Episode 10 ずっと前から、あなたを知っていた
ジウが鍼灸院で治療を終えて出てくるまで、
ソジュンは建物の地下駐車場で、
静かに待っていた。
助手席に残るジウの気配を眺めていると、
なぜだか一人で笑みがこぼれた。
車内には、
彼がよく聴く音楽が静かに流れていた。
プレイリストのほとんどは、
「バラードの皇帝」と呼ばれる、
ある歌手の曲だった。
伝えられなかった告白。
最後まで届かなかった想い。
どうしても口にできなかった恋。
まるで誰かの代わりに心の内を告白するように、
静かに語りかけるその歌声を、
ソジュンはずっと前から好きだった。
いや。
正確には――
一冊の本を読んでからだった。
まだ無名だった頃。
すべてを諦めたくなった、ある日。
偶然、手にした一冊の本。
『初雪と括弧』。
あの本を読んでから、
ソジュンは不思議と、
その物語に似た歌を聴くようになった。
その物語に似た映画を探すようになった。
そしていつか、
あの文章を演じる人になりたいと思うようになった。
そんなことを考えていた、そのとき。
トントン。
ジウが車の窓を軽く叩いた。
ソジュンははっと我に返り、
急いでドアを開けた。
ジウは少し身体をかがめながら、
笑って言った。
「俳優さん、もう本当に大丈夫です。」
「鍼を打ってもらったら、かなり楽になりました。」
そして少し申し訳なさそうな顔で付け加えた。
「なんだか、ご迷惑ばかりかけてしまって……すみません。」
その言葉を聞いた瞬間。
ソジュンの表情が、
ほんの一瞬だけ固まった。
――また、線を引く。
そう思った途端、
胸の片隅が妙に寂しくなった。
ソジュンは何も言わず車を降り、
ジウをもう一度、
助手席のほうへ促した。
「俳優さん、私、一人で帰れますから――」
「だめです。」
短くそう言うと、
ソジュンはジウの頭が車の天井にぶつからないよう、
片手でそっと覆いながら、
彼女を車の中へ入れた。
まるで傘を差しかけるような、
優しい手つきだった。
やがて運転席に乗り込んだソジュンは、
しばらく何も言わなかった。
車の中には、
静かなバラードだけが流れていた。
そして、しばらくして。
ソジュンが深く息を吐き、
口を開いた。
「先生。」
低く落ち着いた声だった。
「私が好きな曲……先生の好みと似ていますよね。」
ジウは黙って彼を見つめた。
ソジュンはかすかに笑った。
「それって、本当に偶然だと思いますか?」
短い沈黙が流れた。
そして、
まるで音楽に酔うように、
ソジュンはゆっくりと胸の内を話し始めた。
「先生は知らないと思いますけど……」
「私は、ずっと前から先生のことを知っていました。」
ジウの瞳が、
わずかに揺れた。
「まだ無名だった頃、全部諦めたくなったことがあったんです。」
「そのとき偶然読んだのが、『初雪と括弧』でした。」
ソジュンは前を向いたまま、
静かに笑った。
「心が折れそうになるたびに、何度も読み返しました。」
「それで、不思議なんですけど……」
「あの文章を読むと、もう少しだけ生きてみようって思えたんです。」
ジウの心臓が、
ゆっくりと揺れ始めた。
「だから私は、先生が思っているよりずっと長いあいだ――」
「先生の世界の中にいたんです。」
その言葉を最後に、
車内は静かになった。
流れている音楽だけが、
かすかに空間を満たしていた。
やがてソジュンはゆっくりと顔を向け、
ジウを見つめた。
「私の半分は、先生の物語でできているんです。」
「だから……」
ソジュンの眼差しが、
深く揺れた。
「先生に近づく資格くらい――」
「私にも、十分あると思いませんか?」
その瞬間。
ジウの心臓が、
どくんと大きく鳴った。
何も言えなかった。
何を言えばいいのかさえ、
わからなかった。
ただ、
窓の外を流れていく灯りを見つめながら、
どんどん速くなっていく自分の鼓動を、
彼に気づかれないようにすることしかできなかった。
───
家に着いたジウは、
玄関のドアを開けて中へ入るなり、
灯りもつけないまま、
その場に崩れるように座り込んだ。
そして両手で、
胸をぎゅっと押さえた。
まだ、
心臓が速く打っていた。
いつも明るくて、
冗談ばかり言っているように見えたハン・ソジュンが、
車の中で打ち明けた、
真剣な言葉の数々。
その眼差しも。
その声も。
何度も頭の中を巡っていた。
――私の半分は、先生の物語でできているんです。
その言葉が、
まるで残響のように、
耳の奥から離れなかった。
ジウはしばらくそのまま座っていた。
ようやく気持ちを落ち着かせると、
ゆっくりと立ち上がった。
そして何かに導かれるように、
本棚の前へ向かった。
本棚の片隅に差してある、
自分のデビュー作。
『初雪と括弧』。
ジウにとって、
その小説は。
痛みであり。
思い出であり。
青春だった。
とても苦しかった。
それでも、
もう一度戻りたいと思ってしまうほど、
温かかった季節の記録。
そんな物語が、
誰かにとっては、
もう一度生きてみたいと思わせる希望だったなんて。
胸の奥が痛むようで、
それなのに不思議なくらい、
こみ上げるものがあった。
ジウはゆっくりと本を取り出した。
そしてしばらく、
表紙をじっと見つめていた。
自分にとっては、
過ぎ去った時間をつなぎ止めるために書いた文章だった。
忘れたくなかったから。
消えてしまうままにしたくなかったから。
ただ、それだけで。
一つずつ書き残した文章だった。
そんな言葉たちが、
自分の知らないところで、
誰かの長い夜を一緒に越えていた。
そして、その人が。
今。
自分のそばにいる。
その瞬間。
ようやく、
パズルのピースが、
ひとつずつはまっていくような気がした。
初めて会ったときから、
どうしてソジュンの眼差しが、
どこか懐かしく感じられたのか。
どうして彼の演技が、
あれほどまでに本物に見えたのか。
彼は最初から、
チョン・ウジンに初めて出会う人ではなかった。
ずっと前から、
あの文章の中でチョン・ウジンに出会い。
理解し。
一緒に時間を過ごしてきた人だった。
そして同時に、
申し訳なさが胸に押し寄せた。
最初に制作会社から、
ハン・ソジュンをキャスティングしたいという話を聞いたとき。
ジウは誰よりも強く反対した。
あまりにも華やかな俳優だと思った。
自分の静かで、
胸の奥に押し込めたままの初恋なんて、
絶対に理解できない人だと思っていた。
けれど。
違った。
ハン・ソジュンは誰よりも長く。
誰よりも深く。
あの文章の中で生きてきた人だった。
そのことに今さら気づいたジウは、
胸の奥がじんと痛んだ。
あのときの頑なな反対が、
もしかしたらソジュンを傷つけていたのではないか。
そして、もう一つ。
ずっと考えないようにしてきた問いが、
心の中で静かに顔を上げた。
どうして自分は。
あの人の前で、
こんなにも揺れてしまうんだろう。
山の中で自分を探し、
初めて名前を呼んでくれた瞬間も。
怪我をした足を心配して、
薬を山ほど買ってきてくれた夜も。
そして今日。
自分の文章が、
彼の長い時間を一緒に越えてきたのだと聞いた瞬間も。
一つずつ思い出すたびに、
胸の内側で、
何かが少しずつ動いていった。
ジウは本をそっと胸に抱いた。
そして、
ようやくわかったような気がした。
長いあいだ。
もう二度と、
誰かのために動くことはないと思っていた心が。
ほんの少しずつ。
また、
動き始めていた。




