3 異端者
人工的に天才を作り出すための第一次計画。
ユダヤ人追放、もしくは排斥計画によって、ドイツの知的レベルは最盛期と比較しても失墜の一途であったこと。名だたる学者たちの、ドイツからの逃亡は大ドイツ国の知的水準を大きく衰退させた。加えて、ナチス党を含めた強硬派たちの意見に賛同する、彼らの耳に心地よい科学者たちが必要とされた。
これらの思惑から、「ゲルマン人」の血統に連なる被験体が必要とされた。それらの知的レベル、知能指数などの水準を満たす素体が必要とされ、血眼でドイツ中を捜索した結果、それらの条件に完全に適合する少女の存在が判明した。
陸軍将校のディートフリート・ルドルフ・デーゼナーとその妻フリーデとの間に生まれた長女。
先の欧州大戦が終戦した一九一八年生まれの少女、ザシャ。
たった四歳で寄宿学校に入学し、十一歳で名門のミュンヘン大学に進学した。ヒトラーが政権を握ったのとほぼ同時に、彼女の名前は「計画」にリストアップされることになった。
家族関係がぎくしゃくしたのは丁度彼女が思春期の頃からだ。
寄宿学校に通っていた少女の心は家族とともに過ごせない時間の長さの分だけ歪み、通常の親子関係を築けていれば当然のように与えられる父母からの愛情を知らずに育った。
おそらく、彼女の内側には妹たちへ対する嫉妬も渦巻いていただろう。
いかに天才的な頭脳を持っていたのだとしても、その心はごく一般的な子供となんら変わりはない。
彼女は、両親の名誉のために、捨てられたと思ったのだ。
記録を凝視するように読むダグラス・ケリーは、ザシャのこわばった表情を思い出して溜め息をついた。
親の名誉のために、捨てられた。
そう感じた子供の心が歪まないはずがない。
「どうして、妹たちはあたりまえのように両親から愛情を傾けてもらえるのに、どうしてわたしだけ一緒にいることもできないのか」
どうしてわたしだけ……。
どうして?
果ては女性でありながら過酷な戦場に放り込まれ、彼女は軍隊という組織の中で泣き言を言うことも許されずにただ淡々と、それらを受け入れることしか許されはしなかった。それでも自分の下に配属された将兵たちの命の責任を負わなければならなかったことは、ザシャ・デーゼナーという女性にとって不幸だったのか、それとも幸せだったのか。それはケリーにはわからない。
「一九一八年生まれ、か」
逆算すれば、彼女は多くの事件を幼い瞳で目の当たりにしてきたということになる。
ドイツの絶望的な敗北と、全世界を巻き込んだ経済恐慌。鬱屈したドイツ社会。そして、暴力的なナチス党の台頭と多くの弾圧。
そんな社会のさなかに生きて、ひとりよがりで身勝手な計画に巻き込まれた彼女が、自分の才能を開花させてこなかった理由も合点がいった。
暴力と弾圧を目の当たりにしてきた多感な時期の少女は自分自身を守るために、極端なほど世間の目に晒されることを忌避した。
「普通の女の子だったら、良かったのに」
ぽつりと彼女が告げた言葉の意味を、ダグラス・ケリーは最初理解しかねたが、それは「軍属の」という意味ではないことが、いくつもの記録に目を通してやっと完全に理解することができた。
知性も、運動神経も。
なにもかもが普通であれば、両親と一緒に過ごすことができた。妹たちに、両親を奪われずに済んだ。そして、大学で孤独な少女時代を過ごすこともなければ、軍隊に入隊することも避けられた。
全て何もかもが、自分の特殊な才能がいけないのだと、彼女は嘆いた。
もちろんそれら全ての事を、ザシャ・デーゼナーという女性がダグラス・ケリーに語ったわけではない。しかし、ケリーはそうした分析の専門家であり、ザシャが全てを語らなくともたぐり寄せるように知る事など造作もない。
敗戦の間際、彼女はドイツの東部から部隊を引き連れてソビエト連邦赤軍の追っ手が迫る中、英米連合の占領地域へと脱出を謀った。空港にたどりついた彼ら――彼女に横暴な兵士が腕を伸ばしたところ、咄嗟に腰の拳銃を引き抜いた金髪の女性飛行士は自分の顎の下に銃口を押し当てて危うく引き金を引くところだったという。
「うちの隊長に手を出すな!」
アメリカ陸軍の兵士の腕から、女性将校を守るように遮った大柄な男は自分の腕で彼女の握りしめる銃を押さえ込みながら視線を自分の目の前と背後とに走らせて、双方の動きを牽制した。
「いいですか、中佐殿。絶対に早まらんでください」
早まるなと告げた男と、ぶるぶると震える手で引き金に指をかける女性将校。
後日、彼女がソビエト連邦相手に戦い抜いた爆撃隊の一員であることが判明し、拳銃自殺を図ろうとした彼女の意図にやっと気がつくことができた。
辱めを受けるくらいであれば、自ら命を絶とうとした。けれども自殺のために銃口を自分に押し当てたことなど一度として経験してこなかっただろうことを、彼女の震えが物語っていた。
結局、彼らが投降した時、すったもんだの押し問答が発生したのは言うまでもなかった。
「天才」と呼ばれることは、はたして本人にとって幸せなことなのだろうか。
ダグラス・ケリーは、そんなことを考えながら資料のページをめくった。
とはいえ、結局のところ、彼女はありとあらゆる意味で幸運なのだろう。そうでなければ、五年にも及ぶ長い戦争を最前線で経験して生き残ってこれるわけはない。
*
カスパル・ファルは徹底的な現実主義者で、部隊を率いる前線指揮官としては実力主義でもある。そんな彼は口やかましいが面倒見の良い上官だった。
部下たちのこともよく観察していて、時と場合に応じて臨機応変にパイロットたちの出撃をコントロールしていた。そんな彼が、今回のポーランドでの大きな作戦を通じて、新兵同然のザシャ・デーゼナーを前線から決して下げなかったのは彼なりの思惑があった。
体力と精神の限界まで自分を痛め続ける少女のような彼女に、時には同情めいたものを感じることもあったが、そうしたものは決して表に出すことをしなかった。それはカスパル・ファルとザシャ・デーゼナーが民間人ではなかったからだ。
彼も軍人なら、彼が束ねているのも軍人だ。
相手が軍人ならば、私情は挟むべき余地がない。
ザシャ・デーゼナーという女性士官がどうしても乗り越えなければならない最初の壁だったからこそ、罪の意識にもがく彼女を残酷な任務に引きずり回した。
人殺しという重い罪と、軍人としての冷酷な心を養うためには必要なこと。もしも、今回の任務で彼女の心が重荷に耐えきれなければ、ザシャは軍人として「それだけの価値」しかなかったというだけの話だ。
けれども、予想に反して彼女は男たちの荒々しい世界の中で懸命にかじりついてきた。血反吐を吐いて泣きながら、それでも、彼女は男たちに引きずられるようにして戦場を駆け抜ける。
報告書をまとめながら、彼は溜め息をついた。
中隊指揮官ともなればデスクワークも多い。それでも彼は、部隊内の状況を常に把握していた。正直なところ、ザシャ・デーゼナー少尉の置かれている状況は決して好ましい物ではなかった。
軍隊という男の世界に女が飛び込めば、どういうことになるか。
ファルは知らないわけではない。
無能ならば性の道具にされ、有能であれば今度は妬まれる。
ザシャは後者だ。
彼女のテスト飛行を見た後に、手下のパイロットたちを差し置いてまでカスパル・ファルが彼女の実戦経験を積み重ねることを重視したのは彼女の軍人としての成長に大きな可能性を感じたからだった。
そうでなければ、他のベテランのパイロットたちをないがしろにする形で新米で役立たずだろうパイロットを使う必要もない。
事実、連日のように出撃している彼女に対して面白くないと感じている者もいたようだった。
ザシャの相棒である後部機銃手のヘクター・デューリング軍曹や、ルッツ・ハーラー、フロレンツ・ギーゼブレヒト両中尉のように彼女に対して好意的な者だけではない。部隊の中では、全員が常に好敵手と言っても良いだろう。
ザシャ自身が、隊員たちに敵愾心を抱いていないからといって、相手もそうであるとは限らない。
誰が一番に手柄を立てるか。
前線に立つ戦士というのは常にそれを一番に競い合っているものなのだ。
そうしてぬきんでた者だけが、次の部隊長として昇進していける。それが軍隊だ。
そしてそんなザシャは休暇だというのに兵営の片隅で読書をしている。
木陰のベンチで私服のワンピースに、カーディガン、そして踵の低い靴というラフな服装だ。
戦時下の軍服や飛行服を身につけている姿とはまた違った印象を他者に与えた。
黄色いワンピースはまるでモンキチョウのような色彩の小花柄で、生成りのカーディガンは彼女のハニーブロンドが溶け込んだような優しい色合いだった。清楚な踵の低い靴に薄い化粧をしている彼女はどこにでもいそうな優しげな風貌をしている。
膝をそろえて斜めに地面におろされている脚にはショールがかけられて品の良さを演出する。
彼女が自分から「軍人だ」と言わなければ、誰も私服姿のザシャを軍人だとは思わないだろう。
体の脇に置かれたもう一冊の本の上には新聞と、封筒が置かれている。その上からリンゴがおかれて風に飛ばされないように文鎮代わりにされていた。
「家に帰らなくていいのか?」
ふと、彼女は濃い影が落ちたことに気がついて顔を上げると同時に、低い声が降ってきた。
「……隊長」
立ち上がって礼をとろうとした彼女を、男は片手で制する。
封も開けられていない手紙。
リンゴの柔らかな香りが漂うその下に、差出人の名前があった。
――ディートフリート・ルドルフ・デーゼナー。
緑の瞳が彼を見上げている。
確か出身はブラウンシュヴァイクだと彼女は言っていた。
「帰りたくありません」
しばらくの沈黙の後、彼女はぽつりとつぶやいた。
視線をそらすように明るい午後の日差しの降り注ぐ基地を見つめる。その瞳にはどこか悲しげな色彩が乗せられていて、カスパル・ファルは溜め息をついた。
「勲章を戴いたことは、家族には報告したのか?」
彼女の隣に腰をおろした上官に、ザシャはわずかに眉をひそめると指先で巻き毛を引いた。言葉としての答えはしないが、彼女の反応を見れば容易に想像できる。
「電話もしてないのか……」
問いただすような彼の言葉に、ザシャは無言だ。
読みかけの本を閉じたハニーブロンドの娘は取り繕うようにそっと肩から巻き毛を払いのけてからうつむいた。
おそらく、とファルは思う。
大人しく見える彼女と、家族、もしくは両親の間になにかしらの確執があるのだ。それがザシャを困惑させて沈黙させてしまう。
「わたしのことなんて、父は心配していませんから」
悲しげに笑うと、彼女は新聞の下に手紙を隠してしまった。
「そんなことはないだろう、子供のことを心配しない親がいるわけがない」
戦争という矢面に立つ軍人という職業に「娘」がついていればなおさら心配するだろう。
「……父も母も名誉欲に取り憑かれてるだけです、そんな人たちと、わたしは話したくもありません」
再び無意識なのか指先に髪を巻き付ける。
子供の頃から、彼女は大人の身勝手に振り回されてきたのだろうか。
何度も飛び級を重ねたために、彼女は同世代の友達など作る機会すらなかったのかもしれない。年代の違う子供たちと学舎を共にして、そのために異端な存在として距離を置かれる。普通であればギナジウムに入学するかしないかという年齢でアビトゥーアの受験資格を得て、大学まで進学した。そうして勉学に励んでいた彼女に押しつけられたのは、今度は軍隊という巨大な国家権力だった。
大人たちの勝手に押しつける圧力に、押しつぶされることしかできなかった彼女は結果として最も自分に近しい大人――両親を憎んだのかもしれない。
素っ気なく告げると、下唇をかみしめて一度は隠してしまった手紙を手に取ると、それを破り捨てようとした。
「やめておけ」
そんな彼女の衝動的な行動に、思わずファルが引き留める。
手紙を破り捨てようとしたザシャの手を押しとどめて、ファルは左右にかぶりを振った。
「そんなことをして、いずれ後悔が自分に返ってくる。読みたくないなら、読まなくていい。だが、しまっておけ。いいな、”命令”だ」
命令。
そう言われて、ザシャは両手を膝の上に乗せると、スカートの裾をきつく掴みしめる。言葉を吐き出すこともできずに、黙り込んでいる彼女は年相応の娘にしか見えなくて、ファルは重いため息をついた。
「家庭の事情に口出しする気はないが、おまえは父親のことが嫌いなのか?」
問いかけると、彼女ははっとしたように顔を上げてファルを見つめると唇をかみしめる。自分の気持ちをどう整理すればいいのかわからないようだった。
「……大嫌いです」
つぶやくように言った彼女の声はかすれていてまるで慟哭のようにも聞こえる。
なにが彼女にこんな表情をさせるのだろうか。
淡いハニーブロンドの巻き毛に彩られた少女のように端正な顔立ちが、憎悪をたたえているのが忍びない。
「まぁ、無理に帰れとは言わん。休暇の間はゆっくり休め」
「はい」
軽く彼女の肩をたたくと、カスパル・ファルは立ち上がった。
「……隊長、その」
「うん?」
「……あの、申し訳ありません。本官は」
「気にするな、休暇中だ」
口ごもって敬礼をしようとするザシャの腕を押さえて、彼が笑ってみせる。
とりあえずは、とファルは思う。ポーランド戦での任務の際、彼女があれだけの成果をたたき出しただけで満足しておいた方がいい。
部下と上官。
それがザシャと男の関係だった。
「そういえば、基地の整備兵が、シュトルヒなら予備機をいつでも出せると言っていたぞ」
にやりと笑う。
「いいんですか?」
「構わないそうだ。まぁ、おまえならその辺の機転は利くだろう」
言葉の裏に隠されたファルの真意に、ザシャは曇り空のようだった緑の瞳をぱっと輝かせる。まるで、春の日差しに萌える若葉のような光だ。
「ありがとうございます」
木漏れ日の中で、背中に視線を感じながら兵舎をファルは立ち去った。
本来、兵舎は男性専用だ。
女性士官が赴任してくると言うことになって、あわててその一室に鍵を取り付けたのだが、それゆえ、彼女はほとんどの生活を屈強な男たちと共にしている。
年頃の娘が男たちと共に生活をしているというのは心配がないわけではなかったが、それなりに規律も厳しく、なによりもザシャ自身がよくそれらを守っていたため、特別に宿舎を用意せずに今に至っている。
作戦遂行時は、やはり部隊の男たちと同じように幕舎や、自分の機体の下で寝ていた彼女だ。男たちと同じように訓練に参加して、生活する。
軍人として当たり前のことを彼女は外見上は平然とこなしているように感じられた。
そんなカスパル・ファルを見送って、ザシャは足元においていたバスケットをとると、本を二冊と新聞、そして自宅から送られてきた一通の手紙とリンゴをしまいこむ。紙に包まれたパンと水筒の入ったバスケットの隅には黒光りする銃が鎮座している。
軍人として携帯の義務だった。
いつ、何が起こるかわからない。
そして、その下に覗くのは第二級鉄十字章。
彼女が戦争に参加したという証しでもある。人差し指の先でそれに触れてから、ザシャは目を細めた。
何人の人間を殺したのか。
偵察部隊でやっと彼女の周りもなんとなく彼女の存在を受け入れるようになったところで、再び転属になってしまったため、彼女はやはり以前と同様に好奇の視線に晒された。
いくら、彼女が士官であるとは言っても「女性」なのだ。
常に女の存在に飢えている軍隊という世界で彼女が精神的な負担も感じずに生きていく事は非情に大変なことだ。
だから、いつも彼女は余暇の時間をひとりで過ごす羽目になる。
休暇中も人の気配のない兵営の片隅で読書に興じていた。
ちなみに、今いる場所は彼女のお気に入りだ。木漏れ日が適度に差し込んで、夜は真っ暗になってしまうが兵舎の入り口から遠くて誰も寄りつかない。
手製の折りたたみ式のベンチは作ったのはもちろんザシャだ。
ぱたぱたとベンチを解体してから、彼女はそれらを抱えると歩きだした。
感想とかお待ちしています。




