4 日常と非日常の間の螺旋
ドイツ空軍の上層部にとって、ザシャ・デーゼナーという女性士官は黙認してはいるものの、公式には”認めたくない”たぐいの、やや特殊なパイロットだった。
女性士官を危険性の伴う爆撃機のパイロットとして最前線に配置しているという現実は、常識的に考えて余りにも受け入れられるとは言い難い。そう言った意味で、ポーランド戦において活躍した戦闘機のパイロットたちと比較すると、あまり公にしたくはない存在と言える。
ただ単に異質で美形であれば、宣伝塔になりえるのか、と言えばそうではない。
決して異質すぎてはならないのだ。
休暇は二週間ほど与えられた。
なにせ、ポーランド戦においてザシャはほとんど前線に出ずっぱりだったため、ほとんど休んでいないのだ。
朝も暗いうちから起床して、任務を確認する。
何度も補給のために野戦基地に戻っては再出撃を繰り返すという男性士官並にハードな任務をこなしていたのである。
もちろん、表向きの戦果は”粉飾されて”いる。
長い休暇に暇をもてあましたザシャは一人私服姿のままで基地を訪れていた。
そもそも、常に勉強に追われていた青春時代を過ごしたザシャは、暇をもてあます、などということは全くなかったと言っても良い。そんな子供時代を過ごしてしまった彼女にとってたったひとりの、ぽっかりとあいた時間は困惑するばかりの休暇となってしまったのだった。
「いらないって言ったのに……」
飛び級を繰り返すほどのザシャの知性的な意味でのキャパシティはかなり大きい。おそらく、大ドイツ国でも上位に入るだろう。もっとも、どうしてもそのために頭でっかちになり、経験が追いついていないきらいがあるのだがそれは本人も自覚している。
溜め息混じりにつぶやいた彼女は、爆撃隊に転属してから随分と「軍人らしく」なった。軍隊という世界についていこうと、かじりつく姿勢は見られるのだが、いかんせん男たちと比べると決定的な体格差があって、体力が付いてこない。
カスパル・ファルはそれを見抜いていて、彼女の体力を回復させるためにもわざわざ長めに休暇を取らせたのだ。
ポーランド戦では休みなく出撃していたのだからそれくらいは多めに見てもらえた、というのもあったが、空軍首脳部としては、女性の爆撃機パイロットがどこまでできるのかをテストも兼ねていたという実情も存在していたらしい。
女性である彼女がどこまで軍隊の激務について行けるのか。
当然、下っ端であるザシャはそんな事情を知りはしない。
「いいから休んでこい、上からの命令だ」
――俺は知らん。
休暇はいりません、とカスパル・ファルはザシャから訴えられて、鬱陶しげに顔の前で手のひらを振ると、しっしと年下の新米パイロットを追い払う。
簡単に言えば「頑張ったご褒美」なのだが、当人はあまり理解していない。
ワンピースのロングスカートの裾が揺れる。
余り着飾ることに感心のないらしいザシャは、清楚でフェミニンなワンピースの上に、上着として肩に飛行服のジャケットを引っかけている。ジャケットの胸元にはパイロット章とアスクレピオスの杖の刺繍がされていた。
存在も異質だが、彼女が持っている資格もまた異質だ。
要するに、彼女は看護婦の資格も「一応」は持っているのだ。
軍学校に引き抜かれる前に慌てて大学で単位を取得して、資格を取ったのだ。そのため、一応は看護婦でもあるのだが、職業軍人としての階級を得てからはすっかり看護婦への道は閉ざされてしまったと言っても良いだろう。
「どうも、少尉」
ぺこりと整備兵に頭を下げられて彼女は、手荷物の詰められたバスケットを両腕に抱えたまま考え込むような眼差しで格納庫に収容されているシュトルヒを見上げていた。
革製のフライトジャケットは、ザシャが身につけるには少々重そうだ。
「乗りますか? 少尉」
「スカートなので遠慮します」
「そうですか? 気が向いたらいつでも声をかけてください」
告げられてザシャはなじみの整備兵に笑みを返して見せた。
爆撃機の間から、戦闘機や偵察機も見えた。
幾度も溜め息をつきながら、彼女は基地の中をゆっくりと歩いて行く。
爆撃機基地だからと言って、戦闘機が皆無というわけではない。広々とした基地内を歩きながら、彼女は空を見上げて息を吐き出した。
テスト飛行か訓練飛行だろう。
多くの航空機が上空を飛んでいる。
私服姿の彼女が珍しいのか、訓練中のパイロットたちがワンピースにフライトジャケット、そしてバスケットを抱えているという珍妙な姿のザシャに注目した。
「休暇中なら、わざわざ基地まで来なくてもいいだろうに」
「天才だかなんだか知らないが、相当暇なんだろうよ」
陰口のような声が聞こえてくる。
わざと大声で言うから、学生時代に感じた女性達のそれのような陰湿さはあまりない。それでも言われているほうは良い気がしないのは事実で、ザシャは聞こえないふりをしてから、風に舞い上がるハニーブロンドの巻き毛を手のひらでおさえた。
「……っ!」
自分の横を滑るように黒い煙を上げて駆け抜けるBf109に、ザシャは驚いたように両方の耳をおさえると目をみはる。
――五機撃墜でエースパイロット。
急降下爆撃隊に所属しているザシャには、戦闘機を撃墜することなどとは無縁と言ってもいいだろう。
五機撃墜する。
世界的にそう言われるということはつまるところ、五機以上の撃墜すると言うことがどれだけ困難なことであるのか、と言うことを物語っている。
強い日差しの中を空へと飛び去っていく戦闘機を凝視して、ザシャは睫毛を揺らした。戦闘機のパイロットだけではない。軍人の誰もが、我先に戦功を立てることを望んで率先して他者の命を奪う。
それに対しては、ザシャ自身が論じることをできないということをわかっていたから、ただ複雑な思いで飛んでいく戦闘機を見つめるばかりだ。
「あんなに、きれいなのに……」
*
ザシャは彼女自身は感じていないが、いわゆる激動の時代に翻弄された子供のひとりだった。
生まれは一九一八年。
欧州大戦のまっただ中に彼女は生まれた。
そして、幼少期に終戦を迎えヴェルサイユ条約によって多額の負債を背負い込んだドイツで少女時代を過ごした。いわゆるハイパー・インフレーションとその後に起こった世界大恐慌。数多くの世界的な厳しい実情に多感なその時期を飲み込まれたのだ。
つらく厳しい子供時代を過ごしながら、よくもこんなにもまっすぐに純粋に育ったのはひとえに両親の愛情による賜物なのだろうが、人間というのは不思議なもので、自分のことになると途端に見えなくなってしまうきらいがある。
戦後のドイツ国の濁流の中。
現在の国家元首アドルフ・ヒトラーに心酔する若者も多いが、それは現在のドイツという国にあれば仕方のないことでもある。
それが良いことなのか、悪いことなのかは、軍人のひとりであるカスパル・ファルにはわからない。
子供たちが育つには最悪の環境だった。
大人たちが不安に苛まれれば、子供たちも影響を受ける。ファルだとて例外ではない。多くの事件を目の当たりにしてきた。
欧州大戦、終戦とヴェルサイユ条約。
ハイパー・インフレーションと世界大恐慌。国際連盟からの脱退と、再軍備。多くの事件がいっぺんに起こりすぎた。当然のように彼もそれらの酷悪な環境に怨恨を抱いたこともある。そういったことが巡り巡って彼が軍人としての職に就いているようなものなのだ。
いつか、ドイツを苦しめた者を滅ぼしてやろうと、かつてはそう思っていた。そこまで考えてから、カスパル・ファルは遠目に立ち尽くしているザシャを見つめて溜め息をついた。
休暇中なのだから、基地になど来なくてもいいだろうに。よほど暇になったに違いない。
フェミニンなワンピースに革製のフライトジャケットという出で立ちの彼女が、不意に倒れ込んだのが見えた。
脱力したようにその場に座り込んで、やがて力が抜けるように地面の上に倒れていく。まるでスローモーションかなにかのようだ。
随分と長い時間日差しの下で上空を見上げていたため、貧血でも起こしたのだろうか。
整備兵と話しをしていた彼は、倒れ込んだ部下の姿が視界に入って思わず顔を上げれば、すでに傍にいた士官が駆け寄るのが見えてカスパル・ファルは思わず舌打ちした。いくら戦時下ではないからといって、気のゆるみすぎにも程がある。
横倒しになって倒れているザシャを仰向けにして、呼び掛けているパイロットの男が何度か声をかけるが反応がないようで頬を軽くたたいた。しかし、それでも彼女は意識を取り戻さないため、戦闘機隊のパイロットだろう男は仲間に肩をすくめてみせてからザシャの背中と膝裏に腕をいれると軽々と抱き上げてから立ち上がる。
力が抜けて後ろにそってしまう頭を軽く片手で支えて自分の胸にもたれかけるようにしてから、男が歩きだした。
早足にファルが、ザシャを抱き上げて歩く士官に近づくと、男は片手に握っていたザシャの飛行ジャケットを差し出しながら顎をしゃくった。
「大尉のところのパイロットでしたっけか」
「すまんな、どんな様子だ?」
「日射病でしょう。随分体温が高い」
日射病になるほど長い時間なにを考えていたのだろう。
カスパル・ファルは片目を細めて、意識を失っているザシャを見つめた。
男性士官たちに比べれば随分小さなサイズのザシャの飛行ジャケットは、ファルから見ればまるで子供服のようだった。
「このまま医務室に連れて行っておきますんで、大尉は仕事をしていていいですよ」
フランクな話し方をする男はそうして、ブーツの踵を鳴らしながら基地の建物へと入っていく。
「こっちが済んだら行くと、軍医に伝えておいてくれ」
「了解」
手渡された彼女のジャケットを腕にかけたまま、カスパル・ファルはややしてから背後で困惑している整備兵長に向き直ると書類を開きながら肩をすくめた。
「それで、部隊の機はどれくらいで全部の修理が終わる?」
「そうですね、損傷が激しいのもあるんで、一ヶ月ってところですね。なにせ、やられてるのはスツーカだけじゃないんで」
「……そうか」
訓練は予備機を使えば良いとしても、やはり隊員たちには乗り慣れた機体を宛がってやりたいとも思う。
いつ、再び急降下爆撃機を飛ばさなければわからないのだ。
「なるべく早く仕上げます。大尉」
「あぁ」
確かに、今回の作戦で損耗が激しいのは急降下爆撃隊だけではない。空軍だけではなく陸軍も海軍も同じように戦後の兵器のメンテナンスでてんやわんやしている。
軍人たちはそれをいかに早く使えるかを聞いてくるだけだが、修理をするのも人間なのだ。
戦争中は不眠不休でそれらを行っていた整備兵たちだが、今は戦争も終わっているため、夜間は睡眠時間を確保するため作業効率はややペースダウンしている。そういった事情があった。
無造作に腕にかけられたザシャの飛行ジャケット。
それを見つめてから、ファルは大きな溜め息をついた。
「とりあえず、うちのがひとり倒れたみたいだから様子を見てくる」
整備兵長にそう告げると彼は格納庫の外へと向かって歩きだした。心配する気持ちもあるがなにより腹立たしい。
爆撃機パイロットが日射病で倒れるなど、あっていいはずがない。
健康管理はパイロットの仕事の一つなのだ。自分の状態が万全でなければ、航空機など飛ばせない。
「あの新米、気をゆるめやがって……」
わざとらしく口汚くつぶやいた彼の言葉を、ザシャに好意的な部下たちが聞けば笑うだろうか。
大股に闊歩する彼は降り注ぐ日差しに目を細めた。




