Dr.という狂人
「いやぁ、まさかディモンがあぁまでやる気のあるやつだったとは。メイは良い翼竜と友達になったんだな」
一仕事終えたアルーゼが右肩を回している。
「ディモンとってもおもしろいよ。ちょっとおばかさんだけど」
「確かに馬鹿っぽい顔してるな」
「おりるときいつもあんなかんじ。でもおとうさんがえさあげると、わすれてまたくるの」
何度落ちて死にかけようと疲れ果てようと次の日には忘れている低知能を活かした餌付け。なんと恐ろしい。
しかし今回は与える餌がない。あんなに頑張ったディモンに払える報酬がないのだ。
「お馬鹿なとこは愛嬌ってやつだな。なんかディモンが食えるもの探しに行くか?」
「べつにいらないとおもう」
まさかの報酬無し。そんな不憫ディモンは幸か不幸かアルーゼの勝手な解釈によってほとんど体力を使わずにロキとの距離を縮めていた。
「んじゃビリビリを待つとするか」
アルーゼも感動してた割にはディモンの報酬無しには特に何も思わず、メイの手をとって腰を下ろした。
あぐらの上にメイを座らせて、開けた場所のど真ん中にどかっと居座っている。
「レオンの方がちょっと歳上か?」
「…れおん?」
「メイみたいに可愛いやつがいるんだよ。白髪が綺麗でさ。あとはツァル子っておっぱいでかくて可愛いやつもいるぜ。ツァル子はメイ見たら可愛いって発狂するだろうな」
ティルル襲撃から一日経過したが、まるでずっと昔に離れ離れになったかのような喪失感がアルーゼの心にあった。
少し寂しさが膨れ上がったアルーゼの手にメイの手が置かれる。
「…お、おね」
「んぅ?」
「…おねえちゃんは、おとうさんが…きらいなの…?」
お姉ちゃんと呼ばれ、父親のことも聞かれた突然のダブルパンチ。お姉ちゃんと呼んでくれた喜びとクソ親父の不快感が同時に押し寄せてくる。
「え」
もちろんお姉ちゃん呼びが勝つに決まっている。あんなクソ親父をいつまでも引きずるはずもない。
しかし突然言われたため反応に惑った。
いつ悟られたのか。記憶をたどり、ベルーサとの会話でゼアルをクソ親父呼びしていたことを思い出す。
…あの時か。
「あー、そうだなぁ。嫌いっつーか、なんつーか」
メイの前ではっきりと口にして良いものか。もう既にクソ親父呼びを聞かれているが、改めて嫌いだと明言するべきか。
メイが自分の父親を好いているのは明白で、しかも幼い。そんなメイを前にしてはっきりと「私は父親が殺したいくらい嫌いだ」なんて言ったら明らかに教育に悪い。
「えぇっとなぁ、そのぉ」
ツァル子たちのことを話そうと思っていた矢先、父親についての質問はアルーゼを困らせた。
誤魔化してもいいが隠し事をしたくない自分もいる。
「…に、にがて、かな…?」
迷った挙句、中途半端な答えになって、心に靄がかかったような不快感だけが残った。
メイも「?」と微妙な反応をしている。少し気まずそうに、アルーゼはなんとか巻き返そうと
「…メイのお父さんはメイにどんなことしてくれるんだ?」
「えーとね、いろいろおしえてくれたよ。ごはんもおいしいし、よるはおもしろいおはなしをしてくれるし。おねえちゃんのおとうさんもしてくれたでしょ?」
「私のク…おや……父さんはな、メイのお父さんがメイにしてくれることを、私にはしてくれなかった」
「だから、にがてなの?」
……いや違う。そうじゃない。何か違う。
「…だからおとうさんがきらいなの?」
メイの言葉に疑問が後押しされる。
飯を作ってくれなかったから?面白い話をしてくれなかったから?だからクソ親父が嫌いなのか?
今のはメイと自分に対してストレートな気持ちを誤魔化しただけだ。
「違う、逃げたな今のは。別に飯作ってくれなかったから嫌いなんじゃねぇし、あいつの話はいつもつまんなかった」
思い返せば、いつからゼアルが嫌いになったのか。まだゼアルと偽母親と暮らしていた頃、あの生活が好き嫌い関係なく"普通"だった。孤独感があっても嫌悪感は無く、ただ日々に絶望していた。
ノアと出会ってからもゼアルが嫌いというより会いたくないだけだった。嫌いになる感覚が分からなくて、それでもいつからか反吐が出るほど嫌いになった。
「結局私はあいつにビビってただけだな」
ゼアルを倒して関係に終止符を打った気がして、悪い過去だと記憶に蓋をしながらゼアルについて考えるの避け続ける。別にわざわざ向き合う必要もないが今一度己に問いかけた。
「私は、大切な人を失いたくないって思ったから、あいつが嫌いになったんだ」
ノアとの生活を奪われないために、ノアを奪われないために、変えてくれた自分自身を失わないために、そして、大好きな仲間を失わないためにゼアルに拳を向けた。
アルーゼの中で漠然としていた引っかかりが外れる音がした。
「メイ、こんなはっきりいうのもなんだけど私はクソ親父が大っっ嫌いだ。もうほんとに嫌いだ。だからごめんな、メイはお父さんが好きなのに、目の前でクソ親父とか言ってさ」
「ううん、ちょっときになっただけだから、ごめんなさいはいらないよ」
「…でも」
「ひとをすきになるだけがじんせいじゃない、っておとうさんがいってたから、ごめんなさいはいらないんだよ」
幼くても人を嫌いになる感覚は分かる。メイはアルーゼの表情を見ることはできないがその声音から感情を読み取っていた。
小さな体に手を回して、アルーゼは湧き上がる感情が伝わるようにそっとメイを抱きしめた。
「ーーー」
幼少期を一切の愛情を受けずに育ったアルーゼは誰よりも優しさに敏感だった。
心が弱っていても備わった強い精神力が本音に蓋をして本人すら気づけない。そんな蓋は誰かの優しさによって簡単に取り除くことができるが、ある種、どんな人間だろうと優しくされれば心を開いてしまう欠点があった。
寄り添われ、時につけ込まれる。強い精神力と独立性の裏には誰にでも依存してしまう弱さが隠れている。
「メイのこと本当に好きになっちまう…」
「おねえちゃん、くすぐったいよ」
「…絶対に護るからな。絶対に」
メイの体温を感じながら、アルーゼはふと何かに気づいた。
メイに対しての感情ととある記憶が結びつく。
壁画洞窟を見つけた後、エースケと一緒に水を探していた時のことだ。
「俺がアルーゼを護る」あいつは確かにそう言った。珍しく真剣に目を見て言われたから、少し動揺したのを覚えている。
「…エースケのやつ」
師匠が頭を撫でながら、抱きしめながら毎日言ってくれた言葉。
護りたい、失いたくない、ルゼアチノでエースケに再開した時、そういった感情とは違うなにか特別な想いが溢れた。
だからルゼアチノで、私は、エースケに。
「おねえちゃん?」
突然静かに動かなくなったアルーゼをメイは不思議がっている。
耳まで赤く染めて、エースケの真剣な表情を思い出しては鼓動が早まる。
エースケは私のこと…。
「ーー調子、狂っちまう…」
ムズムズというかソワソワというかとにかく感情が痒い。
師匠やツァル子たちとは違う、なにかこう嬉しいというか、なんというか。
「どこかくるしいの?」
声や呼吸で相手を知ろうとするメイは、小刻みに呼吸するアルーゼが苦しんでいるように感じた。
もちろん臓器的な問題ではない。
しかし不思議なほど心臓が音を立てている。
なにを焦っている?緊張しているのか?
上手く言い表せない胸の昂り、今まで一度もこんなことはなかった。
「……こんな感情…知らない」
不安げに、それでもどこか嬉しそうに自分の中で消化しきれない初めての感情がアルーゼにかつてない衝撃を与えている。
「おねえちゃんは…こえのおおきいおにいちゃんにあいたいんだね」
「……」
不意をつかれた、後ろから突然わっと言われたような心臓の跳ねる感覚にアルーゼがメイの頬を指で優しくぷにった。
あからさまな照れ隠し。心を読まれたことに対する小さなやり返しにメイは「やっぱり」と微笑んだ。
「…そりゃぁ、大切な仲間だから…さ、寂しいだろ…」
「…ごまかした」
「な、寂しいってのはほんとだぞ!」
「わたし、あいたいんだねっていったんだよ」
含みのある言い方にアルーゼが目を細める。
「…メイぃ?私に何言わせるつもりだぁ?」
ほっぺたを「うりうりぃ」と揉んでくるアルーゼにメイは「ゃぁぁ」と可愛らしく微笑んだ。
とうにメイは察している。だがアルーゼ本人がまだ自分の気持ちに完全には気づいていない。
エースケが心から羨むであろうアルーゼとメイのじゃれあいは互いの心の穴を埋め合うようで、切なく微笑ましい。
そんな二人だけの空間にきったない絶叫が割り込んできたのは直後のことだった。
********************
「……えぇぇっと」
痛いくらいに突き刺さる多くの視線にエースケがゆっくりと目を合わせていく。
こちとら正座しとるというのに、筋肉男たちは容赦なく見下してくる。
「そこまで熱烈な目で見られると照れちゃうというか…。まさかモテ期?」
これが女の子たちならどれほど良かったか。実にむさ苦しい。屈強な男たちに品定めされているなんて、考えただけで寒気が走る。
唯一の女性、にしては幼い女子は顔面ピアスだらけのハードコアガール。こちらから手を出すなんてあり得ない。
「今回は縁がなかったということで、ぼくはそろそろ」
「座れ」
ハードコアガールの圧に負けて、立ち上がろうとしたエースケが再び正座した。
蹴り飛ばされて、崖から落ちたと思いきや水晶に保管され、薄暗い場所でろくに身動きも取れず、突然明るくなれば、筋肉男たちと目つきの悪いハードコアガール、黒髪イケメン剣士に囲まれていた。
よし、記憶ははっきりしている。この状況だけがよく分からん。
「……」
特に目を引くのは眼前の石造建造物だ。角ばった味気のない建物は遺跡のようにも見えたが、冒険心がくすぐられるどころか、近づき難い不穏な雰囲気を放っている。
「(それにしても…)」
明らかに人為的に破壊された家らしき建物がちらほらと目に映る。
カルデラの中央に作られた居住スペース。カルデラ村とでも名付けようか。
そんなカルデラ村には村人らしき存在はどこにも見えない。
「……してどういった用件で」
「随分喋るんだなぁ、ガキ」
一人の筋肉男がきつい口調でエースケの言葉を一蹴した。高圧的に睨みつけ、これ以上の発言を許さない意思が嫌ほど伝わってくる。
連れてきた割に全く歓迎ムードではない。つまり拉致られたわけだ。
しかし勝手ながら、ゼアル関連で襲撃されたと思っていたため標的はアルーゼだとすっかり思い込んでいた。
「(まさか俺だったとはね…)」
間近にいる筋肉男だけでも五人。建物内や少し離れた距離にいるのも含めれば十数人は見えている。その全員が巨竜の民の戦士、もちろん見えない場所から見ているやつもいるだろう。
そんな確積み状態をアルーゼのように景気良くぶっ飛ばせる力があったらどれほどいいか。
しかし正直なところエウポンという能力を完全に理解していないのが現状で、エースケ自身、エウポンにはまだ何か眠っている力があるのではと疑っている。
恐竜化について分かっていることは、時に能力となっている元の生物以上の力を発揮できるということだ。
その最たる例がレオンだろう。彼の能力はカメレオン。それなのにレオンは体を変色させるのではなく透明化してしまう。
ノアもアルーゼと同じアルゼンチノサウルスでありながら巨大化が不可能で、体格を保ったまま体重のみを増加する、と親子でも能力に違いがある。
つまりエウポン、もといエウストレプトスポンディルスにも獣脚類能力特有の素早さと鋭い爪牙、脚力のみならずエウポンならではの能力があると信じているのだった。
「別に喋るくらい許してよ。こんな状況で抵抗する気なんてないし、大人しくする代わりに少しくらい付き合ってくれても……っ!!」
髪の毛を思い切り掴まれたエースケが表情を歪め、目を見開いた男が圧力をかけるように迫った。
頭を強制的に持ち上げられ、エースケは反射的に男の手首を両手で掴んだが、片手一本にすら敵わない。
「…ぁっ」
「おいガキ。今のは黙れって意味なんだよ。雑魚は雑魚らしく大人しく黙ってろ、分かったな?」
抵抗をねじ伏せる暴力による支配。言葉が言葉として機能しない、典型的な恐怖支配は痛みよりも不快感が強い。
まさにゼアルの息がかかったクズの所業。アルーゼがこんなものに押さえつけられていたなんて、クソ呼びが一瞬で納得できる。
こいつらはイカれてる。
「はぁ…」
瞬間、睨み返していたエースケの視界が赤く染まった。
「!?」
肉が裂ける音とともに噴出した鮮血が顔に飛んできた。
やられた?だが痛みはない。
まだ理解が追いついていない、そう思ったが、
「ベェルゥサァッ!」
その迷いは男の食いしばる声によってかき消された。
ベルーサが長剣を男の左肩あたりに刺したのだ。そう深くはないが、剣先が完全に沈んでいる。
「手を離してください。モナ様の前ですよ、もう少し大人になったらどうでしょう。それに、彼は我々にとって重要な存在。雑な扱いはいささか常識に欠けているかと」
「貴様ァ!」
男がエースケを投げ捨て、空いた手で刃を握り、手が切れることなど構わずそのまま引き抜こうと万力をこめる。
エースケは勢いよく捨てられたことでバランスを崩し、そのまま軽く地面に叩きつけられたが、その光景から目を離すことはなかった。
「後ろへ退がれば簡単に抜けるでしょう?なぜわざわざ対抗するのですか」
「剣に堕ちた貴様如きに俺が退がるなど言語道断!あまり調子に乗るなよベルーサ。お前のような…」
男を無視して有無を言わさずベルーサが剣を引き抜くと、さらに鮮血が傷口から噴き出し、さらには男の手の平が裂けた。
「ぅぐぁっ!!」
無慈悲。その一言に尽きた。熱い鮮血とは裏腹に、ベルーサの目は酷く冷たい。
一方のモナはあくびに涙を浮かべながら水晶の上で退屈そうにしていて、それがまるで男が眼中にないようで、エースケは恐怖を覚えた。
膝をついた男の腕全体が出血によって真っ赤に染まっていき、そんな男を誰一人として助けようとも逆に笑いもせず、ベルーサとモナ含め周囲の戦士たちはひたすらに無感情だった。
「(…気持ち悪い)」
今までに出会った戦士たちは全員が異常だった。それでもしっかり記憶に残っているのは個々に出会った戦士たちで、集団としての戦士の異常性はエースケにとって未体験に等しい。
アルーゼをゼアルに奪われ直後に戦士集団との衝突はあったもののエウポンの暴走によって記憶はなく、故にこの戦士たちの集団性に寒気が走った。
全員の視線がが男に向いていない。
戦士たちの視線は既にエースケに戻り、まるで男とのやり取りが切り取られたような、振り出しに戻ったようだった。
「……!」
男と目が合う。血走った眼球と浮かび上がった血管は怒り以外のなにものでもなく、放つ殺気が人間の領域を超えている。
事実、男は人の姿を捨て、その身を恐竜の肉体へと変貌させていた。
「ガキ、貴様は後だ。 ベルーサまずは貴様から」
「……」
「ベルーサァ!!」
「ヒッヒッヒ。そう怒っては血が止まらんぞ」
『!?』
唐突に飛び込んできた老いた声にエースケの目が惑う。
全くの予想外。視界にはいなかったはずの老人が、恐竜化した男の背に張り付いて、耳横から顔を覗かせている。
そのニヤけた顔が実に不気味で、この状況を心底楽しんでいるよう…。
否、何かを楽しみにしているように見えた。
「ちとしみるからのぉ?」
「あ?」
注告から間髪入れずに老人は長くざらついた舌を男の傷口に押し当て、流れ出る血を水音を立てながら舐めとった。
「!!」
エースケと男の反応はほぼ同時で、あまりの異常行動に男は叫んだ。
モナは「キモッ」、ベルーサは「……」と各自それぞれのリアクションだったが、どちらにせよ老人の行為に賞賛している者は一人もいない。
よりによって傷口を直で舐めるなんて戦士とは別ベクトルでイカれている。
老人は暴れる男を気にもせず、まるで甘い蜜でも舐めているような恍惚な表情で傷口を舐め続けている。
「やめろぉぉぉ!!!」
屈強な戦士と筋肉などこれっぽっちもない老人。その体格差と力の差は言うまでもなく戦士に分がある。
されど相手は竜滅会幹部。立場上、戦士は振り解こうするが手を出してはいない。
「あーあ。あんな老害、さっさとぶち殺せばいいのによ。クソ馬鹿な筋肉だな」
「そうは言うものの一応戦士ですからね。まして金銭面で関係を結んでいる以上、上下関係を忘れはしませんよ」
「それがクソ馬鹿だっつってんだよ、馬鹿が」
「まぁしかし、あれは別の理由で抵抗できていないだけでしょうが」
老人の異常行動を慣れた目で眺めているモナ。ベルーサはどこか退屈そうにしている。
「ヒッヒッヒッ!!なんと生臭い!実に不愉快じゃのぉ!!」
紫色の長い舌が血を絡め取り、老人は血と涎に塗れながら満足げに不気味な笑みを浮かべている。
それを上下関係を理由に何もしないなんてエースケは理解ができなかった。
しかしエースケは戦士が抵抗しない本当の理由に気づいていない。
「…力がっ! はい、らねぇ!」」
絞り出した声とともに戦士が膝をつく。表情は全身を走る苦痛によって歪んでいて、なんとか体を支える程度の力しか出せずに、今にも崩れそうだった。
「どうなってんだ」
その突然の事態にエースケが即座に飲み込める要素はない。
老人が背中から離れると同時に男が無力に倒れる。物理的な衝撃などなく、しかし老人が原因だということは分かっている。
だからこそ簡単に押し倒せるはずの老人がひどく恐ろしく見えた。
「(ゲホッゲホッ!)いかんの、血が(ェエッホ!)喉に(ゲッホ!!)」
赤く染まった唾を飛ばしながら、老人が咳き込んでは苦しそうに空気を吸い込み、また咳き込むを繰り返す。
放っておけば死んでしまうのではないかと、イカれ老人への心配…とまではいかない少しの不安を覚えたが、別に助けようとは思えなかった。
そんな中、老人が一人の戦士を指差す。
「(ゲホッッ!)背中を!(ゲホッゲホッ!!)」
叩いてほしいまでは言えず、老人は苦しみ続けている。指差された戦士がその意味を理解して老人へ歩み寄っていく。
一歩、一歩と近づくその間にも老人は荒い呼吸を繰り返しながら赤い唾を飛ばしていた。
「Dr.」
近づいてきたのは引き締まった体つきの若い戦士だった。
堅物とよく呼ばれている男は倒れている男に視線すら向けず、下品に唾を飛ばすDr.に対しては嫌悪感を抱いていた。
「少し強めに叩きますよ」
唾を飛ばす嫌悪感で目に力が入ったが、悟られないよう押し殺す。誰がこんな汚い老人に近づきたいか。
まして若い戦士からすれば実に不快な命令だったが、それでも若い戦士は堅物と呼ばれるだけあって決してそういった感情を出すことはない。
多少の抵抗として強く背中を叩くくらいだ。
「(ゲッホゲホ!!)」
肩甲骨辺りを狙って腕を振り上げる。殺さないよう、この嫌悪感が晴れるように力を調整しなければならない。
「失礼」
待望の一発目。暴力が先行しないよう力を調整して、今まさに痛快な音を立てようと腕が振るわれた、まさにその時。
若い男の太ももに痛みが走った。
「??」
なぜ今こんな時に。
そう思ってゆっくり視線を下すと
「!!」
声すら出せない衝撃が若い戦士の思考を停止させた。
自身の左足に注射器が突き刺さっている。
「すまんのぉ。…我慢できずについ」
「…ぁぁ、ぁ、ぁあっ」
既に注射器は空。つまり何かが体内に打ち込まれたのだ。
「…いやだ。…いやだ」
「油断したのぉ。(ゲホッ!)咳き込んでたからかい?(ゲホッ!)これはいつもの事じゃのにのぉ」
もうDr.の声は若い戦士に届いていない。
後退り、どうにかDr.と距離を取るが無論意味はない。
注射器が地面に落ちる。エースケの記憶している注射器に比べて一回りほど大きく、医療器具とは思ない不清潔さがあった。
この老人は格が違う。エースケの頭の中で危険信号が最高音をかき鳴らしている。
無意識に拒否してしまう、生理的に受け付けないとはこの事なんだと理解した。生きている世界がまるで違う。あれは絶対に関わってはいけない類の代表だ。
「…ぁぁっ、ぁあっ!ああ!」
若い男は頭を抱えて空を見上げている。次第に大きくなる絶望の声音とともに老人の口角も満足そうに上がっていく。
「いやだ!いやだ!!死にたく…!死にたくない!!」
爪をたてた両手が頭から頬下へと顔面を傷つけていく。相手はあのDr.。この老人の魔の手は触れただけで死に至ることを若い戦士は知っている。
「なぜ!!どうして!!」
充血した目から絶望の涙が傷ついた頬を伝っていく。理解できない怒りが心を支配して、
「シノルゥウウ!!!!」
ついに戦士は発狂した。思い切り食いしばったことで奥歯が砕け、顔面の傷に血が滲んでいく。
怒気は狂気と化して、堅物などとは程遠い狂人になった戦士にDr.シノルは「ヒッヒッヒ」と笑顔で返す。
完全な挑発。しかし戦士はDr.に一歩も近づかない。
感情を爆発させDr.を今にも殺せる勢いだというのに、一歩たりとも近づこうとしないのだ。
「ぁあぁあぁあぁあぁあ!!!!!」
「おぉ、元気元気。やはり若さは素晴らしいのぉ」
Dr.も逃げるどころか実に満足そうに笑っている。
彼の目には老人がどのように映っているのか、エースケは老人が悪魔にしか見えなかった。
そんな悪魔が作り出した狂人は体中を引っ掻きながら、内から溢れ出る激痛にのたうち回っている。
断末魔に近い絶叫は不安を煽り、文字通り戦士は豹変してしまった。
それなのに
「…なんだよ。なんなんだよ!どいつもこいつも!」
誰一人として心配などしていない。同じ戦士が目の前で狂っていくのをただ無関心に無視している。
モナはそれはそれは退屈そうに欠伸をして、ベルーサも顔色ひとつ変えていない。なによりもエースケの怒りに火をつけたのは事の発端である老人が不愉快な高い声で笑っているからだった。
「お前ら、ゼアルと同じくらいいかれてるぞ」
「…おいクソ転移者。今何つった?」
歳下、それも幼い少女とは思えない冷徹で圧のある声に対して、反発するようにエースケが睨み返す。ここで臆するわけにはいかない。
「いかれてるって言ったんだよ。お前も、お前も、あのジィさんも、みんないかれてる!」
怒りに任せて言い放った直後、エースケの前で金属音が響いた。
何が起きたのか。
モナの横にいたはずのベルーサが剣を振り上げた状態から今まさに姿勢を戻していく。そして自分の足元に突き刺さる禍々しい漆黒の短剣。
「ベルッ!てめぇいい加減にしろよゴミが!どれだけモナの邪魔すんだこのクズ!死ね!死ね死ね!いい加減死にやがれ!!」
「転移者を殺せば、裁かれるのはモナ様ですよ。少し落ち着いてください」
「調子に乗んなよゴミ!いい加減にしねぇとてめぇも殺すぞ!なにモナを助けたみてぇに!」
「まさか、助けたなんて恐れ多いですよ。モナ様はきちんとご自身を守れる方ですから、これはモナ様を失いたくないわたしの我儘です」
その行為にどんな意図があるのか。
エースケとベルーサの視線が交差するが、相手の心境を理解しているのはベルーサだけだ。
「なんのつもりだよ」
「単純にあなたに死なれては困るのです。ですからそう構えないでください。こちらからあなたに手を出すことはありませんから…と言っても説得力がありませんね」
ベルーサがいなければ短剣はエースケに刺さっていた。もちろん説得力などない。
しかし助けてくれたのも事実で、モナからは容赦ない殺意が感じられるが、ベルーサからは敵意すら感じない。
「モナ様はDr.が嫌いなので気が立っているんです、という理由で納得できますか?」
「納得もくそも、あの狂ってるジィさんと仲間の時点で信頼ゼロだよ」
「おいクソ転移者!!老害とこのモナ様が仲間なんて二度と口にすんじゃねぇ!!」
モナがエースケを殺そうとした理由は実に単純だった。自分とDr.を同一視されただけで本気で殺そうとするモナの精神も、Dr.と同様に常人では理解できない猟奇的なものだ。
故にベルーサが落ち着いているだけで常識人に見えかねない。
エースケは狂気の中に隠れた偽物の善意に漬け込まれまいと心に壁を築く。
「モナ様の言葉は気になさらず。少なからず今はあなたの安全を私が保証しますよ」
「信頼ゼロって言ったろ。イケメンが守ってくれるのは大変嬉しいが、男としてのプライドがあるんでね」
たとえ敵意が無いとしても、長剣のせいで体が無意識に強張る。加えてベルーサが一歩一歩ゆっくりと近づいてくるため、緊張感の増幅が凄まじい。
足元に刺さった短剣を抜いて応戦しようか、恐竜化して立ち向かおうか、どちらにせよ脱出のためにはベルーサとの戦闘は避けられないだろう。
「余計な自尊心は時に己の首を絞めますよ」
「ご親切にどうも。ついでに、できればそれ以上近寄らないでほしいんだけど」
「言ったでしょう。 あなたに死なれては困ると」
ベルーサの視線がエースケから外れていた。
その違和感と背中に走った悪寒にエースケが咄嗟に振り向くと、
「ガァアアッア!!!」
Dr.によって豹変した狂戦士がエースケ目掛けて突っ走っていた。




