第8話:白昼夢と耳鳴りと
花桜学園に広がる、奇妙な噂。“誰もいない教室からの声”“消えない人影”——。副会長・草野みよりの言葉に導かれ、紗雪の目の前に現れる“それ”とは?
翌朝。九重紗雪は、何事もなかったように制服に袖を通し、花桜学園の正門をくぐった。
(……なにか、おかしい)
校舎の空気が重い。
一昨日の夜、西棟の旧校舎で見た“それ”——縷々の影を奪った黒いもの——の記憶が、まだ体内に残っているようだった。
「おはようございます、九重さん」
ふいに声をかけられ、紗雪は振り向いた。
副生徒会長の草野 みよりだった。
白銀の眼鏡に淡い笑みを貼りつけた、冷静沈着な三年生。
「少し、お顔色が悪いようですね。最近、校内で奇妙なことが続いていますから……」
「え?」
「ほら、掲示板に貼ってあったでしょう? “廊下に立つ人影が消えない”とか、“誰もいない教室から声がする”とか。
どこかの一年生が、また『旧校舎の怪談』を流行らせているらしい」
紗雪は心臓が跳ねるのを感じた。
(それって……縷々が最後に書いていたことと、同じじゃない)
「草野先輩、その噂って、どこで詳しく聞けますか?」
「ふふ、さすがですね。九重さん。もし気になるなら……放課後、生徒会室に来てください」
彼はそう言って背を向けた。まるで最初から、紗雪がその質問をすることを読んでいたかのように。
その日。
午後の国語の授業中、紗雪の視界が急にぐにゃりと歪んだ。
——ざざざ……ざ……耳鳴り……?
(また、これ……昨日の“影”の直前と同じ——)
気づけば、教室の中で時が止まったように、誰も動かなくなっていた。教壇に立つ早乙女教諭までも。
ひとり、時間の流れから切り離されたような孤独感。息ができないほどの圧迫感。
(……誰?)
そのとき、黒板の前に立っていた“何か”が、紗雪のほうをゆっくりと振り返った。
顔がない。
ただ、白紙のような仮面が、こちらを見つめている。
「さ……ゆき……」
影のようなものが口を動かした。けれどその瞬間、現実が波紋のように歪んで、紗雪は机に突っ伏す。
「……九重さん? どうしたの、顔色が真っ青よ!」
クラスメイトの声に、はっと目を開けた。教室は元どおりだった。
時計の針は進んでいて、生徒たちは普通に授業を受けていた。
だが、ノートの余白に、誰かの手で殴り書きされたような文字があった。
『見たね』
その文字は、紗雪が記した覚えのないものだった。
教室での白昼夢、仮面の存在、ノートの『見たね』の文字。現実と非現実の境界が溶けていく中、紗雪は一人、名もなき存在の視線を感じはじめる——次回、真実の扉が軋み始める。




