17.夫になった人は
ひと月ぶりにお会いしたベネディクト様は、私の顔を見るなり妙な顔になった。
眉間に深く寄ったしわがだんだんと浅くなるにつれ、ベネディクト様の口から「そうだ、サーラ嬢……いや、サーラ」という呟きが漏れる。
うん、この反応は……。
*
「旦那様がお帰りになるそうです――1時間後に」
そうジェイスから告げられたのは、魔道具工房へ顔を出してから半月ほどたったある日のこと。
つまり、ベネディクト様と最後に顔をあわせてからひと月後のことだった。
「1時間後?」
「はい」
私に伝わると同時にほかの使用人たちにも伝わっていったのだろう、屋敷全体がざわざわと賑わい始める。
「食事や湯浴みの準備、馬の手入れの準備は私どもが行います。奥様は旦那様のお迎えの準備を」
「わかったわ」
いくらのんびりしていていいと言われたからといっても、ひと月ぶりの主人の帰還にいまのドレスはシンプルすぎる。
最近の日中は仕事と趣味の家庭菜園に精を出しているため、宝飾品もなく、スカートのふくらみもないドレスばかりになっていた。
リシャに髪を整えてもらい、お化粧も直して、ドレスを着替える。
「旦那様のお帰りはいつもこうなの?」
「はい。帰還の連絡を騎士団の駐屯地を出る直前にくださるので……」
わざとではなく、目の前の仕事を処理し続けていたら突然ぽっかりと空き時間ができた、よし帰ろう、という感じなのでしょうね。
想像できてしまうのは私にも似た記憶がたくさんあるからだ。
咄嗟の瞬発力に優れているゼンコールド公爵家の使用人たちは、1時間でもきちんと迎えの準備を整えた。
そうして、公爵夫人にふさわしい装いで玄関に出た私を、ベネディクト様は、
(誰だっけ……?)
という目で見つめてくださったのだった。
なんとも言えないほほえみを返す私に、ベネディクト様は頭をかく。
「いや、すまない…… 正直に言うと君の存在を忘れていた。そうか、妻か……そういえば手を挙げたな……思い出してきたぞ……」
「そこからですか」
思わず言うと、ベネディクト様はうなだれた。
「すまない……」
「あ、いえ、私も言いすぎました」
そうでもないかも、と思いつつ一応謝っておく。
騎士団の制服を着たベネディクト様は、鍛えあげられた体つきと精悍な顔立ちに疲労を重ねた絶妙な空気を放ち、疲れ果てた大型犬のよう。
しょんぼりと垂れた耳と尻尾を幻視して、なんだか申し訳ない気持ちになる。
「どうぞ、食事やお湯の準備ができております。少しでもお疲れをやわらげてくださいませ」
「ああ、ありがとう……そうだな、まずは湯を浴びよう」
笑顔で言うと、ベネディクト様もほっとしたように笑った。
*
湯を浴びてくつろいだシャツ姿になったベネディクト様は、やや血色の戻ったお顔で料理に手をつけた。
ちょうどお昼だったので、私もごいっしょさせてもらう。
昼食ということもあり、ビュッフェ形式ではなく料理が運ばれてくる。ベネディクト様は健啖家のようで、すべての料理が私の三倍ほど盛りつけられているのをぺろりと平らげていく。
少し頬がこけたような気がするので、たくさん食べていただきたい。
もしかして、疲れ果てている姿だと思っていた王都でのベネディクト様は、あれで調子がいい時なのかもしれない……。
「半月ほど前から、一度屋敷に戻らなければという思いはあったんだ」
まじまじと見ていたら、ベネディクト様は困った顔で先ほどの言い訳を切りだした。
「時間を作ろうとがむしゃらに働いているうちに理由を忘れてしまったが……君だったんだな、俺の帰る理由は」
一瞬ロマンチックに聞こえるがよくよく考えるとまったくそんなことはない台詞だ。
でも私にはベネディクト様の気持ちがわかった。
「大丈夫ですよ、お気になさらず。私にも覚えがあります」
落ち着いたらこの人に会わなければと思いながら忙しくすごしているうちに会う理由を忘れてしまうのは、私も何度かやったことがある。
会えた時にはすでに、もともとの相談事が解決している場合もあった。
半月前にベネディクト様が帰らなければと思ったきっかけは、私からの魔獣用罠に関する手紙だったはず。
あとでそのお話もしたほうがいいわね。
私が頷いていると、ベネディクト様はちらりと私に視線を送った。
「……よく眠れているか」
「はい、おかげさまで。初日は12時間、いまでも8時間睡眠です」
「それはよかった。食べ物は口にあうだろうか」
「はい。食事はいつもおいしくて、ゆっくり食べられますし、外出や趣味の時間もとれています」
家庭菜園は順調。蒔いた種にも芽が出たし、苗はすくすく枝葉を広げている。
魔道具工房で罠の試作品を確認するついでにレストランでランチを楽しんだり、お菓子を買って帰ったり。心配性のリシャも、さすがに私がのんびり気ままに暮らしているということを認めてくれた。
私の言葉にベネディクト様はふっと笑い声を漏らした。
「そうか、なによりだ」
目を細めた、やわらかな笑顔が向けられる。
私を心からいたわり、穏やかな暮らしをよろこんでくださっているのがわかる笑顔だ。
素敵な方だ、と思う。
自分は抱えきれないほどの仕事をなんとかこぼれないようにと抱えていらっしゃるのだろうに、昼夜魔獣と戦い、神経をすり減らしているだろうに、それでも私を気遣ってくださる。
「――ありがとうございます」
胸の中がほこほことあたたかくなる。勝手に頬がゆるんで、私も笑顔を返していた。
「礼なんて」
「言わなければなりませんよ。ベネディクト様がゼンコールド領へ連れてきてくださったのですから」
照れくさそうな顔になるベネディクト様に、私はまた笑った。
それから、ベネディクト様は私の趣味の家庭菜園について聞いた。
食事中だからと仕事の話は避けてくださったのだろう。
「自分で苗を植えたのか」
「はい、教えてもらいながら。最初は小さな苗ですが、大きく育つことを見越して間隔をとらなくてはいけなくて」
植物というのはすごい。植え付けて数日はなにも変わらないように見えたけれど、庭師曰く「根を張った」途端にすくすくと大きくなり始め、半月たって何倍にも育った株もある。
それに、最初は環境に慣らすため、刺激は少なめに。肥料も控えたほうがいいらしい。
「私だけでは植物のゆたかな成長力は予期できませんでした。先人に教えを請うことは大切です」
そう話すと、ベネディクト様は驚いたように目を見開いた。
「? なにか?」
「いや、なんでもない。楽しく暮らしているようでなにより」
咳払いをして、ベネディクト様は先ほどと同じような台詞を言う。
「はい、楽しいです」
私は頷いた。
夫婦にしては、とりたてて盛りあがるところもない会話かもしれない。
けれど、気を張る必要のないこの空間は、私にとって最高の居場所だった。




