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2 シュトルヒ

 ――この世に天才、と呼ばれる人間がいるならば、確実に彼女がそのひとりだろう。彼女が女性であることはなによりも大きな損失だ。仮にデーゼナー嬢フロイライン・デーゼナーが男であれば、この大ドイツ国にとって大きな利益となったことだろう。


 仰々しい文を書きながら、男は息を吐き出して窓の外を見つめたことを思い出す。

 ベンチに腰をおろして日差しの下で本を読んでいる少女が居た。

 彼女には友達らしい友達がいない。

 寮住まいの少女の元に届けられるのは週に一度の家族からの手紙だけ。ちなみに、それも読んでいるのかあやしげなところがあった。

 航空関係の教本やらノートやらを腕に抱くようにして歩いていた彼女から、未開封の手紙が落ちたことがあった。

 その時点ですでに三週間ほども前の手紙で、拾ってやると、彼女はにこりと笑顔をたたえて「ありがとうございます」と言った。そして、当たり前のようにノートの間に手紙を挟むと歩き去っていったのだ。

 いつもかじりつくように勉強している彼女は、努力以上の結果を試験ではたたき出して、同期の男たち――そのほとんど、いや、ほとんどというよりも全員が彼女よりも年上だった――の嫉妬の的となり、いじめの対象にすらなっていた。

 けれども、表だっていじめることができなかったのは、そこが実力の世界だったからである。

 軍隊という実力の世界。

 彼女の飛行技術は抜群で、誰よりもぬきんでていた。

 控えめで、極度に自己主張の少ない彼女の背後には鬼のような教官たちがいたことが彼女にとって幸いした。その教官たちがそろって彼女を認めている。

 だから、手出しなどできるわけもなかった。けれども、いじめの対象になることもなければ、逆に親しく言葉を交わす相手もいなかったということは、それはそれで不幸なことだったのかもしれない。

 そのためか彼女はいつもひとりだった。

 彼女はいつも「孤独」だった。

 そんなザシャ・デーゼナーが、今は空軍の爆撃隊のパイロットとして配置されているという。

 初めて、彼女が「ジェリコのラッパ」を聞いたとき、余りの音の大きさに驚いて両手で耳を覆っていたことを思い出して苦笑する。

 男はふとそんなどうでもいいことを思い出した。今も変わらず訓練生の飛行訓練に従事している彼が手がけた天才的なパイロットの一人がザシャだったことを「誇り」に思う。

「君は、戦っていけるのか……?」

 優しく穏やかな、けれども不器用で生真面目な気質の彼女が、空軍――軍隊という世界で生きていけるのか。そんな危惧を抱いた。

 固い決意を秘めて男の世界に飛び込んだ彼女を、きっと誰も最初は受け入れはしまい。女であるという理由だけで、誰もが彼女を過小評価する。

 かつての自分達が、そうだったように。

 きっと、彼女に関わる男たちは全員が、ザシャを初めは過小評価するのだ。

 異端であるがために。

 女であるが故に。

「どうか無事でいてほしい」

 戦争に巻き込まれていく彼女を思う。

 手塩をかけて育て上げた天才パイロット。



 ふわりと、空を飛ぶ機体がある。

 まるで蝶か小鳥でも飛んでいるような印象を受けた。

 もちろん飛ばしているのは他でもない。

 元第八八偵察大隊、現第七六急降下爆撃航空団第二飛行体第五中隊所属のザシャ・デーゼナー少尉だ。

 三日ほどの入院で彼女は全快して訓練に戻ってきた。男たちと比較すれば体格はかなり劣るところがあるが、一応正真正銘の軍人だ。その辺の女子供と体力は違う。

 そうた訓練の合間の時間帯に、整備兵たちに頼み込んでシュトルヒに乗せてもらっている。

 その最高時速はたった二百キロメートルにも達しない。

「ザシャが乗ってると思うと優雅なもんだ」

「優雅っつーか、あれは変態って言うんだ」

「確かに」

 なにせ、急降下爆撃機Ju87よりもずっと遅い。

 遅いというか、見ているだけで墜落でもするんじゃないかと心配になる速度だ。ちなみに自動車と大して変わらないスピードで飛行することも可能である。

 曲芸のように柔らかな曲線を描いて飛ぶシュトルヒの優雅さに、休憩中の隊員たちや、整備兵たちが目を奪われた。

 これが、天才と呼ばれるパイロットの操縦なのだろうか。

 彼女が配属されてから一ヶ月以上の時間が過ぎた。この頃には、ザシャの噂も基地の隅々に「どうやら、あの配属されたばかりの奇天烈な女飛行士は天才らしい」という根も葉もない噂が知れ渡っていた。

 スツーカを操縦しているときとはまた異なる柔らかな飛行に、そこにいる誰もが感嘆の視線を送っている。

 彼女が、シュトルヒが好きだ、という理由もわかった気がする。もっとも、爆撃機のパイロットがなにも整備兵に頼み込んでまでシュトルヒに乗らせてもらうこともないだろう、とも思う。

 要するに彼女が「不思議ちゃん」なのだ。

 まるで本当にコウノトリが飛んでいるようだ。

「しかし、あれで一度も落とされたことがないっていうんだからすごいよな」

 スペインでは一度として撃墜されなかった。

 その最高時速はJu87(スツーカ)の半分なのだ!

 ギーゼブレヒトの言葉に、ハーラーが頷きながら目を細める。

「任務を一緒にやってて思ったんだが、あいつ、敵の動きの先を完全に読み切ってるよな?」

 常に、彼女は相手の動きの一手も二手も先を読んでいる。

 まるでチェス盤の上の動きを全て予測しきっている棋士のようでもある。

 敵の戦闘機の動きを。

 高射砲の砲弾の動きを。そして、標的の動きも。

 全ての「運動」の「結果」を彼女は計算しているのだ。それは恐るべき才能だ。

 ただ単に飛行技術が優れているだけではないということを共に任務をこなしているハーラーらは感じ取っていた。

 新兵同然でありながら、彼女のそういった感覚は隊の誰よりも優れている。そこに飛行技術が加われば鬼に金棒だろう。

「……だろうな」

 彼女が読んでいるのは一手どころではない。

 たった一手程度先を読んでいたただけでは、戦場で確実に生き残ることは不可能だろう。けれど、彼女は戦闘機の挙動も、地上部隊のそれも完全に把握している。

 恐らく、それらが「爆撃隊」の隊員のひとりとして開花すれば、凄まじい戦果をたたき出すことになるだろうが、今のところ彼女はそんなことを決して望んではいない。

 覚悟を決めて空軍という世界に飛び込んだだろう年若い娘の、シュトルヒの舞いはひどく嬉しそうで、そんな彼女を見守っているとなぜだか心が温かくなる。

 そんな時、不意に風を切る音が聞こえたと思ったら、唐突に猛然とシュトルヒに向かってBf109が突っ込んでいくのが見えた。

 ドイツ空軍の傑作機でもあるウィリー・メッサーシュミット博士の開発したバイエルン航空機の戦闘機、Bf109ベーエフアインスヌルノイン

 先のスペイン内乱でもコンドル軍団の主力機として活躍した。

 危ない、と思う間すらもなく、ザシャの乗るシュトルヒは空中でふわりと翼をバンクさせてロールをするとそのまま、低空へと高度を下げるようにしてトップスピードで突っ込んできたBf109を受け流す。そのままゆっくりと地上に戻ってきたシュトルヒは、せいぜい時速五十キロメートルほどだろうか。

 笑顔で操縦席から出てきた彼女はカーキ色のつなぎの襟元を指先で触れながら礼を述べている。ゴーグルを外してほほえんでいる彼女が可愛らしい。

「危なかったな、さっきのBf109」

 ギーゼブレヒトが気遣うように告げれば、ザシャは首を傾げてから彼を見つめた。

「……そうですか?」

「そうですかって、衝突するかと思ったんだぞ?」

「大丈夫ですよ、向こうもちょっと突っついてやろうくらいにしか思ってなかったはずですから。それに避けられるのをわかっていましたし。それに、つっこんできたほうだって衝突なんてしちゃったらただじゃすみません」

 確かに彼女はまるで風に揺られた蝶のように戦闘機を躱した。単に戦闘機の予想に反してシュトルヒがゆっくりすぎたせいもあったのかもしれないが、ドイツ空軍のパイロットがシュトルヒの性能を知らないわけはない。

 つまり、ザシャが意図的な回避行動を取ったと言うことになる。

 そこまで考えてから、ギーゼブレヒトはぎょっとしたように彼女の横顔を見つめた。鳴り物入りでデビューした彼女は噂は偽りなどではなかったのだ。

「ちょっとって問題じゃないだろう……」

 穏やかなザシャの横顔に、ギーゼブレヒトは呆然とした。

 一歩間違えればザシャの乗っていたシュトルヒは墜落するかもしれなかった。それを、彼女はニコニコと笑ったままで「大したことではない」と告げる。そんな彼女を見ていて、思わず続く言葉を失ってまじまじと子供のような面影すらもある彼女を見つめた。

 ――天才。

 フロレンツ・ギーゼブレヒトの頭の片隅にそんな言葉がよぎる。まさか、女性の身でありながらこれほど素晴らしい飛行技術を持つ者がいるとは思わなかった。それだというのに、女性であるから、という理由だけで彼女は偵察部隊に回されていたのだ。

 それは、ドイツ空軍にとって大きな損失であることには間違いない。

 もしかしたら、と彼は思った。

 ギーゼブレヒトの戦友であるパイロットの死は、彼女を第五中隊に呼び込むために必要なものだったのかもしれない。

 そんなことすら感じさせる。

「でも……」

 ぽつりと、ザシャが呟いた。

 何を言い出すのかと思って思わずギーゼブレヒトが身構えると、彼女はニッコリと屈託のない笑顔になった。

「戦争が終わって良かったですね」

「……あ、あぁ」

 軍人にとって戦争が終わると言うことは、昇進の可能性が少なくなるなるということ意味しているのだが、彼女もそれはわかっているだろうに無邪気にそんなことを口にした。

「これでわたしも偵察部隊に帰してもらえるんじゃないかって思うとほっとします」

 暢気にそんなことを告げる彼女は、ひどく聡明であるというのに自分に対する認識がひどく低い。

 普通に考えれば、空軍の上層部が彼女を偵察部隊に帰す気があるのならばとっくに辞令を出している頃だろう。

 なにせ、終戦してからもう一週間近くたっている。

 それがない、ということは、彼女が偵察部隊に帰れる可能性というのは非常に低い、と考えるほうが手っ取り早い。

「……そうだな」

 ザシャの希望通り元の部隊に帰れれば、彼女は幸せなのだろう。

 そう思いながら、曖昧な返事をした彼に彼女は「はい」と言った。

 休憩時間も終わり、再び訓練に戻った彼らは夕方になるころにはへとへとになっていた。空軍のパイロットだからと言って飛行訓練のみしているわけではない。

 それでも夜になれば、将校クラブで羽目を外したりできるのは若さ故だろう。体力など有り余っている。

 その夜は珍しく中隊長であるカスパル・ファルの横に、ザシャ・デーゼナーがいた。

 くるくると巻いたハニーブロンドの巻き毛が頬を覆っていて、緑の瞳が困惑したように周囲の男たちの大騒ぎを見つめている。

 本人は行きたくないと駄々をこねたらしいが、「たまには顔を出して人脈を作るのも将校の仕事だ」と言われて、将校クラブに連れだされてしまった。

 出されたウォッカのグラスにちびちびと唇をつけている彼女は、すでに耳まで真っ赤になっている。どうやらアルコールにはそれほど強い方ではないらしい。

 もっとも、少量で昏倒するほど弱いわけでもないから、自分でコントロールしながら飲むことができるようだった。

「これが、噂のヒヨコちゃん(キューケン)か」

 ファルの横に腰掛けている彼女は、白いシャツに黒いネクタイ、ブルーグレーの乗馬ズボンとブーツというありふれた格好だった。盛り場の女性達のように美しく化粧をしているわけでもない。

 自分よりもずっと階級が上の男性士官から次々と声をかけられて戸惑った様子で応対している彼女の動揺が面白くて、カスパル・ファルはタバコをくわえたままで笑っている。

 何度、彼女の口から「こんばんは」とか「はじめまして」という言葉を聞いただろう。人見知りが激しく、引きこもりがちの彼女はこんなにも注目されることがほとんどない。

 とりあえず、カスパル・ファルが彼女を隣に座らせているのは、悪い虫に「お持ち帰り」されないための配慮だ。

「爆撃隊では一番ひよっこだと言うがなかなかどうして、見事な急降下だったじゃないか」

「元偵察部隊とは思えない見事な腕だ」

 口々に彼女を評価する男たちの言葉は好意的なものも多いが、それでもやはりじろじろと品定めするような眼差しは避けられない。

「うちの隊員に手を出さないでくれよ」

 ファルが牽制するようにパイロットの男たちにしっしと手を振ると、「なんだ、保護者付きか」とひどく残念そうな顔をされてしまった。

 とにかくそんな数時間を過ごして兵舎に戻ったのは、夜の十時を過ぎた頃だった。

「もう帰っちゃうのかなー? お姫様」

「うるさい、こっちは明日も訓練があるんだ。おまえらの馬鹿体力とこいつの体力を一緒にするな」

 上官に連れられて将校クラブを出たザシャにからかうような声をかける者もいるが、そんな言葉はファルの無残にも一蹴された。

 夜は大尉のお供か、などと下卑た言葉も浴びせられたが、元々アルコールで顔が真っ赤になっているザシャの顔色は余り変わっていないようにも見受けられる。

「気にするな」

「はい」

 軍人とは言え、彼女は女性だったから一応夜の危険性を考えて――とは言っても、ザシャは銃を携帯している――兵舎まで送り届けたファルはぐしゃぐしゃと彼女の頭をかき回した。

「しっかり寝ろ。今夜はご苦労だった」

「おやすみなさい」

 ぺこりと頭をさげた彼女は自分の部屋へと歩いて行った。

 人との交流があまり得意ではない彼女を無理矢理将校クラブなどに連れだしたのだから、彼女の精神的な疲労は想像できた。

「おやすみ」

 兵舎の廊下の角を曲がりきる直前にファルは、彼女にそう告げた。

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