5 上官と部下
どれだけそこに立ち尽くしていたのか。
時間も忘れるほど、ザシャは空を見つめていた。
「あんなにも、きれいなのに」
人を殺すための道具なのだ。
人を殺すために、開発、設計されて作り出された機械。
いかに”効率良く”殺人を行えるか。そのために生まれた飛行機たち。
そして、ザシャは軍人であったから、彼女が好むと好まざるとに関わらず、どんな形であれその一助を担っているのだということを実感する。
軍隊という組織に入らざるをえなかった彼女は、けれども、入隊した瞬間から殺人者なのだと言うことを。
両腕にバスケットを抱えたまま、異端のパイロットの女性は呆然と立ちすくんでいた。目の前に自分の認めたくはない現実を突きつけられる。もしも、自分が白兵戦を主な任務とする最前線の歩兵であったなら、その重過ぎる十字架を背負っていけるのだろうか……。
ゴウ、と、エンジンの音が耳から随分遠くで鳴ったように感じた。
戦争中ではないという気のゆるみからだろう。ザシャは目の前が真っ暗に染まって全身から力が抜けていくのを感じた。目眩を起こしたようにその場にしゃがみ込むと、尻餅をつくような姿勢で腰が抜ける。ぺたりとその場に座り込んで唇を震わせた。
両腕を地面について体を支えようとするもののうまくいかない。
その場に崩れ落ちるように倒れ込みながら彼女は思う。
――倒れてはダメだ。怒られてしまう。
ここは基地で、自室ではない。
こんなにも戦友たちの目のある場所で倒れてはいけない。
「これだから女は使えない」「これだから女など軍隊に必要ではない」
何度となく彼女は陰口をたたかれ続けてきた。軍の飛行学校で、幾度となく。
「いらないって、言わないで……」
言葉は声にならずに消えていく。
涙がにじむのがわかったがどうすることもできずに、彼女はかろうじて唇を噛みしめる。そうして薄れ行く意識の中で彼女は指先を震わせた。
「……必要となんてしてくれなくていいから、”ここ”にいさせて」
自分の存在を認めてほしい。
自分がここにいることを許可してほしい。
望んだことは、ただ平凡に生きることだけだ。
だけれどもザシャにとってはそれすらも遠くて手が届かない。
自分に言い聞かせるように必死で意識を保とうとして精神の糸をたぐるザシャは、下唇をきつくかみしめると利き腕の左手の爪で地面をかきむしる。
体が熱い。
自分の思うとおりに体が動いてくれない。
たぶん、と、ザシャは頭の片隅でどこか冷静に事態を把握している。
恐らく高温障害だろう。
大学で医学を勉強していたことが彼女を冷静に自分の状況を判断させた。死ぬことはないかもしれないが、もしも、このまま放っておかれでもしたら命に関わりかねないのが高温障害だ。
それほど長い時間炎天下にいたつもりはなかったのだが、思った以上に考え事に没頭してしまったようだ。
頭が重くて腕が上がらない。きつい嘔吐感は任務後に感じるようなそれではなかった。全身が冷たくなっていくのを感じながら、ザシャはかすれたうめき声をあげた。声を漏らした、と自分では思ったが、それを自覚するかしないかというところで彼女は意識を手放した。
――熱い、寒い……。
「おい……っ!」
慌てたような誰かの声と足音が、ザシャの鼓膜を叩いた。
けれども、答えることなどできはしなくて、彼女の意識は暗闇の奥底へと絡め取られるようにして飲み込まれていった。
次にザシャが目を覚ましたのは、基地内の医務室だった。
軍学校を卒業してからというもの、あまり医務室に世話になることはなかったのだが、休暇中に世話になることになるとはさすがにザシャも思わなかった。
白に近い灰色の天井。
掠れた声が上がった。
「……ぁ」
首を回す。
まだ頭が重く、体に力が入らない。口の中がからからで、うまく声を出すことができなかった。
体の上には革製の飛行ジャケットがかけられている。
きっと、意識を失っていくときに聞こえた声の主か、もしくはそれ以外の誰かが医務室へ運んでくれたのだろう。
他の男性士官たちと圧倒的に体格が劣っているのが恥ずかしくて、ザシャは目を閉じる。
きっと男たちに取ってみれば、自分など子供と大差のない体格だっただろう。
なにせ、彼女の体重はやっと百十ポンドあるかないかというところだ。身長が五フィートと少しだから、それでも軍人としての体重は重い方ではない。
「目が覚めたか?」
不意に問いかけた声が近づいてきて、ザシャを覗き込んだ。
肘をついて簡易ベッドから体を起こそうとした彼女に、軍医の男は黒髪をかき回してからやれやれと首を傾げた。
「もう夏も終わりだが、あんまり長時間炎天下にいるもんじゃない。一応、看護婦だろう」
咎めるような彼の声に、ザシャは返す言葉もなく視線をそらすとベッドに背中を戻してしまった。目を背けて横を向く。
「……もう、勉強したことなんて忘れてしまいました」
言い訳をするように告げた彼女に軍医は溜め息をつくと、点滴の滴数を調節してから横におかれた丸椅子に腰を下ろす。
「休暇中だそうだな」
「……――」
「別に俺は倒れたことを責めているわけじゃない」
低い男の声に、ザシャは戸惑うように視線を戻すと軍医を見つめた。
「……先生」
「君の頭脳は特別だと聞いている。他の天才がそうであるように、君は一度覚えたことを忘れない。そうだろう?」
「わたし、特別なんかじゃありません……」
普通の女の子だ。
ただ、職業軍人であると言うだけ。
「外見は確かに普通だね、けれども、フロイラインの頭脳と反射神経は特別だ」
軍医は自分の頭を指で指し示すようにしながら告げると、彼女は思い詰める様子で黙り込んだ。
運動能力がなければ、戦闘機の操縦など不可能だ。複雑で俊敏な動きを要求される操縦に体と、反射神経がついていけなければ話にならない。
「……ですが、先生」
他の男性士官のように強い心を持っているわけではない。
「わたしは……」
口ごもった。
「君は、君自身のことを随分と過小評価しているようだが、男だって初めての戦場では気が触れる者もいるというのに、君はそうじゃないだろう」
言い含めるような彼の言葉に、ザシャは息を飲み込んだ。
「そういえば、倒れた後に君の上官殿が荷物を持ってきてくれたよ」
ラタン細工のやや年季の入ったバスケットだ。
まだ十代初めのころに購入したお気に入りの品だ。
「……隊長が?」
「そうそう、ファル大尉がね、わざわざ持ってきてくれたんだ」
枕の横に置かれたバスケットの内側の布は何度か彼女自身の手によって張り替えられている。
私的に外出するときはほとんど一緒に行動した。
「ありがとうございます」
「血管痛はないかね?」
体内の電解質バランスが狂っているのだろう。
まだ頭重感が消えない。
「大丈夫です。先生、針刺すのお上手ですね」
ベッドに横たわったままでザシャが謝意を述べると、男は照れたように頭をかいてから苦笑した。
「男にそういう顔を安易に見せるものじゃないぞ」
そうして、言葉を続けた。
「点滴が終わるまで少しゆっくりしていきなさい。どうせ休暇中なら、それほど門限もうるさくないんだろう」
「ありがとうございます……」
点滴の中に眠気を誘う薬剤が入っているのだろう。
ぼんやりとした眠りに引きずり込まれていった。
そんな彼女を見つめた軍医の男は、カーテンの向こうに視線をやってから長い息を吐き出すと足音もたてずに簡易ベッドの前を離れて、ソファに腰掛けていたカスパル・ファルに肩をすくめてみせる。
「顔見なくていいんですか」
「……どうも俺は、情けない新入りの顔を見ると無性に怒鳴りつけたくなるからな」
腕を組んだまま溜め息混じりにつぶやいたファルの瞳は、それでも気遣う色を隠せない。
あたりまえだった。彼は、部下をひどく大事にする。そしてなによりも、ザシャ・デーゼナーが伸び白を感じさせるパイロットであることからも心配の種は尽きないのだ。
「彼女、自分で感じてるよりもずっと強いですよ」
「”知っている”」
軍医の評価をファルは即答で返してから、カーテンのむこうがわのベッドで眠っているだろうザシャを見透かすように目をすがめて、何度目かの溜め息をついた。
「”あれ”が強いのは知っている」
腕の良いパイロットというのは、帰還率の高いパイロットでもある。そして、彼女がポーランドでの任務で機体を傷つけたのは片手で数えるほどしかない。
つまり、それだけ彼女の飛行技術が突出していると言うことだ。
パニックにも陥ることなく、少なくとも任務中は冷静に任務を実行する。それができるというのは新兵ではなかなかいない。
「複雑なところですね」
軍医にそう言われて、ファルはフンと鼻を鳴らしてから眉をひそめる。
「相手が女だから甘い顔をしてると思われるわけにはいかないからな」
そうつぶやいた彼に、軍医が口の中で笑った。
部下の努力をきちんと評価する上官と、そんな上官に必死でかじりついていこうとする、才能に溢れた部下。
どちらが欠けても良い上下関係というのは成立しない。
「とりあえず、デーゼナーのことをよろしく頼む」
そう告げてファルは生真面目に敬礼をすると医務室を出て行った。
出て行こうとして、扉から顔だけを覗かせる。
「なんです?」
「かわいいからって手を出すなよ」
「なに言ってるんですか、そんなことしませんよ」
男の欲望に釘を刺したカスパル・ファルに、苦笑いした軍医は今度こそ完全に扉の外に消えたザシャの上官を見送ってから頭を掻いた。
「良い上官だ」
部下のことをよく思っている。
ザシャは幸せだ、そう彼は思った。




