記憶という過去
「アルーゼ、立て」
幼い少女にかけられた声は冷徹なものだった。少女は細い手足にぐっと力を入れて立ち上がるが、足は震え、視界は朦朧として呼吸をするのがやっとだった。
砂で汚れた弱々しい少女はどうにかファイティングポーズをとる。
「おぉ、まだ立ち上がるか」
「さすが、ゼアル様の血を引くだけあるな」
大人たちは円形の闘技場で行われている子供同士の闘いを見ていた。
「ゼアル様、よろしいのですね」
「あぁ」
アルーゼの対戦相手であるエウロパは葛藤していた。アルーゼをこれ以上、攻撃して良いのかと。
年齢差、体格差は歴然だが、しかしここで試合を降りるわけにもいかない。
アルーゼに同情してしまう。物心ついた頃から連戦を強制され、どれだけボロボロになろうと倒れることは許されない。
それがゼアルという暴王の子として産まれてしまった者の宿命だった。
「手加減など論外だ」
切れた唇から血が垂れ、左目はほとんど開いていない。そんな状態の少女に追撃を加えることを躊躇っていたエウロパに冷たく威圧的な声が届く。
アルーゼへの同情は恐怖で覆い隠されてしまった。
「すまない」
血の味と全身に響く激痛。
それらが幼少期の記憶のすべてだった。
******************
傷薬と包帯の調達、手当ては自分で行う。
誰もアルーゼには手を差し伸べない。
「今日の試合、負けてしまって申し訳ありませんでした」
幼い娘が父親に土下座をしている。
「貧弱なお前に存在価値はない。頭を下げる暇があるなら鍛錬しろ。巨竜の民に女だからという理由は許されない。分かったな」
「はい」
「そうですよアルーゼ。お前のせいでゼアル様も母である私も恥をかくのです。親に恥をかかせるなど許されざる行為。食事をする権利はお前にありませんからね。敗者がのうのうと食事などおこがましいのです。分かりますね」
「はい。申し訳ありませんでした」
これがアルーゼの一番古い記憶。父親と母親から愛情を与えられず、集落では距離を置かれ孤立していた。大人たちは勝手に期待して、勝手に失望し罵倒する。友人だって一人もいない。
父親が築き上げた世界でアルーゼは孤独だった。
「おい見ろ、アルーゼだ」
中年の男戦士二人がアルーゼを見つけるなり、会話を始める。
「今日も野宿とはね。さっさと期待外れは捨てて、二人目を作ればいいのによ」
「仕方ないだろ。ゼアル様に相応しい器がいない今、相応しい子も産まれない」
ゼアルが築き上げた領地"ルゼアチノ"は違法独立領地である。
集会場制度成立によってギガン大陸に点在していた人々の居住地が次々と街に変わり繋がっていく中で、ゼアルは集会場設立の要請を拒絶した。
閉鎖された環境と非人道的な支配は問題視され、集会場設立の交渉など人々はルゼアチノへ接近したが、領地に侵入した者はゼアルの育てた"戦士"たちによって全員殺害されている。
戦士は竜脚類の能力を使いこなし、磨き上げられた戦闘センスを存分に発揮したため、ルゼアチノは鉄壁の防衛力を誇っていた。
「……」
ルゼアチノから逃げ出すには集落を囲う広大なジャングルを抜けなくてはならない。幼いアルーゼにとって逃亡とは自殺行為であり、絶対に逃げられない。
だが、孤独なアルーゼにとって安寧の場所は逃亡を阻むジャングルの中にあった。
期待の眼差しも失望の声も届かない大樹の頂上でアルーゼは輝く星々に手を伸ばす。
星空の下、辛い現実から逃れるように眠りについた少女の目からゆっくりと涙がこぼれ落ちた。
********************
目を覚ましたアルーゼは家へ帰らず鍛錬を始めた。ゼアルに鍛錬しろと言われれば必ず実行しなければならない。
拒否すれば暴力によって体に教え込まれる。
アルーゼは大樹の枝にぶら下がって、懸垂を始めた。
「ん?」
アルーゼは震動を感じ取った。
揺れに続いて段々と音が聞こえてくる。枝にぶら下がったまま、近づいてくる何かに対してじっと目を凝らしたが、鬱蒼としたジャングルの見通しは悪い。
「うわっ!!」
驚く声と同時に、四足歩行の巨大な恐竜の群れが背の高い植物をかき分けながら現れた。真下を走り抜けていく群れの足音は凄まじく、もしも落ちたら一瞬で踏み潰されるだろう。
首から尻尾の先までびっしりと鋭く長い棘が生えた四足歩行の恐竜。アルーゼが恐竜を人生で初めて目撃した瞬間だった。
すると、群れのうちの一頭が転んでしまった。
群れは転んだ個体を置いて、あっという間にジャングルの奥へと走り抜けていく。
アルーゼは置き去りにされた一頭のゆっくりと立ち上がる様子を見つめている。どこか自分と重なる気がして力を貸したくなったが、棘だらけの見た目と圧倒的な対格差もあって本能が接近することを許さなかった。
ゴォォォ
恐竜はすぐに走り出さず、走ってきた方向に向かって鳴き声を発した。刺々しい尻尾を振り、明らかに警戒している。
アルーゼはその行動に疑問を抱いた。アルーゼには見えていない存在が恐竜には見えている。
しかしその疑問も一瞬の事。恐竜の群れが怯え、逃げていた理由が現れた。
「……お父さん」
たてがみのような金色の髪と他を圧倒する筋骨隆々の肉体。冷徹な目で相手を見つめ、放たれるプレッシャーは恐竜すら怯えてしまう。
「……偶然にしてはいい機会だ」
ゼアルの視線がほんの一瞬だけアルーゼに向けられたが、娘の安全を気遣うことなどしない。
「アルーゼ、よく聞け」
威嚇する恐竜を無視して、ゼアルの教育が始まる。
「ルゼアチノには肉食、草食、大型、小型と様々な恐竜が生息している。共通する点はどの個体も人間を殺す力を有しているということだ。この、ケントロサウルスも然り、巨体と棘、それらが武器となり、些細な動作も人間にとっては致命的な攻撃となる」
◯ケントロサウルス
体長約4〜6メートル ジュラ紀後期アフリカ生息
意味「棘、スパイクのトカゲ」
「だが、戦士とはどんな生物が相手だろうと殺される前に殺す。それが鉄則であり、やがては本能となる」
ケントロサウルスは威嚇を続け、ゼアルと一定の距離を保っている。尻尾に生えた棘は一人どころか三人の胴体を同時に貫通できるほど長い。
殺傷能力の高い尻尾を振り、ケントロサウルスは戦闘態勢に入った。
「決して狼狽えるな。遥かに巨大な相手でも弱点は必ず存在する。相手の特徴を理解し、即座に殺せる弱点を見抜け」
長く鋭い棘や圧倒的な体格差、そんな相手に自分が勝利する光景をアルーゼは想像できなかった。
「見ていろ」
アルーゼはこの時に初めて父親の能力を知った。
全身を硬い鱗で武装し、人間の大きさを遥かに超越した巨人となる。
その姿はまさに戦士の王に相応しく、巨人となったゼアルに圧倒されたのはアルーゼだけでなくケントロサウルスも同じであった。
自然界において圧倒的な格上に遭遇した場合の選択肢は挑戦、降伏、逃走だろう。本能が反射的に選択し、少しでも生存の可能性を上げようとする。
では、それらがゼアルに通用するのか。
モゴォォォオオ
ケントロサウルスは挑戦を選択した。
その直後、ゼアルの蹴り上げがケントロサウルスの下顎に直撃し、頭部を完全に破壊した。
大量の鮮血が吹き出して、首から先が消失したケントロサウルスの死体がその場に倒れる。
もはや闘いではなく一方的な惨殺だった。
「鍛錬とは経験だ。今日からお前の中に眠っている"アルゼンチノサウルス"の力を呼び覚ます。お前でも少しはマシになるはずだ」
それからすぐに恐竜化の鍛錬、アルーゼが記憶する最も過酷な時間が始まった。
*******************
「恐竜化は成長に応じて発現する。幼少期では体の一部しか恐竜化できない場合がほとんどだが、意識すれば成長など関係なく恐竜化を行える。事実、俺が経験したことだ」
アルーゼはゼアルが恐竜化した姿を想像しながら、自分の腕や足に力を込めてみた。
巨大化はしなかったものの、なんと一回目で皮膚に鱗が現れて、恐竜化に成功した。
「ちょと、できた……!」
成長に応じた能力の発現は偶然や無意識の場合が多く、幼いアルーゼが意識して恐竜化する可能性は低いと予想していた。
しかしアルーゼは皮膚のみであるが恐竜化を成功させた。
「……」
娘の持つ才能が脳裏によぎる。
初めて予想を超えた成果を見て、アルーゼに対してほんの少しだけだったが期待を抱いた。
「その感覚を忘れるな、維持しろ」
「あっ」
アルーゼの恐竜化が解除される。
そして、その日はもう恐竜化することができなかった。
次の日、また恐竜化が成功した。
「維持しろ」
「うぅぅぅぅ……あぁ、消えちゃう」
一日一度きりの恐竜化が何日も何日も繰り返し続いた。
それでも着々と恐竜化の時間は長くなっている。
「今日こそ……」
しかしこの日は一度も恐竜化できなかった。
アルーゼは父親の失望を感じ取っていた。
「明日から一人で鍛錬しろ。恐竜化だけでなく、巨人化が成功するまで帰ってくるな。分かったな」
「……はい」
帰ってくるなという言葉にアルーゼは家ではなく集落にすら帰ってくるなと、自分が遂に捨てられたと考えた。
置き去りにされたいつかのケントロサウルスを思い出す。
大自然で幼い少女が一人で生き抜くなど到底不可能であり、ゼアルもそれを重々承知していた。そのうえでアルーゼを捨てた。
「あら、お一人ですか? アルーゼはどこに?」
「……」
なにも答えないゼアルに女はそれ以上、なにも聞かなかった。
死ねばそこで終わり。それ以上もそれ以下もない。
所詮、アルーゼがその程度だったということだ。
見放されたアルーゼが迎えた最初の夜は、いつになく星々が明るく輝いていた。
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アルーゼの生活は早朝に食料を調達し、それ以外の時間は大樹の上で過ごすというのが基本だった。
奥地に入れば数多くの恐竜と遭遇するため、大樹から動かずに一日のほとんどを費やしていた。
時々、集落から声が聞こえてくる。子供の声だったり大人の大きな笑い声だったり、けれどそれらを聞いていると自分の存在価値を疑ってしまう。
誰も私を探そうとはしない。心配などしていない。
夜、一人なんて慣れているはずなのに、誰にも甘えることのできない寂しさで涙を流した。
「あ、木の実、取りに行かなくちゃ」
アルーゼが最も警戒していたのが食料調達の時だった。どこに恐竜がいるかも分からない状況で食べられそうな物をひたすら回収する。
寝床に戻ったら食べられる物と食べられない物を選別するのだが、ほとんど食べられない物だったことも一度や二度ではない。
「なんだろう、これ……」
ある日の早朝、地面に降りようとしたアルーゼは大樹の幹についた三本の傷を見つけた。
根元付近から傷が始まって、上に向かって痕跡が続いている。昨日までは絶対になかった傷は鋭いものを引っ掛けたようにも見える。
明らかに登ってきている。
アルーゼはあまりの恐怖に過呼吸になった。そして追い討ちをかけるようにアルーゼは新たな痕跡を見つけてしまった。
無数の足跡だった。
三本指の、人のものではない足跡だった。
「どうしよう……」
パニックになったアルーゼはすぐに移動した。
もっと集落が近くて、より背の高い樹の頂上に身を隠し、なけなしの木の実で空腹を満たしながら時間が過ぎていくのを待った。
緊張と恐怖で震えが止まらず、かと言って集落に逃げればゼアルに折檻される。
「……はぁ、はぁ」
夜、アルーゼは痛感した。
捕食者は狙った獲物を決して逃さない。
根元から植物が動く音が聞こえ、黒い影が周辺をぐるぐると歩いているのが見えた。
鼻を高く上げて、獲物のにおいを探っている。足音を殺しながら着実にアルーゼの隠れている樹へと近づいてきていた。
捕食者は様子を探り、少しだけ屈むと、なんの迷いもなく前足の爪と後ろ足の爪を器用に引っ掛けながら登ってきた。
大きく開かれた黄色の瞳が上を見つめ、ザクッザクッと音を立てて登ってくる。
「やめて………来ないで」
逃げなきゃと思えば思うほど、追い詰められた状況に絶望する。闘っても勝てるわけがない。飛び降りたとしても集落まで逃げ切れる保証はない。
極度の不安がさらに自分を追い込んでしまう。
しかしもう考えている暇はない。
黄色い瞳は真下まで迫っていた。
グルッグルルル
「はぁ! はぁ! はぁ!」
過呼吸になりながらもアルーゼは、もうどうにでもなれと思い切り跳んだ。
暗闇の中、かろうじて見えた隣の木の枝にしがみつく。
「と、届いた!」
距離が離れていたため絶対に届かないと思っていたが、無意識の恐竜化が脚力を増幅させていた。
ガゥルァァア!!
獲物を狙う捕食者は恐ろしい鳴き声を上げた。
一方のアルーゼは隣の樹に跳び移ったはいいものの、しがみついた枝が音を立てて折れ、悲鳴とともに落下した。
その隙を逃さず、捕食者も地面に飛び降りる。
黄色い瞳と視線が合い、月明かりによって捕食者の姿が分かった。
グルルッ!
鋭い鉤爪とナイフのような牙。細長い体には所々に羽毛が生え、黄色い眼光がアルーゼを見つめている。
〇デイノニクス
体長約2.7メートル 白亜紀前期アメリカ生息
意味「恐ろしい鉤爪」
絶体絶命の状況、ただ震えることしかできないアルーゼに対して、デイノニクスは首を少しかしげて余裕を見せていた。
殺される前に殺す。それは強者のみに許された言葉だと理解する。
デイノニクスの牙が月光に照らされ、開いた口がアルーゼに迫ったその時、
ギャンッッ!!
自分より遥かに弱い相手からのカウンターによってデイノニクスがよろめいた。
一人と一頭はともに考えが追いついていない。特にアルーゼは自分自身の右腕が巨大化していたため頭が真っ白になっていた。
反射的に顔を守るよう伸ばした腕が恐竜化の偶発により巨大化。タイミングが合ってデイノニクスの横顔に見事一撃を加えたのだが、致命傷にはならず、逆に興奮したデイノニクスが間髪入れずにアルーゼへ鋭い牙を向けた。
「来ないでっ!」
もう一度攻撃を当てようとしたが、巨大化した腕を上手く動かせない。
興奮したデイノニクスは軽やかな身のこなしで背後をとった。
ガゴッ!!
いよいよ腹を満たせると口を大きく開けたデイノニクスと死を察して絶望するアルーゼ。
しかしまたもやアルーゼにその牙は届かない。
うずくまっていたアルーゼがそっと振り返ると、デイノニクスの口に赤みがかった透明の球体がスッポリと収まっていた。
口を閉じることも開けることもできなくなったデイノニクスは首を勢いよく振ってどうにか吐き出そうとしている。
「な、なんで……」
「はっはっはっー! 最高の噛み心地だろ!」
突然現れた女性がアルーゼに手を差し伸べた。
「立てるか?」
あまりに突然の出来事に声が出ず、気が抜けたのか、アルーゼの巨大化した腕が元のサイズに戻っていく。
そして、女性にいきなり抱きしめられた。
「間に合って良かったぁ!! よく頑張ったな! 偉い偉い!」
金色の髪に眩しいほどの笑顔。暖かくて優しい手。
人生で初めて手を差し伸べられ、抱きしめられた。
アルーゼは放心状態で、状況をまるで理解できていない。
「んじゃ行くか! あ、誘拐じゃないぞ? これはぁ……保護だ! お姉さんと楽しいとこにいきましょぉねぇ的な下心は微塵も無い! 断じて無い!」
「えと、その」
「ん? あぁアイツ? 大丈夫大丈夫、なんの心配もいらねぇよ」
女性が指パッチンを一回。
次の瞬間、デイノニクスの口に収まっていた球体から真っ赤な粉末が吹き出し、顔面を覆った。
「名付けて、トウガラシ水晶! どんな相手も辛いの辛いで飛んでけー! っていう激辛アイテム! 強烈な激痛で顔面の感覚がしばらく麻痺する代物だ」
デイノニクスは絶叫しその場から一目散に立ち去った。
もうなにがなんだがさっぱり分からない。
デイノニクスに追われた恐怖と女性が突然現れた困惑が混ざり合って、アルーゼの思考回路はショート寸前だった。
「さてさて可愛いお嬢さん。こんな危ねぇ場所、さっさとおさらばしましょうか」
女性はポーチから水晶球を取り出してアルーゼに渡した。
アルーゼをお姫様抱っこすると水晶が光り始め、強い光が消えると同時に二人はその場から消失した。




