第23話 スプーン勇者、魔王と出会う
森を抜けた先に広がっていたのは、これまでとは明らかに異質な空間だった。
風は吹いているはずなのに、音が遠い。木々の葉が揺れているのに、そのざわめきがどこか鈍く、現実感を失っているように感じられる。空の色も、わずかにくすんで見えた。
足元の土は黒く乾いている。だが踏みしめるたび、硬いはずの地面から、じわりとした鈍い感触が返ってくる。
「……ここか」
エルミナが低く呟いた。
その声は普段と変わらないはずなのに、この場では妙に重く聞こえる。
「魔王の気配……強いな」
「いや、強いとかそういうレベルか?」
思わず言葉を返す。
肌がひりつく。空気そのものが重く、肺の奥に入り込んでくる感じがある。
「……帰っていい?」
「ダメだな」
「ですよね!!!」
即答だった。わかってたけど。
そのとき。
前方の空間が、ゆらりと歪んだ。
風が止まる。音が消える。
そして――
そこに、“最初からいた”かのように、影が現れた。
「……」
言葉が出ない。
黒い外套に包まれた人影。余計な動きは一切なく、ただ立っているだけなのに、視線を逸らせない。
何もしていないのに、わかる。
――強い。
「……魔王、か」
喉の奥で、かろうじて言葉を形にする。
魔王はゆっくりとこちらへ視線を向けた。その瞳は静かで、だが底の見えない深さを湛えている。
「……来たか」
低い声が、空気を震わせる。
それだけで、背筋に冷たいものが走った。
「人間の勇者」
その視線が、こちらに――いや。
俺の手元へと落ちる。
「……それが、お前の武器か」
「違う!!!!!」
反射で叫んでいた。
違うだろ!!!
いや違わないけど!!!
でも違う!!!
「……」
魔王の眉が、ほんのわずかに動く。
「……スプーン、だな」
「言うな!!!!!」
なんで全員そこ確認するんだよ!!!
だが、魔王は笑わない。馬鹿にもしない。
ただ、観察している。
「……報告通りか」
「報告?」
「妙な武器を使う勇者がいると聞いた」
「妙って言うな!!!」
いやまあ妙だけど!!!
魔王は一歩、前へ出る。それだけで空気が変わる。
見えない圧が、じわりと押し寄せてきた。
「形はどうでもいい」
低く、静かな声。
「問題は、その中身だ」
「……」
言葉が詰まる。
こいつは、ちゃんと見ている。
スプーンをじゃない。“中身”を。
「……試そう」
短く告げた瞬間、魔王の周囲に魔力が集まり始めた。
黒い。重い。
それはこれまで見てきた魔法とは、明らかに違っていた。空気を押し潰しながら収束していくその塊は、見ているだけで胸の奥がざわつく。
「おい、それ絶対やばいだろ……」
思わず呟く。だが止まらない。
黒い魔力はさらに密度を増し、やがて魔王の掌の前に収まった。
「来るぞ!」
エルミナの声が飛ぶ。
次の瞬間、それは放たれた。
一直線。
だが、ただ速いだけではない。
重い。
空間ごと引きずるような圧が、一直線にこちらへ押し寄せてくる。
「……っ!」
逃げるという選択肢が一瞬よぎる。
だが、それでは間に合わないと体が先に理解していた。
俺は一歩踏み込み、両手のスプーンを前に出す。
金と銀。どう見ても食器。
だが――これしかない。
振る。
触れる。
いつもなら、それで終わる。
だが今回は違った。
衝突した感触が、そのまま残る。
消えない。
「……は?」
押し込まれる。
足がわずかに滑り、土が削れる。
重い。
削れない。
だが、すぐに理解する。
全部じゃない。“中心”だ。
そこだけを狙う。
流れに逆らわず、内部へとスプーンを滑り込ませる。
すくう。引き剥がす。
「――っ!」
手応えが変わる。
塊の芯が崩れ、全体が一気に力を失う。
残った魔力は風のように散り、後方の木々を大きく揺らした。
「……はぁ」
息が漏れる。だが、終わらない。
魔王は動かないまま、じっとこちらを見ていた。
「……なるほど」
小さく呟く。
「構造は単純か」
「やめろ」
即答する。
理解されるの、普通に怖い。
魔王はさらに一歩踏み出す。
再び魔力が集まる。
今度は、さっきより明らかに大きい。
「ちょっと待て、それさっきよりでかくないか!?」
「当然だ」
冷静な返答。
「一度見た以上、同じでは意味がない」
「あるだろ!!!」
頼むから加減してくれ!!!
だが、止まらない。
再び放たれる。
今度はより速く、より重く。
空気がきしむ。地面がわずかに震える。
「……っ!」
今度は迷わない。
最初から中心だけを見る。
スプーンを滑り込ませる。
削る。
重い。
だが、さっきよりも理解している分だけ、動きが噛み合う。
少しずつ崩れる。
歪む。
その瞬間を逃さず、さらにすくい上げる。
芯が砕ける。
残りは一気にほどけ、風となって抜けていった。
強い風が頬を打つ。だが、それだけだ。
「……はぁ……」
今度ははっきりと疲れが残る。
肩で息をしながら、前を見る。
魔王が、わずかに頷いた。
「……確かに、面倒だな」
「褒めてんのかそれ!?」
思わず叫ぶ。
評価が微妙すぎるだろ!!!
魔王はそれ以上踏み込まなかった。
ほんの一歩だけ距離を取り、こちらを見据える。
「今日はここまでにしておこう」
「は?」
間抜けな声が出る。
「観察は十分だ」
「観察ってなんだよ!!!」
戦いじゃねぇのかよ!!!
魔王は振り返らない。
そのまま、気配ごと薄れていく。
最初からいなかったかのように。
静かに、消えた。
「……」
しばらく、誰も動けなかった。
やがて風が戻る。音が戻る。
現実が、戻ってくる。
「……は?」
ぽつりと声が漏れる。
「終わり……?」
「一時的にな」
エルミナが答える。
その声には、わずかな警戒が残っていた。
「……いや」
俺は両手のスプーンを見る。
金と銀。
どう見ても、ただの食器。
「……やばいのに目つけられた気しかしねぇ……」
小さく呟く。誰も否定しなかった。




