第九七話 20の牙
翌朝の訓練場は、昨日より空気が重かった。
理由は全員わかっている。
昨日の最後にユウが言った一言。
「明日は狼二十」
その言葉だけで、集まった若い騎士たちの表情は朝から硬い。
「まだ脚が痛い……」
「昨日で終わりじゃなかったのか」
「二十って倍だぞ」
「しかも先頭が決まってる」
視線が自然に集まる。
中央最前列。
槍を持ったマーニが立っていた。
眠れなかったのか、目の下にわずかな影がある。
だが姿勢は崩れていない。
昨夜、机の上に並べた父の遺品は今朝きちんとしまってきた。
鎧の欠片。
古い隊章。
ネームタグ。
胸の中の迷いは消えていない。
それでも足はここへ来た。
逃げなかった。
少し遅れて現れたユウは相変わらず気だるそうだった。
欠伸。
軽く首を鳴らす。
その横でレオンが地面を見ている。
嫌な予感しかしない。
アレンは少し離れて腕を組んでいた。
「じゃあ始める」
ユウが足元へ影を広げる。
昨日より濃い。
広がりが速い。
石畳一面へ黒が走る。
そこから次々と形が浮かぶ。
一体。
二体。
三体。
止まらない。
二十体の影狼。
赤い目が一斉に開く。
昨日の倍。
それだけで圧が違う。
若い騎士たちが一歩下がる。
「……多い」
「近い近い近い」
「いや無理だろこれ」
その瞬間、レオンが片手を上げた。
足元の石畳が白く変わる。
薄く氷が張る。
訓練場全体へ一気に広がる。
「え」
「待て」
「滑る」
誰かが言い終える前に転ぶ。
一人。
二人。
一気に数人が足を取られる。
レオンは淡々としている。
「姿勢が悪い」
「悪い以前の問題です!」
即座に返る悲鳴。
アレンが笑う。
「今日は転ぶなよ」
ユウが指を鳴らした。
影狼が走る。
開始。
マーニは真っ先に踏み出した。
昨日より速い。
真正面から来る二体。
氷床。
滑る。
だが昨夜考えていた。
踏み込みを浅くする。
槍の石突きを床へ軽く当てる。
体重を逃がす。
一体目をかわす。
二体目は右から。
槍を横へ払う。
直撃はしない。
だが軌道がわずかにずれる。
そこへ身体を落とす。
牙が肩上を抜ける。
避けた。
「……お」
ユウが少しだけ目を上げる。
レオンも視線を向ける。
「昨日より速い」
アレンが頷いた。
「考えてきたな」
後方では地獄だった。
氷で転ぶ。
転んだ瞬間に影狼。
脱落。
起きた瞬間また滑る。
脱落。
「氷いらないだろこれ!」
「いる」
レオンは即答した。
「戦場は選べない」
正論すぎて誰も返せない。
マーニは走り続ける。
呼吸を一定に。
氷に逆らわない。
滑るなら流す。
槍を支点に使う。
父の教えではない。
今この二日で見たものをそのまま形にしている。
三体目。
背後。
気配で沈む。
影狼が頭上を抜ける。
四体目。
横。
足を止めず半回転。
槍の柄で押す。
ぎりぎりで逃げる。
昨日なら終わっていた。
今日はまだ残る。
そのとき、一体だけ違う動きの狼がいた。
他より低い。
速い。
目線が鋭い。
ユウの影狼ではない。
レオンが小さく言う。
「混ぜたか」
アレンが笑う。
「本物だな」
一体だけ本物の狼。
灰色。
影ではない。
生きた獣。
それがマーニへ一直線に来る。
影狼より読みづらい。
呼吸がある。
踏み込みが生きている。
マーニは槍を出しかけて止めた。
突けば氷で滑る。
なら。
踏み込みを半歩ずらす。
槍を立てる。
狼が飛ぶ。
身体を沈める。
すれ違いざまに柄で押す。
着地した狼が振り返る。
そこへ影狼二体。
完全に挟まれた。
「……っ」
終わる。
そう思った瞬間。
影狼が止まった。
ユウが手を下ろしていた。
静寂。
訓練場には倒れた騎士たちの呻きだけが残る。
残ったのはまた少数。
そして最前列にマーニが立っている。
息は荒い。
膝も震える。
だが倒れていない。
ユウが近づく。
真正面。
少しだけ見下ろす。
「昨日よりいい」
短い評価。
それだけなのに重い。
マーニは息を整えながら答える。
「ありがとうございます」
ユウは本物の狼の首を軽く撫でる。
狼は影へ沈んだ。
「明日から噛む」
「今まで噛まなかったんですか!?」
後方から絶望が飛ぶ。
アレンが笑う。
「今日はまだ準備運動だ」
「二日目で!?」
レオンは氷を消しながら言う。
「マーニ」
呼ばれて顔を上げる。
「はい」
「足運びはいい。だが肩に力がある」
「……はい」
「明日そこだけ直せ」
淡々としている。
だが確かに見ている。
二人とも。
三人とも。
マーニは槍を握り直す。
昨日より少しだけ迷いが薄かった。
父の名はまだ胸にある。
だが今、自分の足で前へ進んでいる。
その実感が少しだけ勝っていた。




