敗北という絶望
引きずり出されたエースケの姿はレオンが願った奇跡を到底叶えられるものではなかった。
恐竜化は解け、衣服は血で赤黒くベッタリと染まり、体に全く力が入っていない。赤黒い流血はまるでエースケの肉体から命が流れ出ているようだった。
泣き喚くでもなく怒り狂うでもなく、ただぼんやりとエースケを眺めているレオン。
もう一発矢を撃てば状況は変わるのか、捨て身で飛び込めば状況は変わるのか。答えは実に単純。
絶対に変わらない。やってみなければ分からないなんて言葉は現実を知らない者の妄言である。
これが当然の結果だった。
「……エェ、スケ……」
吐息に近い、残り僅かな力で振り絞られた儚い声。
その声は誰の耳にも届かなかった。それでもツァル子へ視線が集中したのは、握りつぶされた痛みで気絶したはずのツァル子がエースケへと腕を伸ばしていたからだった。
アンぺの非情な慈悲はツァル子をエースケの近くへ投げ捨てた。ボロ雑巾のように地面に倒れ伏すツァル子は必死にエースケに体を寄せ、生死を確認する。頬にそっと手を置くと体温の温みが伝わり、弱々しいが呼吸も心拍も感じた。薄れゆく意識の中、ツァル子が安堵とともに紅く染まっていく。愛しい人を抱き寄せるように、母親が子供を抱き寄せるように、エースケはツァル子の腕に包まれた。
「見るに耐えんな」
二人を叩き潰すには充分すぎる大きさと力が込められた巨拳を振り上げるアンペ。
数秒後、エースケとツァル子の骨は砕け、肉片と臓物が飛び散り、生命活動は停止する。周囲は血の海と化す地獄絵図、この現状を打開する力をレオンは持っていない。
しかし打開する力を秘めている者がいる。意識を失ったときに目を覚ます凶暴な生物はその鋭い爪と牙であらゆる逆境を乗り越えてきた。
ツァル子はエースケの中で眠る力が目を覚ました感覚をはっきりと感じた。
心音が大きくなり、体が震えて、電源が入ったかのように大きく跳ねる。
「……ほう」
エースケの再起動にエウロパは感心した。
「……エースケ……だめ……やめて……」
気を失いかけているツァル子は弱々しくも必死にエースケを止めた。
暴走は肉体に積み重なったダメージを無視して限界まで戦い続ける危険性を孕んでいる。万が一、今のエースケが暴走状態で戦った場合、今度こそ肉体は耐えらない。
立ち上がったエースケにエウロパとアンペは興味津々の様子で、レオンは希望が最も最悪な形で芽吹いたことに戦慄した。
ウガラァァァ!!!!
「暴走か! 面白い!」
覚醒の咆哮。
アンペは手ごたえのありそうなエースケの気迫に笑ったが、
「――――」
エースケはその場から動かなかった。
「……エースケ、さん」
レオンは痛感した。やはりこれ以上は望めない。
目、鼻、口、耳からすらも血を流し、エースケは立ち尽くしている。人間と恐竜の間、より凶暴な存在に変わり果てた血色の生物は、眼前の敵を喰いちぎる牙を剥き出しにして沈黙した。
張り詰めた緊張は無駄骨となり、アンペは怒り、エウロパが落胆する。
ついにツァル子も気絶し、正真正銘、残るはレオンのみとなった。
「エウロパ、貴様は先に戻っていろ」
不完全燃焼。
エウロパは、なぜ、と聞き返さずに、だめだ、と言った。アンペがなにをするのか想像に容易く、ゼアルの命令に忠実なエウロパからすれば身勝手な行動は許さないし、戦士たるもの命令に私情を挟むのは言語道断であった。
「弄ぶのは絶対に許さない。暴れ足りないのなら付き合ってやる」
「骨の折れたその体でか、女のくせに出しゃばるのも大概にしろ。殺してしまうぞ」
二人の相打ちの可能性すらレオンには希望となった。
出会ったことのないアルーゼにすら希望を抱く。
エースケが命を懸けてでも助けたいと願うのはどんな人物なのか。きっと彼女ならば戦士を簡単に倒して、エースケたちを助けてくれる。
助けに来てくれたんだろ? 私に助けられてどうすんだよ。
そう笑い飛ばしてくれるはずだ。
「おいおい」
どこからか聞こえるエースケでもツァル子でもない声。
「女のくせに、ってのは聞き捨てならねぇなぁ」
意識ある者全員が声の主を探す。
新たな戦士ではなく、騎士でもなく、枝葉の間から飛び出した人物は金色の髪をなびかせて立ちふさがった。
血色を塗り替える黄金。それはまさに救世主の降臨。
死に際の咆哮が呼び寄せた女神は争いを、力を持ってして終結させる。
「それに、子どもを痛めつけるってのも気に食わねぇ。命令に従うだけの空っぽな人間にはなるもんじゃないぜ」
金色の瞳に見つめられ、戦士二人が固まる。
その金色には見覚えがあった。戦士にとって金色は畏怖の象徴であり、絶対の支配を意味する。
「無礼講だ。全力でかかってきな」
我らが王の姿が重なったが侵入者を排除する義務が恐怖をかき消し、アンペとエウロパが戦闘態勢に入る。未熟者と称される二人だからこそ相手との力量の差を感知する能力は過敏で、眼前の人物が実力者であることを見抜いた。
「……なんだ、こねぇのか」
女は笑った。
と同時に、アンペの腹部に強烈な衝撃が槍のように貫通する。
竜脚類の防御力を無視した、巨体すらも数十メートル吹き飛ばす圧倒的な怪力。
凄まじい脚力が生み出す助走のいらない跳躍はドロップキックという形となって、アンペはまったく反応できずに数本の大木の幹を砕きながら吹き飛んだ。
格下には決して理解できない異変。透明とはまた違う”見えない”攻撃に対してエウロパは恐竜化しようとしたが、既に間合い、トリケラの突進によって骨折した左腕を掴まれた。
エウロパは激痛に歯を食いしばって耐えたが、
「ここか」
女は骨折している肋骨を見抜いて、容赦なく指先で突いた。
これには耐えられず悲鳴を上げるエウロパ。しかし骨折した左腕を掴まれているため下手に動かすことも出来ず、振りほどくこともできない。
「これ以上、痛い思いしたくなかったらさっさと逃げな」
「ッ! ふざけるな!!」
激痛をこらえて右腕で反撃するが難なくかわされ、首に手刀を寸止めされる。
眉を上に動かして得意げに笑う女に対してエウロパは怒りを覚えたが、直後、下顎に掌底が撃ち込まれ大きくのけぞった。意識が飛びかける、まるで相手になっていない。
骨折した左腕に力を入れるが、女は咄嗟に手を放し、地面に吸い込まれるようにエウロパが尻もちをついた。されるがままの屈辱的な戦闘にエウロパが女を睨む、そしてすぐに恐怖した表情に変わる。
金色でありながら黒い、殺意を放つ哀れみの目。
「……ふざけちゃいねぇよ」
勝てない。
本能的直感は立ち上がらせることを許さなかった。
エウロパがレオンに言い放った覚悟。だとすれば覚悟の重みがまるで違う。
エウロパは怯え、尻もちをついたまま後ずさりした。戦意の喪失は明らかで、女はそれ以上に攻撃する気もなく、吹き飛ばしたアンペの方向に目をやった。
木片まみれになったアンペは血を吐きながら咳をしていた。燃えるような激痛は内臓が破壊された緊急事態を伝えるアラートだが、倒れる理由にはならず、激痛以上の殺意が女を殺す想像を掻き立てていた。
吹き飛ばされた際に激突した樹々が音を立てながらへし折れ、血に塗れた葉と木片が舞う。
男の”くせに”たった一発の蹴りで気絶寸前。
アンペは暴走エースケに引けを取らない咆哮でジャングルを揺らした。
「……ところで少年」
状況が一変していく光景を眺めていたレオンは頭の中で火花が散っているようだった。
冷たい手が震え、胸の奥が熱い。とにかく言葉が見つからない。
そんな状態で急に呼ばれたため、
「はひっ!」
口から変な音が出た。
「私は”ノア”。気軽に師匠と呼んでくれていいぞ……君の名前は?」
「あ! えぇと! ぼ、僕の名前は、レオンです!」
「レオンか、いい名前だ」
名乗ったレオンは質問をするでもなく、トリケラから滑り落ちてエースケのもとへ大慌てで走った。
一瞬だけ暴走し、立ち上がったまま気絶したエースケはいつの間にか仰向けに倒れていて、血塗れの状態で意識を失っている。レオンの呼び声に反応する気配はなく、ノアが冷静に呼吸と心音を確認した。
「生きてるっちゃ生きてるが、ほっといたら確実に死ぬやつだ。レオン、あのトリケラトプスとお嬢ちゃんは知り合いだな? トリケラトプスにこれを嗅がせろ、すぐに目ぇ覚ますから竜車があるなら急いで回収しに行ってこい。私の家で治療する」
ノアは粉末が入った小瓶をレオンに渡した。
「はい!」
「まだ生きてるなんて丈夫な男だな」
出血は止まっているが失血量が多すぎるためエースケの体温はかなり下がっていた。
「私はあいつを片付けるから、人工呼吸しといてくれ!」
「じんこ……へっ!?」
ノアはレオンに聞き返される前に走り出した。
アンペは健在。さっきの咆哮が断末魔なはずもなく、向かってくるのを待ったが万が一にも応援を呼ばれるのは避けたい。
「我ながら遠くまで吹っ飛ばしたなぁ! ここまでゴロゴロ転がってきたのかよ!」
アンペの得意技である”トゲ車輪”は竜脚類の体格と耐久力、背中のトゲを活かした破壊特化の回転技だが、移動手段としても愛用しており、ノアはシュールな画につい笑ってしまった。
トゲ車輪が樹々を粉砕して向かってくるが、いくらノアでも生身で真正面から受ければひとたまりもない。
「弱点はここですって言ってるよーな」
だがあえて真正面、存分にひきつける。
回転に負けないよう右腕を恐竜化し、すぐにアンペの真横に移動するのではなく樹の幹に跳んで位置を攪乱し、方向転換の時間を与えない。ノアは何本かの幹を経由した後にトゲ車輪の真横に現れた。
「もんだろうが!!」
車輪がくの字に湾曲して、血を吐いたアンペが樹に激突する。
「そんな大雑把な攻撃、誰に当たるってんだ!」
痛みに堪えて雄たけびを上げるアンペはすぐに回転を始めるが、今度は狙いを定めたわけではなく荒々しく周囲を破壊し始めた。
あらゆる植物が舞い上がる視界最悪の状況、まず危惧したのはエースケたちへの影響だった。アンペの狙いは間違いなく”巻き込む”こと。
ノアという新手が参戦してもゼアルの命令は何としても遂行する。それが戦士としてのプライドであり、恐怖に屈服した者の自己防衛でもあった。
エースケやツァル子に逃げる手段はない。ノアはアンぺを無視した。
「ノアさん! 竜車取ってきました!」
既にトリケラが目を覚まし、竜車に繋がれていた。
ノアは倒れたツァル子を抱え、「人工呼吸したか?」と聞くと、レオンは「そ、それは!」と顔を真っ赤にした。
「なぁに恥ずかしがってんだ、お子ちゃまめ」
ノアは自分の唇に人差し指を当てて、
「練習が必要かな?」
レオンを挑発すると、十二歳の少年は頭から湯気を出して卒倒した。
ニッシッシと笑うノアがツァル子を竜車に寝かせ、次にエースケを抱えようとした時、ある違和感にアンペの方向を確認した。巻き込もうと暴れていた割にはこちらへ来ない。
胸騒ぎがした。
応援を呼びに行ったのではなく、アンペはもう一人のターゲットを狙っていた。
敗走するエウロパ。
任務を果たせない戦士に生きる道はない。集落に戻れるはずもなく、外の世界へ逃げることもできないエウロパは左腕を支えながらジャングルの中を彷徨っていた。
厳格な女戦士。しかしゼアルが彼女を認めたことは一度もない。
居場所を失った現実にエウロパは目に涙を浮かべていた。
近づいてくるのはジャングルを破壊する粉砕音。
気に食わない女を始末する理由には充分だった。好機に腹の中で笑うアンペはノアに歯が立たない苛立ちを八つ当たりするために容赦なくエウロパへ接近した。
未熟者。
ゼアルの冷たい声と瞳がエウロパの足を止める。
「……ゼアル様」
トゲ車輪はエウロパに直撃し、肉体を完全に破壊する。
一秒に満たない圧殺だった。
「……」
ノアは察していた。
ゼアルの教えはよくよく理解している。戦士は幼少期から教えを叩きこまれ、恐怖に服従し、従順な操り人形になる。
自我のある者、ゼアルはそれらを未熟者と呼んだ。
ノアがエースケを荷台に寝かせ、竜車から降りる。
産まれおちる世界を選べず、支配に従う道だけが用意された哀れな人々。戦士を心配する義理は無いが、同情する心くらいは持ち合わせている。
背中が語る強者の気迫にレオンは息をのんだ。
エウロパを再起不能にしたアンペが勢いそのままにノアの前に現れる。直線状に全員がいるため、ノアが止めなければエースケたちが粉砕される。
巨大車輪となったアンペを止める方法をレオンは想像することができなかった。
「これやんの久々だなぁ」
全身が硬質な鱗に覆われた恐竜化。エースケのような鋭い爪牙は無く、ツァル子のような翼もない。
アルーゼのように四肢を巨大化させるわけでもなく、ノアはただ空中に跳んだ。
地面を抉り、大樹を削り倒したアンペのトゲは命を串刺しにする凶器に他ならない。そのまま落下すれば間違いなくアンペの回転に直撃する軌道で、血迷ったか、ノアは防御するわけでもなく重力に身を任せていた。
「!!!」
ノアの直撃と同時に鈍い衝突音が響き、地面に巨大なクレーターが形成される。
前へ進む力を強制的に停止させる上からの圧倒的な”重量”によって、アンペが”圧し潰され”、地面に思い切りめり込んだ。
腹に受けた蹴りは槍のようで、背中に受けた衝撃は鎚で打たれたかのよう。そのどちらも激痛で、後者の攻撃方法はまるで理解が出来なかった。
「……なんだっ……! この、重さは……!」
背中のトゲすら砕く重量。
竜脚類の能力は肉体の巨大化、それに伴う体重の増加は当然だが、ノアの肉体は元の大きさを保っていた。
「重い女は嫌いか?」
骨が砕ける音とアンペの絶叫が混ざり合い、レオンが耳を塞ぐ。
自身を強者だと誤解し暴力で愉悦を味わう罪人への鉄槌はアンペを地面に這いつくばらせ、罪の重さを突き付ける超重量落下によって肉体だけでなく意識も粉砕した。
絶望的状況を数手でひっくり返したノアが手を叩いて土を掃い、金髪をかき上げる。
美しい女性、レオンは率直にそう思った。
「よし終わり! レオン、他に忘れもんねぇか……って! まぁだ人工呼吸してねぇのかよ!」
「すすすすみません!」
エースケはどうにか呼吸をしていて、ツァル子は出血もなく、レオンとトリケラは意識がある。誰が見ても偏った負担の大きさは歴然だが、それはエースケの狙い通りであり本望だった。
血を流すなら誰よりも、傷つくなら誰よりも。
ノアは竜車に乗り込むと一つの水晶球を取り出した。
「それは……」
「転移の水晶だ。今から私の家に行くけど、転移すんのは初めてか?」
「初めてです」
転移の水晶を床に置くと、ノアはニヤリと笑った。
「吐くなよ」
突如として浮遊感に襲われ、三半規管が混乱して臓器が揺れ動いて吐き気が込み上げてくる。
その瞬間、レオンたちがその場から消失した。
◯エウロパサウルス
体長約6メートル ジュラ紀後期ヨーロッパ生息
意味「ヨーロッパのトカゲ」




