8.穏やかな日々の始まり 前編
翌朝、私は気持ちのよい目覚めを味わうことができた。
昨夜はベネディクト様の不在をいいことに早めにベッドへ入り、なんと12時間睡眠。急な仕事の連絡で起こされることもなかった。
こんなに眠ったのは子どもの頃以来ではないかしら。
ありがとうございます、初夜をほったらかして外出してしまった旦那様。
ゼンコールド公爵領は王都よりも涼しい気候で、夏も近いというのに風はからりと乾いていて爽やか。
「奥様付きの侍女となりました、リシャと申します」
緊張した表情で頭を下げた少女に先導されて、私は食堂へ行った。
朝食も豪勢すぎずちょうどよい。パンにサラダにスープにソーセージ、デザートはヨーグルトとフルーツ。給仕されるのではなく、テーブルに盛り付けられた大皿から好きなだけとるスタイル。
「穏やかな自由だわ……」
ちなみに以前はどうだったかというと、実家では妹レティアの好みが最優先され、私には残り物がまわされた。第二王子の婚約者として出席する式典や晩餐会では豪華な食事だったけれど、マナーに社交にと気を使い、ゆっくり料理を味わう時間はなかった。
自分の食べたいものを食べたい量だけ食べる。なんて贅沢なんでしょう。
「ごちそうさまでした。とってもおいしい朝食だったわ」
私は大満足で朝食を終えた。
それからリシャといっしょに屋敷内を見てまわったあと、図書室へ行った。
ふかふかのソファに身を埋め、ゼンコールド公爵領の歴史や地理について書かれた書物を読む。
「……リシャ? どうかしたかしら?」
ふと顔をあげて、私は尋ねた。
リシャはどこかそわそわとして、視線を宙にさまよわせたり、眉根を寄せたりしている。
「あ、申し訳ございません……少し、以前の仕事が気になってしまって……」
もじもじと指先をこすりながら答えるリシャに、私は「そうよね」と頷いた。
私が突然現れて突然ベネディクト様の妻になったせいで、リシャはもともとの仕事を離れて私の侍女になってしまった。急に自分の抜けた仕事がどうなっているのか、気になるのは当然だろう。
私だってあとを心配して引継書を残したのだし。
「私はまだ本を読むつもりだから、見てきたらどうかしら」
「よろしいのですか?」
リシャはパッと顔を輝かせた。
仲間を大切にし、仕事にやりがいを感じているのだろう笑顔に、こちらも心が癒やされる。
「ええ、もちろん」
「ありがとうございます! すぐに戻ります!」
ぱたぱたと出ていくリシャを見送り、私はソファに戻り、本を開いた。
ゼンコールド家の歴史を語る手記を読みながら、屋敷で働く人々は領内からやってきたのだろうと思う。
食堂や図書室へ行く途中ですれ違った使用人たちは、皆忙しく働いていて、私が通りかかっても礼儀正しくお辞儀をして通りすぎるだけ。
リシャを含め、やっぱりどこかピリピリした空気はあるのだけれども、急にやってきた妻への困惑と緊張ということだろう。
朝食の支度ぶりから敵意は感じられなかったし、マイリット家の使用人たちのように妙な噂話に花を咲かせたり、挙句の果てにはこちらに聞こえるようにクスクス笑ったりもしない。
(……冷静に考えると、劣悪な環境にいたわね……)
第二王子の婚約者、いずれ妃になる侯爵令嬢としての私と、実家でレティアの姉である私はまったく別の扱いを受けていた。
私がダレル殿下の婚約者に指名された時、両親は喜んでいたけれども、ちらりちらりと交わす視線ではこう言っていた。
「レティアが指名されればよかったのに」――と。
(いけないいけない)
暗くなりかけた思考を振り払うと、私は顔をあげた。
窓からはあたたかな日差しと涼しい風とが同時にやってくる。風は庭園の花の香りを運び、私の頬を撫でた。
いまはただ、この幸せを噛みしめなくては。
ぽかぽか、そよそよ、ぽかぽか、そよそよ……。
「――はっ!!」
目覚めた瞬間、私は飛び起きた。体の下のソファは柔らかなクッションで急な動きを受けとめてくれる。
本を読み終えたところで眠くなり、ソファにもたれかかったのは覚えている。そのまま寝入ってしまったらしい。
慌てて見まわせば、窓からは先ほどと変わらずゆるやかな風が入り込んでくるが、日差しはすっかりと夕暮れのもの。
3、4時間は眠っていたようだ。
(変ね、リシャはまだ戻らないの……?)
くうくうと空腹を訴えるお腹を押さえ、私は首をかしげた。
リシャがいなくとも、昼食に私が現れなかったら誰かがさがすはずだ。私が眠っていたとしても、起こしてどうするか尋ねるくらいはする。
ソファから立ちあがり、元あった棚に本を返すと、私は訝しみながら図書室を出た。
――そして、すぐに疑問の答えにたどりついた。
「おい!! コンラッド商会からドリスさんがきてるぞ!! 誰か金を受けとれ!!」
「受けとるったって金額がわからんわよ! わかるのは誰!?」
「ジェイスさんよ! ジェイスさんは!?」
「ジェイスさんは書斎で書類に囲まれて泣いてる!!」
「旦那様の乗馬服を繕わなきゃ! 商会がきてるなら革の注文をしてくれない!?」
「あっ、食材の注文も頼む! トマト1箱!」
「卵もよ!」
「自分でやってくれ!」
廊下を飛び交う怒声、走りまわる使用人たち。
ある者は洗濯籠を持ち、ある者は食材を持ち、ある者は書類の束を持ち……とにかく誰もがなにかを抱えて走り、その途中で新たな仕事を思い出してはほかの者にぶつけている。
廊下に倒れ伏している者もいる。大丈夫?
「キッチンは夕食の準備で忙しい! 今夜は2品は増やさなくちゃ」
「そうよ、奥様がいらっしゃったから――んっ!? 奥様はいまどこに!?」
「あれ、奥様にご昼食……」
「たいへん、ご用意するのを忘れてたわ!!」
「奥様はいまどこに――キャアアアアアアア!! 奥様!!!!」
振り向いたメイドが、突っ立っている私に気づき、幽霊でも見たかのような叫び声をあげた。
皆の顔が私に向く。
その中には、これ以上ないほどに目と口を開いているリシャもいた。
よくよく目を凝らせば、誰の目の下にもうっすらとクマが。
(うん……うん、なるほど)
脳裏に王宮での暮らしがよみがえった。
王宮では、ダレル殿下が仕事を放置して遊びにいってしまうせいで、侍従たちは書類を持って走りまわり、最終的に私のところへ飛び込んでくることになった。
もちろんここでは誰も遊んではいない。せいいっぱいやっている。それでも間に合わないのだ。
私は納得した。
どうやらこれが、使用人たちの緊張の理由。この惨状を、私に隠そうとしていたのだろう。
敵意ではない。むしろ彼らは、ベネディクト様と同じく、私にゆったりとした時間をすごしてほしいと思ってくれていたに違いないのだ。
ゼンコールド公爵家は、めちゃくちゃに仕事があふれているらしい。




