第九六話 気持ち
夜の王都は静かだった。
昼間の訓練場の喧騒が嘘のように消え、復興途中の石畳には松明の明かりだけが揺れている。
王直属騎士用の宿舎、その一室。
狭い机。
簡素な椅子。
壁に立てかけた槍。
脱いだ軽鎧の胸には、まだ昼間の土埃が残っていた。
マーニは扉を閉めると、しばらくそのまま立ち尽くしていた。
全身が重い。
脚がまだ熱を持っている。
影狼から逃げ続けた疲労は深く、呼吸は落ち着いても筋肉がじわじわ痛む。
だが眠る気にはなれなかった。
机の引き出しへ手を伸ばす。
奥にしまってある布包みを取り出す。
何年も開け閉めしてきたものだ。
角は擦れ、布の色も薄れている。
慎重に広げる。
中から出てきたのは、小さな鉄片。
焼けた跡が残る鎧の欠片。
端が不自然に歪んでいる。
あの日、崩れた門前で拾ったものだった。
父が着けていた胸当ての一部。
手のひらに乗るほどしか残らなかった。
冷たいはずなのに、いつ触れても熱を持っているように感じる。
その横に置かれているのは古い隊章。
王都守備隊の紋章。
欠けた銀の縁。
裏に擦れた刻印。
そして小さなネームタグ。
金属板に刻まれた文字。
ガルム
父の名。
何度も見てきた。
子どもの頃は誇らしかった。
大人になってからは痛みになった。
マーニは椅子へ座り、静かに鉄片を指でなぞる。
昼間の言葉が離れない。
「昔、王都で最後まで前に出てた兵士がいた」
あの男――ユウが言った。
軽くではない。
確かに覚えていた。
無数の兵の一人ではなく。
最後まで前に出ていた、と。
目が似ている、と。
見ていたのだ。
あの日の父を。
黒に呑まれた王都の中で。
マーニは目を閉じる。
思い出すのは、階段の陰から見た背中。
門前で剣を抜く父。
振り返らずに叫んだ声。
そのあと、影に呑まれた姿。
そこから先は恐怖しかなかった。
父は奪われた。
殺された。
それだけだと思っていた。
だが今日、初めて別の形が差し込んだ。
認められていたのか。
あの男に。
いや、認められるという言い方が正しいのかわからない。
だが少なくとも覚えられていた。
最後まで前に立った兵士として。
それは思ったより重い。
憎しみだけでは整理できない。
もし父が最後まで剣を向けた相手に、今自分が剣を教わっていると知ったら、何と言うだろう。
笑うか。
怒るか。
黙るか。
答えはない。
ネームタグを握る。
小さな金属が掌へ食い込む。
そして昼間の訓練を思い返す。
拳一発。
息も止まる衝撃。
影狼。
逃げるだけで全身が崩れる疲労。
だが不思議だった。
恐怖はある。
圧倒的すぎる。
なのに嫌悪だけが残らない。
あの場で見たユウは、ただ壊すだけの存在ではなかった。
ちゃんと見ていた。
一人ひとりの動き。
弱さ。
癖。
残った理由まで。
そして名前を呼んだ。
「……マーニ」
自分の名を、あの男の口から聞いた瞬間を思い出す。
胸の奥が妙に揺れた。
認められたわけではない。
だが、見られた。
ちゃんと。
それだけで何かが変わってしまう。
机の上へ鎧の欠片を置く。
その隣に隊章。
ネームタグ。
三つ並べる。
父が残したものは少ない。
形あるものはこれだけだ。
だが今日、もう一つ増えた気がした。
言葉だ。
最後まで前に出ていた兵士。
それは父の最後の姿だった。
誰も教えてくれなかった。
王都では死者は多すぎた。
一人一人の最後など埋もれた。
けれど、壊した側だけが覚えていた。
皮肉だった。
だが嘘ではないとわかる。
あの目は嘘をつく目ではなかった。
マーニは静かに立ち上がる。
窓を少し開ける。
夜風が入る。
遠くで復興工事の遅い音がまだ聞こえる。
王都は戻りつつある。
自分も前へ進むしかない。
ネームタグを布へ戻す前に、最後に一度だけ文字をなぞる。
「父さん……俺、少しだけわからなくなった」
憎むべき相手のはずなのに、
その背中から学ぼうとしている。
だがそれでも、
明日も訓練場へ行く。
迷いながらでも。
確かめるために。
父が最後に剣を向けた相手が、何者なのかを。
灯りを消す。
部屋は暗くなる。
机の上に残る鉄片だけが、月明かりで鈍く光っていた。




