜の花びらのようにそっと舞い降りて、
あたたかく心に染み込んできた春なんじゃないでしょうか。」
ソヌは黙ってジウを見つめた。
ジウは小さく笑いながら、付け加えた。
「春も冬も、毎年また私の人生にやってくる季節でしょう?」
「冬が去れば、
いつの間にかまた春がやってくる。」
「それをわざわざ分けることなんて、
できるんでしょうか。」
ソヌはしばらくジウを見つめていたが、
やがて、いたずらっぽく口元を上げた。
「解釈次第ですからね。」
少し間を置く。
「私には、
私の役のほうが勝ったように聞こえましたけど?」
ジウが目を丸くした。
「え?」
少ししてその意味に気づいたジウは、
思わず笑い声を上げた。
「そういう解釈をするんですか?」
「俳優は、自分の役を愛さないといけませんから。」
ソヌもつられるように笑った。
その瞬間。
キャンパスの間を、
涼しい風がひと筋吹き抜けていった。
ジウの髪が風に揺れ、
ソヌはそんなジウを見つめながら、
まだ笑っていた。
そして少し離れたところから、
ソジュンがその光景を見ていた。
春と冬。
さっきジウが口にした言葉が、
頭から離れなかった。
あたたかく心に染み込んできた春。
そして今。
その人を演じるソヌの前で、
ジウはあまりにも自然に、
心から楽しそうに笑っていた。
ソジュンは何も言わず、
二人を見つめていた。
以前だったら、
ただ嫉妬しているだけだと思っただろう。
どうしてソヌ兄さんにはあんなふうに笑うのに、
僕には笑ってくれないんだろう、と。
けれど今回は、
少し違った。
自分は確かに、
少しずつジウに近づいていると思っていた。
なのに。
自分がまだ入ったことのない彼女のどこかへ、
ソヌはあまりにも自然に近づいているように見えた。
胸の片隅に、
名前をつけることのできない不安が降り積もった。
だとしたら、自分は。
イ・ジウにとって、
どんな人になりたいんだろう。
ソジュンはしばらく、
その答えを見つけられなかった。
ただ、一つだけ。
わかるような気がした。
ほんの一瞬だけ訪れて、
やがて消えていく季節にはなりたくなかった。
できることなら。
彼女の春も。
夏も。
秋も。
冬も。
そのすべての時間を、
ずっと一緒に歩いていく人になりたかった。
───
「ソヌさん! 次のシーン、準備お願いします!」
スタッフの声に、
ソヌが顔を上げた。
「はい、今行きます。」
ソヌはジウに軽く挨拶をすると、
撮影の準備をするため席を立った。
待機位置に立ち、
スタッフに衣装を整えてもらっているあいだ。
ソヌはふと、
さっきジウが口にした言葉を思い出した。
冬と春。
心臓を壊した恋と。
あたたかく染み込んできた恋。
初めて原作を読んだときから、
この役は簡単ではないと思っていた。
言葉よりも表情で。
告白することよりも、
待つことで愛する人。
だからこそ、
演じてみたいという気持ちも強かった。
けれど実際に原作者と会ってみると。
不思議なことに、
作品よりも、その人自身のことが少しずつ気になり始めていた。
考え事をするとき、
眉間をほんの少し寄せる癖。
何かに集中すると、
下唇をわずかに尖らせる癖。
人の多い場所では少し緊張するのに、
慣れてくると、思っていたよりよく笑う人。
そして。
初恋を、
季節で表現する女性。
ソヌは無意識に、
ジウのいるほうへ一度だけ視線を向けた。
もう少し、知りたかった。
俳優としてではなく。
キム・ソヌという一人の人間として。
「ソヌさん、入ります!」
「はい。」
ソヌはすぐに視線を戻し、
撮影現場の中へ歩いていった。
───
数日後。
撮影は順調に進んでいた。
ジウはキャンパスのベンチに座り、
ぼんやりと周囲を眺めていた。
まだあどけなさの残る顔で、
何人かずつ集まって楽しそうに笑い合う女子学生たち。
本を一冊小脇に抱え、
パンを口にくわえたまま忙しそうに通り過ぎていく男子学生たち。
変わったようでいて、
どこか何も変わっていないような。
懐かしい風景だった。
ジウの胸にふと、
淡い懐かしさが込み上げてきた。
恋しいのは、
あの頃の自分なんだろうか。
それとも。
あの頃、感じていた気持ちなんだろうか。
そのときだった。
「先生。」
ソヌがコーヒーを二つ手にして、
近づいてきた。
「何をそんなに考え込んでるんですか?」
「人が来たことにも気づかないくらい。」
ジウは小さく笑いながら、
コーヒーを受け取った。
「ただ……」
「ちょっと、懐かしくなって。」
そして少し間を置いてから、
静かに付け加えた。
「ずっと先の未来には、
今この瞬間のことも、また懐かしく思うんでしょうね。」
ソヌはそんなジウを見つめ、
あたたかく笑った。
「じゃあ、そのときは私のことも一緒に思い出してください。」
ジウはくすっと笑って、
頷いた。
その姿を。
遠くからソジュンが見つめていた。
両手には、
ジウに渡そうと思って買ってきたコーヒーがあった。
ソジュンの視線が、
自分の手の中にあるコーヒーから、
ソヌが渡したコーヒーへとゆっくり移っていく。
また、一歩遅かった。
頭ではわかっていた。
あれはただの、
何でもない会話だと。
俳優と作家のあいだで交わされる、
ごく自然な会話なのかもしれないと。
それでも。
数日前から胸の片隅に居座っている不安は、
なかなか消えてくれなかった。
むしろ少しずつ、
はっきりとした形を持ち始めていた。
そのとき、遠くからスタッフの声がした。
「ソヌさん! 次のシーン、準備お願いします!」
ソヌはジウに軽く微笑みかけると、
席を立った。
そして、
ソヌが去ったあと。
いつの間にか、
見慣れた影がジウの前に落ちていた。
ソジュンだった。
ソジュンは手にしていたコーヒーを見下ろした。
「コーヒー、持ってきたんですけど。」
そして少し力が抜けたように笑った。
「また先を越されちゃいましたね。」
「一人で全部飲まないと。」
ジウは笑いそうになって、
そっと唇を噛んだ。
けれど、
この前の車の中でのことがあってから、
まだソジュンと接するのが少しぎこちなかった。
意味もなく手にしたコーヒーカップを弄びながら、
おそるおそる尋ねた。
「今日の撮影は終わったんですか?」
「はい。」
「私はさっき終わって、
あとはソヌ兄さんのシーンだけです。」
「お疲れさまでした。」
ジウが小さく笑った。
ソジュンは、
その顔をじっと見つめた。
自分にも笑ってくれる。
今はもう。
以前のように、
自分にだけ笑ってくれない人ではなかった。
それなのに。
どうして。
心が落ち着かないんだろう。
ソジュンがふいに尋ねた。
「先生。」
「はい?」
「ソヌ兄さんといると、楽なんですか?」
ジウの指先が、
ぴたりと止まった。
予想していなかった質問だった。
「え?」
ソジュンは一度視線を落とし、
もう一度ジウを見つめた。
「ただ……」
「ソヌ兄さんといるときは、
すごく楽そうに見えるから。」
以前だったら、
拗ねたように言っていたかもしれない。
どうして僕には笑ってくれないんですか。
けれど今は、
もうその言葉を口にすることはできなかった。
自分にも、
今は笑ってくれるから。
だからこそ、
もう素直に言うしかなかった。
「この前。」
ソジュンは少しためらってから、口を開いた。
「ソヌさんと話しているの……聞きました。」
ジウがソジュンを見つめた。
「英文学科の教授は。」
そこで一度、言葉を止める。
「優しく染み込んでくる春のような人だったって。」
ジウの目が、少し大きくなった。
「……聞いてたんですか?」
ソジュンは少し気まずそうに笑った。
「聞こうと思って聞いたわけじゃないんですけど。」
「耳に入ってきちゃって。」
「先生って、安心できる人に、少しずつ心が染まっていくような恋をするじゃないですか。」
そしてとうとう。
ここ数日ずっと胸の奥に押し込めていた言葉を、口にした。
「だから、どうしても不安になるんです。」
「いつか先生が、ソヌさんにも……」
一度、息を整える。
「あんなふうに、少しずつ心を許していくんじゃないかって。」
ジウは、ぱちりと瞬きをした。
そして、しばらくして。
とうとう笑い出した。
「どうして笑うんですか。」
ソジュンの唇が、
ほんの少し尖った。
その姿がおかしくて、
ジウはますます笑ってしまった。
口元を手で覆いながら肩を揺らし、
ようやく笑いを落ち着かせる。
ハン・ソジュンは、
本当に素直な人だった。
好きなら、好きだと。
嫉妬したら、嫉妬したと。
不安なら、不安だと。
感情を隠すことができないくらい、
まっすぐで、わかりやすい人。
そして不思議なことに。
そんな姿が、嫌ではなかった。
むしろ。
少し、可愛かった。
ジウは明るく笑ったまま、
ほんの少し首を傾げた。
「安心できる人だからって、
誰にでも心が染まっていくわけじゃないですよ。」
「それなら私、
今まで愛した人がトラック一台分くらいいることになっちゃいます。」
ソジュンの心臓が、
その瞬間、大きく揺れた。
ジウが笑うたび。
世界がほんの一瞬ずつ、
止まってしまうような気がした。
ソジュンは揺れる呼吸をどうにか押さえ込み、
尋ねた。
「じゃあ……」
「あの人の何が、
そんなに先生の心に染み込んでいったんですか?」
ジウはしばらく考え込んだ。
「そうですね……」
そして、ふっと笑った。
「実は最初、嫌いだったんです。」
ソジュンの目が丸くなった。
「え?」
「ほかの学生にはそんなことないのに、
なぜか私にだけ話し方が冷たかったんですよ。」
「だから、ああ、私のこと嫌いなんだって思ってました。」
「私も、なんとなく嫌ってましたし。」
ソジュンは予想もしていなかったというように笑った。
「知りませんでした。」
「あの本、あんなに擦り切れるほど読んだのに、
そんな話はどこにもなかったですけど?」
ジウはコーヒーカップを指先で弄びながら、
小さく笑った。
「小説は、小説ですから。」
「全部を本当のまま書くことなんて、
できないでしょう。」
その言葉のあと。
ジウの瞳が、
ほんの一瞬だけ揺れた。
ソジュンはそんなジウを、
黙って見つめていた。
まだ彼女の中には。
言葉にできなかった物語が、
残っている。
なぜか、
そんな気がした。
「それで?」
ソジュンが慎重に続きを促した。
ジウの視線が、
ゆっくりと遠くへ向かった。
「学期の初めに、教授がグループ課題を出したことがあったんです。」
「四人で一つのグループになって、英語で寸劇をして、
それを動画に撮って教授のブログにアップする課題でした。」
「決められた時間までにアップしないと、減点されることになっていて。」
ジウはその頃を思い出すように、
ふっと笑った。
「ところが、よりによってグループの一人と連絡がつかなくなったんです。」
「結局、その日は動画を撮れませんでした。」
「教授のブログには、すぐにお知らせが上がりました。」
「未提出のグループは減点しますって。」
ソジュンは何も言わず、
じっと話を聞いていた。
「冷や汗が出ました。」
「この課題のせいで成績が悪くなったらどうしようって。」
「悩んだ末に、思い切って教授のブログの掲示板に書き込みを残したんです。」
「グループの一人と連絡が取れなくて、
課題ができなかったって。」
ジウはそこで、
一度言葉を止めた。
まるで。
ずっと昔の文章を、
もう一度読み返しているかのように。
「そしたら、コメントを返してくださったんです。」
ソジュンが尋ねた。
「なんて?」
ジウは静かに言った。
「明日までにアップしてください。」
少し息を整える。
「減点はしません。」
ソジュンは黙ってジウを見つめた。
ジウの口元に、
ごく淡い笑みが浮かんだ。
「それで次の日、無事に課題を提出できました。」
「たぶん、あの頃からだったんだと思います。」
「私があの人のことを、
誤解していたんだって気づいたのは。」
堅くて、冷たい人だと思っていた。
けれど本当は。
その内側には、
自分が思っていたよりずっと温かい人がいた。
ソジュンはしばらく聞いていたが、
ふと首をかしげた。
「たったそれだけで?」
ジウはすぐに首を横に振った。
「いいえ。」
そして、ゆっくりと言った。
「正確に言うなら、
あの人の文章だったんです。」
「文章?」
「はい。」
ジウは手にしたコーヒーカップを見つめた。
「課題があったから、
教授のブログをよく見ていたんです。」
「お知らせを確認したり。」
「それで、ある日。
あの人が昔書いた文章を読むようになって。」
しばらく沈黙が流れた。
「でも……」
ジウの口元に、
淡い笑みが浮かんだ。
「冷たい話し方や表情からは見えなかった人が。」
「あの文章の中には、
いたんです。」
ソジュンの瞳が、
静かに揺れた。
「文章を読んでいて、
ふと気づいたんです。」
「ああ……」
「この人は、
世界を見る方向が私と似ている人なんだ。」
「私と、本当によく似ている人なんだって。」
ジウの声が、
少しずつ穏やかになっていった。
「だからだったんだと思います。」
「この人の前では、
無理に自分を隠さなくてもいいんだって。」
「自分の中にあるほかの部屋も、
無理に隠さなくていいんだって。」
「ただ……」
「私が私のままでいても、
大丈夫なんだって。」
ソジュンは何も言わなかった。
やがてジウは、
ソジュンを見つめた。
「言葉でうまく表現できない人は。」
少し息を整える。
「文章に、その人自身が現れるんです。」
ソジュンの瞳が、
ほんのわずかに揺れた。
「俳優さんが、演技を通して
俳優さんのいろんな姿を見せるのと同じように。」
その瞬間。
ソジュンはふと、
不思議な気持ちになった。
自分も、
同じだったから。
イ・ジウという人を初めて知ったのも。
一度も会ったことのない人を、
ずっと気にかけていたのも。
結局はすべて。
彼女の文章が、
始まりだった。
けれど今は、
もうわかっていた。
自分が好きなのは、
もう彼女の文章だけではないということを。
山の中で怯えて、
自分の胸に飛び込んできたジウも。
何でもない言葉に、
声を上げて笑うジウも。
少し突拍子もなくて。
怖がりで。
時々、意地を張って。
自分でも気づかないうちに心を見透かされたかと思えば、
すぐにまた一歩、後ろへ下がってしまうジウも。
そのすべてが今は、
一つひとつ気になって仕方がなかった。
ソジュンはそんなジウを、
しばらく何も言わず見つめていた。
そして、少しして。
とてもまっすぐな声で言った。
「先生が持っている、
そのすべての部屋が。」
「全部、先生なんだと思います。」
ジウの瞳が、
ゆっくりと揺れた。
「明るい部屋も。」
「傷ついた部屋も。」
「隠しておきたい部屋も。」
「私は、全部知りたいです。」
ジウの呼吸が、
ゆっくりと止まっていく。
ソジュンはそんなジウを見つめながら、
小さく笑った。
「だから、私には。」
「その部屋を全部、
隠さなくてもいいんです。」
その瞬間。
ジウの心臓が、
大きく跳ねた。
「俳優さん……」
ソジュンはジウの目を見つめた。
そして今度は、
笑わなかった。
「私、先生のことが好きです。」
あまりにも淡々としていて。
だからこそ、
かえって本気なのだと伝わる声だった。
「すごく、好きです。」
ジウは驚いて、
慌てて辺りを見回した。
そして急いで手を伸ばし、
ソジュンの口を塞いだ。
「ほかの人に聞かれたら、どうするんですか……」
ソジュンの目元が、
わずかに弧を描いた。
口を塞がれたままなのに、
笑っていた。
ジウが慌てて手を離すと、
ソジュンは小さく言った。
「聞かせておけばいいです。」
「気にしません。」
そして、ゆっくりと。
とてもまっすぐな眼差しで、
ジウを見つめた。
「先生が私の気持ちを受け入れてくれるまで、
待ちます。」
「最初に言ったじゃないですか。」
少し息を整える。
「私は……」
ソジュンの口元に、
淡い笑みが浮かんだ。
「言葉にする恋が、好きだって。」




