10.穏やかな日々の始まり 後編
というわけで、私はふたたび書斎へ。
泣き濡れていたジェイスは今は落ち着いて、しょんぼりと肩を落としていた。一応仕事は中断して休んでくれたらしい。
「実は、この数年、魔獣の出現が活発になっていて……」
その言葉で私はだいたいのことを察した。
人間と同じく、体に一定以上の魔力を蓄積した動物は魔獣化して、魔法を扱うことができるようになる。
もちろん複雑な魔力操作はできないから単属性の初歩魔法くらいのものだが、狼が火球を撃ってきたり、猪が氷盾を身にまとっていたりしたら脅威であることはわかってもらえると思う。
ちなみに、この国では、貴族であればそれなりの魔力を持って生まれてくる。魔法がいっさい使えないということはない。
ゆえに、魔法の使えない者は女神から見放された『加護なし』と呼ばれ、魔獣でも使える魔法が使えない、とバカにされる。私が婚約破棄されたのもダレル殿下にそんな気持ちがあったのだろう。
……話をもとに戻そう。
訓練を受けた魔法騎士が複数いれば魔獣を倒せると言われるが、逆に言えば普通の装備をそろえた程度では手も足も出ないということで。
「魔獣が増加するに従って、騎士団も増強が必要で……ベネディクト様は魔獣討伐の合間に増員のための交渉、訓練の指示、装備の調達と、様々に働かれ……」
「魔獣討伐の合間に、事務仕事を……」
ジェイスは青い顔になって涙ぐんでいたけれど、私も血の気の引いた顔をしていたと思う。
魔獣討伐には何日もかかり、体力と精神力をギリギリまで削られる。帰還した騎士や兵は特別休暇を与えられるような任務だ。その休暇のはずの時間に、事務仕事を詰め込んでいるのだろう。
「騎士や兵士は確保できたものの、各地の砦で働く人間の数も足りず、ゼンコールド家の者から人手を出しまして」
「それで屋敷の使用人も足りなくなった、と」
その状況で出席必須のパーティに呼ばれ……見せられたのが茶番のような婚約破棄……。
「私も領地や屋敷を見てはいるのですが、今回は私も王都へまいりましたので……」
「なんだか申し訳ない気持ちになってきたわ……」
私はこめかみを押さえた。
主人が身を削って働いているから、使用人たちも不満を言わず支えようとする。
そんな事情を知れば、妻の私が悠々自適に暮らすわけにはいかない。だからリシャたちは、私からこの屋敷の惨状を隠してくれていたのだ。
私に礼儀正しくお辞儀をしたあと、彼らは走りだしていたのだろう。
「ひとまず、屋敷のことを整えましょうか。書類は私が引き取りますから、ジェイスは皆の話を聞いてあげて」
「えっ、奥様がこの……山のような書類を?」
ジェイスが周囲を見まわし、不安そうに尋ねる。
「だめかしら? ベネディクト様からは経営書類を見てもいいと許可をいただいたけれど」
「いえ、そうではなく……私でも半月はかかる量です。初めての奥様には……」
「まあいいじゃない。倍の時間がかかっても、ひと月。来月の締めには間に合うわ」
私があっけらかんと言うと、ジェイスは目をぱちぱちとさせた。
仕事について、私はひとつ決めていることがある。
始める前に悲観的になりすぎない、ということだ。
情報の少ないままあれこれと考えていても仕方がない。こうした書類仕事なら、始めてみれば中身はわかる。その時に初めて、間に合うとか間に合わないとかの予想もできるだろう。
慌てたり不安になったりするのは、手の打ちようがないとわかった時でいい。
「それに、似たような光景は王宮でよく見ていたし……ここまでの量に育ったのは初めてだけど」
「奥様、いったいどんな暮らしをされていたんですか……?」
ジェイスが心配そうにうかがってくるが、それよりも自分の体調を心配してほしい。
「じゃあ、明日から始めるから。書斎の鍵をくれるかしら。ジェイスも今日は休んで、明日からは屋敷のことを見てちょうだい」
「……わかりました。奥様のその胆力、数々の修羅場をくぐり抜けてきたのだと推察します。どうぞ、書斎をよろしくお願いいたします」
「ええ、任せて」
ちょっと期待のされすぎのような気もするけれど、私は頷いて鍵を受けとった。
ジェイスとともに書斎を出て、鍵をかける。
*
その日の夕食もおいしかった。お腹が空いているから余計に。
食べ終わった私はさっさと就寝の支度をすませ、ベッドに入った。昼寝までしてしまったけれど、眠気はすぐに訪れる。
夢も見ず、私はぐっすりと眠ったのだった。




