ビビディ・バビディ・ブー
「満君……!」
目を覚ました瞬間、満は自分が見知らぬ個室にいることに気づいた。そこは高貴なワインレッドに彩られ、豪華で荘厳な木製レリーフと、複雑で華美な模様の壁紙に囲まれている。上質なコロンと本革の香りが妖精のように戯れながら漂い、心地よい芳香が鼻腔をくすぐった。間接照明の柔らかな光は壁の隙間や椅子の陰にひっそりと潜み、この部屋の落ち着いた雰囲気によく調和している。
美紀子は安堵した表情を浮かべると、思わず満を抱きしめた。「ようやく……また会えたね。」
義姉が突然姿を消した理由や、こうして再会できた経緯について、満には聞きたいことが山ほどあった。しかし、そんな思いは胸の奥へ沈み、彼もまた自然と抱き返していた。「姉さん……姉さん……」溢れる涙が頬を伝う。
傍らにいたアスモデウスも目元を潤ませていた。個室は薄暗く、眼帯を外したとしても誰も彼の表情をはっきり見ることはできなかった。
「悪魔……?」一同から現在の状況について説明を受ける中で、満が最も理解に苦しんだ言葉がそれだった。
自分は死んだ。
だが、「アスモデウス」と呼ばれる色欲の魔王に救われ、その力によって悪魔へと転生したのだという。
この場にいる者の多くも同様だった。悪魔と契約を交わし、その眷属となって仕えている者たちだった。美紀子もまた、かつてゴルフクラブで襲われた際に魂をアスモデウスへ拾われ、その眷属となった。その後、彼女は自らの人生を立て直しながら悪魔たちの社会へ身を置き、この街のどこかでひっそりと暮らしていた。
それでも、満の行方を探すことだけは決して諦めなかった。今の自分の姿で再会してよいのか迷い続けていたという。
だが運命のいたずらか、満もまた悪魔となった。
もはや二人の間を隔てる寿命という壁は存在しない。
「人間としての生活を続けることも可能だ。しかし、悪魔として生きる術も学ぶ必要がある。」そう口を開いたのは黒羽雨水という男だった。聞けば優秀な医師であり、医学界でもそれなりに名を知られている人物らしい。だが満には、どこかでその名前を見た覚えがあった。社会を騒がせた事件をまとめた本だったかもしれない。もっとも、今はどうでもよかった。彼が恩人であることに変わりはない。
美紀子が悪魔となった当時、彼女を導き支えたのも雨水だったからだ。現在、美紀子はこの施設にある接客クラブで働いているという。客と会話をし、飲み物を提供する仕事だ。人間社会では華やかな仕事とは見られないかもしれない。しかし欲望と野心が渦巻く悪魔社会においては、ごく穏当な職業の一つに過ぎなかった。
「それから、お前は悪魔社会で生きる術だけではなく、自分自身の力も鍛えなければならない。」雨水はそう言うと、自らの手元を示した。「私の真似をしてみろ。」
満は言われるままに集中し、手のひらの上へ意識を向ける。すると、手の中に緑色の光が現れた。渦を巻くように流動し、淡く輝いている。
「すごい……」満は思わず息を呑んだ。
「それが魔力だ。」雨水は静かに説明する。「だが残念ながら、私もお前の義姉も今はあまり時間が取れない。私は人間社会での仕事が忙しいし、立春も今は仕事が軌道に乗っている最中だ。長く付き添って教えることは難しい。」そう言って肩をすくめた。「だから当面は、自分で試行錯誤しながら学んでいくことになるだろうな。」
「いえ、私がお教えしましょう。」雨水の言葉が終わるよりも早く、低く艶やかな声が暗がりの奥から響いた。まるで舌の上で溶ける蜜のように甘く、それでいて隠しきれない傲慢さを含んだ声だった。
満はそんな声を今まで聞いたことがなかった。どれほど優れた歌手であっても、この声には及ばないだろう。
その場にいた者たちは自然と声の主へ視線を向ける。誰もが敬愛と服従の入り混じった眼差しを浮かべていた。まるで古の臣下たちが天子へ跪くかのように。特に雨水の反応は顕著だった。その瞳には子供のような純粋さが宿り、普段の冷え切った口調にもわずかな抑揚が生まれる。凍てついた冬が終わり、春が訪れたかのようだった。「ルシファー様。」
満はその名の意味を知っていた。
かつて経典の中で読んだことがある。神へ反旗を翻した存在。傲慢を司る悪魔。
満は思わず身構えた。本当に存在していたのか。それとも、ただ同じ名を名乗っているだけなのか。
やがて、黒いカーテンが静かに持ち上がる。そこから現れた人物は、声の印象そのままの美貌を備えていた。その立ち居振る舞いはあまりにも自然で、まるで長い年月をかけて形作られた絶景のようだった。作り込まれた美しさではない。最初からそこに存在していたかのような完成された美。それがかえって人々の羨望と嫉妬を誘う。
銀色の髪は童話に登場する銀糸よりも美しく、月光そのものを束ねたかのような輝きを放っていた。顔立ちは人間と同じ構造をしているはずなのに、彼だけはそのすべてが完璧な均衡の上に成り立っている。
どこにも欠点が見当たらない。まるで芸術作品だった。赤い瞳は磨き上げられた宝石を思わせる。しかし誰もが理解していた。彼の価値は宝石や黄金などでは測れない。
口元に浮かぶわずかに狡猾な笑みさえ、人々を魅了してやまない。それは帝国の皇帝にも、長い歴史を誇る名門貴族にも似た風格だった。
満は思わず見惚れていた。視線を外すことができない。
まるで美術館で本物の名画を目の当たりにしたような感覚だった。経典の記述と一致する部分も確かにある。だが実物は、その記述さえ控えめに思えるほどだった。
ルシファーは満を見て微笑む。「私は、彼を一目見た時から気に入っております。」そして迷いなく言い切った。「彼は間違いなく、最強の悪魔の一人となるでしょう。」
信仰心の強かった満は、当初その言葉を素直に受け入れられなかった。何よりルシファーという男はあまりにも突然現れた。
もっとも、満を本当の意味で救ったのは彼だったらしい。ただし満の資質は、色欲の悪魔としての性質に適していた。それにもかかわらず、ルシファーは満を弟子として引き取ることに強いこだわりを見せた。
不思議なことに、現在に至るまで傲慢の眷属は雨水以外ほとんど存在しないという。それもまたルシファー自身の性格によるものだと聞かされていた。もし彼が望むなら、自らの眷属を増やす方がはるかに効率的なはずだった。傲慢の悪魔を数多く従えていた方が、何をするにも便利なはずである。それなのに、彼は積極的に傲慢の眷属を作ろうとしない。
なぜなのか。その理由を満がうっすらと理解し始めたのは、ずっと後になってからだった。
満は校門のあたりからそっと頭だけを出し、周囲をうかがうようにしていた。しばらくきょろきょろと辺りを見回し、ようやく安心したように息をつくと、そのまま新しく知り合った客の家へ逃げるように向かおうとした。その瞬間、襟首を強くつかまれる。「今日も訓練をおさぼりになろうとしておられたのですか?」」ルシファーの声に、満は思わず肩を震わせた。「どうしてそんな急に現れるんだ……!?」
「それはつまり、私の察知を完全に逃れて離脱しようとなさるには、まだ早いということです。」そう言うと彼は、周囲の視線をまったく意に介さず、満の手を引いて歩き出した。「さあ、行きましょう。時間を無駄にするわけにはいきません。」
「痛い!耳を引っ張らないで!」
周囲の学生たちは、あまりに高貴で、まるで別世界の住人のような人物が、なぜ満のような存在に執着しているのか不思議そうに見ていた。彼らにとって、満はそのような人物と釣り合う存在には到底見えなかった。
満もまた、内心では疑問を抱いていた。誰であれ、自分に近づいてくる者は必ず何らかの目的を持っている。慰めを求めてくる者もいれば、若い肉体を欲する者もいる。あるいは、従順さを利用しようとする者、金を引き出そうとする者もいる。だがルシファーだけは違った。
彼は満から何かを奪おうとしない。むしろ、何かを欲している様子すらない。目の前のあらゆるものを見下ろしているかのように、何にも執着していなかった。それどころか、地位も権力も富も、彼は満に無造作に与えることはしなかった。
彼の教えはいつも一貫している。「真に価値あるものを得たいのであれば、必ずそれに見合う代価を支払わねばなりません。」
真に価値あるもの。
満はその言葉の意味を理解しているつもりだった。これまで自分が差し出してきたもの——苦労して得た金、若さ、身体。それらが価値あるものではないとでも言うのか。
ルシファーはまるで順風満帆な人生を歩んできた者のようで、この世の苦しみを知らないからこそ、そんな言葉を軽々しく言えるのだろう。泥沼の中を歩いている者に向かって、「なぜ橋を使わないのか」と言うようなものだ。あるいは、ワニに食い尽くされた死骸を見て、それを「安全に渡れる道」だと言い張るようなものだ。
地獄を統べる魔王——ルシファーには、最初から心など存在しないのかもしれない。
だからこそ、自分の言葉の重みも理解していないのだろう。そして、きっと自分のことなど最初から取るに足らない存在として見ているのだ。ただ手の中で転がすだけの玩具。
いずれ飽きられれば、それで終わりだ。
その時こそ、本当の自由が訪れる。
そう思っていた。
それでも満は、抑えきれずに問いかけてしまう。「あなたは……私のお金や……身体には興味がないの?」本来なら口にすべきではない問いだった。だがどうしても抑えられなかった。
自分の価値とは何なのか、それを確かめたかった。まるで、自分が中東の石油のように、奪い合われるほど価値のある存在であるかのように錯覚していたのかもしれない。そして、試すように距離を詰めた。しかしルシファーは即座に顔をしかめ、満を軽く押し返す。「私は同性愛者ではありません。」その一言はあまりにも淡々としていた。その後、ルシファーは満に対して一ヶ月近く距離を置くようになった。
ルシファーは実はずっと、満が自分の境遇について自嘲することに不満を抱いていた。戦闘訓練という名目で何度も容赦なく叩きのめした結果、満はそのことをあまり口にしなくなっていた。あの問いを投げかけてから一ヶ月ほど経った頃、満はやや張った声で彼に確認した。「明らかに俺のそばにいた人でも、『自分は同性愛者じゃない』って言いながら、結局俺と関係持った人がいたんだけど――」
ルシファーは心の中で叫んだ。「どうしてそんなに大きな声でおっしゃるのですか……? そのような、節操のない者や、状況に流されるような方々の評価など、取るに足りないものです……」その言葉を聞いた満は、長い沈黙に沈み込み、返答できなかった。
「それともあなたは、そういった状況に流される方々の方が強いとお考えなのですか?」ルシファーの問いかけに、新しい価値観が突き刺さり、満はますます言葉を失った。
強さとは何か。強大さとは何か。彼はこれまで一度も考えたことがなかった。
生まれたときから、自分は搾取される側の存在だと知っていた。ただ弱いまま、その食物連鎖の底辺にいればいいと思っていた。時間が経てば、蟻でさえ自分を噛むことができるようになる。
しかしふと、長く縮こまっていた身体を伸ばし、空を見上げる。そこには井戸の底にも、確かに光が差していた。わずかな光であっても、それは天の光だった。
「真の強さとは、人に『かっこいい 』と思わせるものですよ。」そう言うとルシファーは、手にしたボールを鋭く放った。空気を切り裂き、火花すら散らすような一撃だった。受け止めきれなかった満は、そのまま地面に叩きつけられる。
その日の訓練も、強制的に終了となった。
最初にルシファーと訓練を始めた頃から、いつもこうだった。十分以上続いたことはない。それも最長記録は十分で、その日はルシファーが寝起きでまだぼんやりしていたから成立しただけだった。倒れたまま、満はなお考えていた。自分は本当に、身体のすべてであの光を受け止められるのか。
やがて彼は新しい世界を理解しかけながらも、意地になって叫ぶ。「うるさい!」そう言いながら無理やり体を起こし、美紀子のいる仮住まいへ走って戻った。
背後でルシファーが手を振る。「明日も同じ時間に集合なさいませ――」
満は長い間、ルシファーを受け入れることができなかった。正確に言えば、受け入れたくなかったのだ。
もしあんなに簡単に光が降り注ぐのなら、あの時の自分はいったい何だったんだ?
「ルシファー!」甲高く、焦った声が、まるで発光する水母の群れの中にいるかのように、幻想的な光で満ちた酒場全体に響き渡った。海中を漂うように揺れるその空間で、ルシファーはウイスキーを口にする手を止め、女たちに囲まれた状態から顔を上げた。そして未成年であるはずの満と目が合う。満は苛立ちを隠さず怒鳴った。「あなた、こんなところで何をしてるんだ……!」
ルシファーは女の腕からそっと手を離し、財布の中身を確認すると、そのまま全額を彼女たちに渡した。
「では皆様、本日は長い時間お付き合いいただきありがとうございました。」
満は呆然とした。その金は、自分が必死に稼いだ金だった。尊敬も礼儀も忘れ、満はルシファーの襟を掴んで怒鳴る。「てめぇ、俺が汗水流して稼いだ金でこんなとこ遊びに来てんのかよ!」
ルシファーは涼しい顔で言った。「そのお金をずっと持っていても仕方ないでしょう。それにこれは酒代です。彼女たちはただ同席しただけにすぎません。さらに、路上の方々にも少し寄付いたしました。私はあなたのために功徳を積んでいるだけです。」紅玉のような瞳には、わずかな光が差し込んでいた。まるで仏のような慈悲を湛えた表情だった。
「功徳だと!?ふざけんなよ……!」言い終える前に、ルシファーは軽く身をひねり、満の手をすり抜けるように離れた。まるで手品のようだった。「ではお腹が空きましたので、ラーメンでも行きましょうか。」そう言い残し、何事もなかったかのように出口へ向かう。
「待てって!このクソ野郎!」満は必死に追いかけたが、どうしても追いつけない。ラーメン屋に着いた頃には、満はすでに息を切らし汗だくになっていた。しかしルシファーは一滴の汗もかいていない。
彼は常連らしく、店に入るなり店主に声をかけられた。「いつものですか?」
「はい、いつものをお願いします。」満は毎回こうしてルシファーに付き合わされ、疲れ果てていた。そのせいか、いつの間にか体力だけは少しずつ鍛えられていた。
最初の頃、満はこの店に入るのを嫌がっていた。ラーメン特有の重い油の匂い、特にニンニクの臭いが苦手だったからだ。以前の仕事で関わった客たちの口臭もそれに近く、満はその記憶を思い出しては吐き気を堪えていた。彼らに抱かれているとき、自分の身体までがスープに漬け込まれた叉焼のように思えてくる。逃げ場もなく、ただ味付けされていくような感覚だった。だから最初は店の外で待っていた。やがて我慢できず店内に入るようになり、席には座るものの注文はせず、ただ彼らが食べ終わるのを待つだけだった。メニューすら開かなかった。
後になって満は、ルシファーが連れて行くラーメン店のラーメンが、ほとんど重すぎる味付けではなく、油煙もずっと顔に吹きつけてくるようなものではないと知った。ルシファーは濃い味を好むが、満と一緒のときは自分の嗜好をそれほど押し通さない。悪魔としての読心能力のせいか、満の傷を不用意にえぐるようなこともしないし、満の金を使うのも、どうやら満をそういった場所や人間から遠ざける意図があるらしかった。
山盛りの唐辛子をかけて豪快に食べるルシファーを見ながら、満は少しだけ彼に対する見方を改めていた。さらにルシファーはラーメン店だけでなく、満の意見を聞いてファミリーレストランや、もっと女性客の多いカフェにも連れて行った。この前は満が冗談で、ほとんど女性しか来ないクレープ店に行きたいと言ったところ、ルシファーは本当に連れて行き、大量のクレープを遠慮なく注文して食べていた。
ルシファーは長身で容姿も整っており、多くの女性客や店員の視線を集めていた。その視線の中で、満はせいぜい一皿ほど食べただけで、残りはルシファーが平らげた。
体を売っていた頃の客たちも、時折こちらの意見を聞くことはあったが、それはすべて身体を差し出すことが前提だった。だがルシファーは違い、ただ訓練への出席だけを求める。彼は本気で満を育てようとしているようにも見えた。しかし満の中では、まだ彼への信頼は完全には築かれていない。世界を見渡せば、すべての悪魔を統べるサタンが、本当に自分のような取るに足らない弱い悪魔を気にかけるはずがないと思っていた。
「それ、召し上がらないのでしたら、私がいただきますよ。」考えている間に、ルシファーはパフェを奪っていた。
「返せ!それ俺の金だろ!」満は叫んだ。
それでもルシファーは、これまで満が接してきた客たちよりもなお不確かな存在に思えた。彼はしょっちゅうパチスロを打ち、時には裏社会の連中に絡まれ、買った宝くじも数十円しか当たらない。いつも金欠で、酒を飲めばすぐに何本も空け、最後には路上に放り出されている。知れば知るほど、地獄のサタンらしい威厳も風格もない男だった。
確かに、気に入らなければ一瞬で自分を叩き潰す力はある。だが人として尊敬されるのは、やはり性格の方だ。満はどこかでルシファーを軽く見ていたし、他の悪魔たちもまた彼を侮っていた。彼の性格は、遠回しに言えば「近寄りがたい」と言うしかないものだった。
満が本当にルシファーへの見方を変えたのは、ある出来事の後だった。
家を離れた後、満は美紀子と一緒に暮らしていた。最初、満は援助を失った養母と弟がどうなるのか心配していたが、美紀子はすべて任せろと請け合った。
実際、かつて自分を見下し、虐げていた相手であっても、金さえ渡せば態度は一変し、むしろ丁重に扱うようになった。美紀子は過去に受けた屈辱を忘れておらず、冷笑と皮肉、言葉による仕返しを存分に行い、相手が黙り込むまで追い詰めてから満足げに帰宅した。
美紀子の仕事は順調そのもので、金も有り余るほど稼いでいた。家庭への援助金など、彼女にとっては気にも留めない額になっていた。
それでも満の目には、ルシファーのやり方はやや強引に映っていた。なぜ正常な生活を送らせるために、自分の金まで使われなければならないのか。それは本当に「自分の稼いだ金」と言えるものなのか。さらに、ゆっくり返すなどと言われても、そんなこと満にできるはずがなかった。
満は目の前のわずかな利益のために搾取され続けること自体には、特に抵抗を感じていなかった。もともと自分は常に弱い側にいる存在だと受け入れていたからだ。それに、もしこのまま光のある場所へ進んでしまえば、歩美が怒るかもしれない、そう考えると、どうしても自分を許せなかった。
「……そういうわけで、もう弟子はやめだ。」
その時、ルシファーは悪魔が人間界に構える秘密の拠点の屋敷で書類を処理していた。だが彼は、満が来ることを最初から予測していたかのように、すでに準備を整えていた。
ルシファーは言った。「私に見込まれて弟子になれる機会というのは、誰にでも与えられるものではありませんよ?」場の空気を和らげようとするかのように、彼は窓の外へ視線を向けた。そこには春と夏の狭間の季節が広がり、若い緑が木々や草原を覆っていた。それはまるで夏の女神が目を開き、風や葉と戯れようとしているかのようだった。彼は白酒を一口、喉を潤すように飲み、続けた。「黒羽君に関しても、私は力を与えただけで、その後は彼自身に任せておりますので。」
「構わない……それに、最初からあなたの弟子になるなんて一言も言っていない。」満は冷たくそう返し、そのまま扉を押して出て行こうとした。「これまで世話になった。感謝している。」
しかしルシファーからは、それ以上の反応はなかった。満は、意外にも執着しない人間なのだと思った。
大屋敷を出ると、四月の終わりの陽光はすでにぬるいどころか肌を焼くほどに強く、当たれば痛みすら感じるほどだった。少し歩いただけで汗が珠のように次々と流れ落ち、衣服の一部を濡らしていく。不快そうに頭上の光を遮ると、一瞬、水中に沈んだような、海流の中を漂うような歪んだ風景が見えた。
大屋敷の隣には、小さく整った造りながらも人の気配のない住宅がいくつか並んでいた。こうした人通りの少ない静かな場所は、悪魔の密談には確かに適している。
そして、こういう場所であれば、犯罪が起きても気づかれにくい。
夏の暑さで気だるく歩いていたその時、満は突然強く抱きかかえられ、口と鼻を塞がれた。悪魔になったとはいえ、身体に染みついた無力感は抜けきっておらず、魔力をうまく使うこともできないまま、力ずくでどこかの住宅へと引きずり込まれる。
扉は半開きのままだった。犯人は誰も来ないと高を括り、満を嘲笑っている。
客間の天井だけが覆われておらず、真昼の陽光が堂々と差し込み、満の無力な姿を覗き込むようだった。
男は無理やり満の服を引き裂きながら、ぶつぶつと呟いた。「満……会いたかった……どうして来てくれなかったんだ……」
荒い息には強いニンニクの臭いが混じり、隠しきれない体臭と汗の匂いが混ざり合い、満は吐き気を堪えきれなかった。男は満の頬を掴み、無理やり口づけを強要する。さらに濃厚な臭気が押し寄せ、まるで十万の軍勢に蹂躙されるようだった。胃の中が激しく逆流し、視界が揺らぐ。蒸し返すような熱気と湿り気が肌にまとわりつく。
この客とは衛生観念が合わないから、もう連絡を取らないようにしていたのに。
このまま気を失えた方が楽かもしれない。
午後の陽光は一瞬だけ雲に遮られ、空は灰色に沈んだ。まるで空そのものが不機嫌になったかのようだった。白く濁った光が室内に差し込むが、それでも満には届かず、世界はただ冷たく沈んでいく。肥えた男がのしかかり、視界から光は消えた。世界は灰色一色だった。
そのとき満は悟る。自分の世界はとっくに灰色だったのだと。そこには救いのような黒もなく、希望のような光もない。ただ中途半端に濁った現実だけが広がっている。
満は疲れたように目を閉じた。ただ、せめて次の痛みがあまり激しくないことだけを願っていた。
「マクドナルドのハッピーセット!!!」という、場違いな声が響き渡った。
天井の陽光が突如として弾け飛び、床に落ちて果汁をこぼした果実のように、運命のベリーが砕け散る。
ガラス片が嵐に吹き散らされた果実のように次々と落下し、そのいくつかが男の肌をかすめ、男は痛みに顔を歪めて血を拭った。
満は乱れた衣服のまま立ち上がり、信じられないものを見るように、再び鮮烈に輝く光を見上げた。まるで世界が初めてここまで明るくなったかのようだった。
その光の中にいた男は、むしろ光を生み出す太陽そのもののように見えた。なぜか祝祭めいた赤いマクドナルドの箱を手に持ち、楽しげに言う。「マックフィッシュバーガーをご注文の方はいらっしゃいますか?」
理性を失った男は、突然現れたルシファーを見てさらに激昂し、隠し持っていたナイフを振りかざした。従わなければ満に刃が向くかもしれない、満は思わず唾を飲み込む。
しかし人間を遥かに超える力を持つルシファーは、その一撃を軽々と避け、素手でナイフを奪い取った。そして無駄のない動きで相手を追い詰める。完璧な剣技で男を後退させるが、相手には一切致命傷を与えない。実戦経験のない男はすぐに息を切らし、膝をついた。そこへルシファーが一歩踏み込み、男は地面に崩れ落ちる。ナイフを突きつけられ、完全に動きを封じられた。「ナイフも剣も、私の得意分野でしてね。あなたは運が悪かったですね。」そう言いながらもルシファーはそれを振るわず、あっさりと放り捨て、代わりに拳を一発叩き込む。男はそのまま倒れ伏した。
ルシファーが来た。なぜ危険を察知できたのか。やはり彼の予知能力なのか。
だが何よりも満を驚かせたのは、彼が来たことだった。自分が助けを求めたわけでもないのに、彼はここに現れ、救ってしまった。
どうして、こんな出来損ないの自分を助けるのか。一体何のために。
ああ。
もしかして、ルシファーがいつも口にしていた「強さ」とは、こういうことなのか。
人を助け、その結果として、より「かっこいい自分」になること。ルシファーは、そういう価値観で自分を鍛えているのだろうか。
涙は、うつむいた顔からさらに早く地面へと落ちていった。もう「大人の男」になったのだから泣かないはずだと、どこかで思っていたのに、結局、自分はまだ簡単に心を揺さぶられてしまう。
悔しい。恥ずかしい。羨ましい。
たぶん一生、あんなふうにはなれない。やはりあの男は、太陽のほうを向いて生きている。二人は最初から違う世界にいて、どこまでいっても完全には分かり合えないのだ。
「立てますか?」ルシファーが手を差し出した。満は一瞬、呆気に取られる。そこまで必要なのか、と。それでも、先ほどの出来事で力の抜けた身体は、その手を拒めなかった。
二人が外へ出ると、いつの間にかアスモデウスが大勢を率いて現れていた。衣服の乱れた満、力の抜けた四肢、青ざめた顔色、それを見たアスモデウスでさえ、珍しく上着をかけてやり、「よく頑張ったね……もう大丈夫だよ。」と声をかける。
一行は屋内へ入り、男は引きずり出されていく。正気を取り戻しかけた男は満を見て暴れようとするが、すぐに取り押さえられた。「とりあえず警察へ。」
遠ざかっていく背中を見送りながら、アスモデウスも報告のために同行していく。
ルシファーはというと、マクドナルドの箱からコーンスープを取り出した。「飲みますか?」
触れればまだ温かい。
......どうしてここにマクドナルドがあるんだ。そう突っ込みかけた言葉より先に、涙の跡が見られてしまっていた。
「泣いているのですか?」わざとらしいほどの声だった。
「大きな声で言うな!」満は顔を隠そうとするが、もう遅い。
「何に対して泣いているのですか?」ルシファーはなぜか楽しげに笑った。すべて分かっているような顔だった。怒りをぶつけようとした満より先に、ルシファーが言う。「悔しいと思えたのでしたら、それで結構です。」
満は言葉を失う。
「『かっこいい人』というのは、目の前の状況に対して、きちんと悔しがることができる方のことです。」ルシファーの言葉は、完全な正論ではない。だが、どこか妙に刺さるものがあった。
心の最も深いところが再び揺さぶられ、満は涙を雨のように流しながらうつむいた。ルシファーにこれ以上みっともない姿を見られたくなくて、顔を隠すようにして泣き叫ぶ。「そうだ……俺、ずっと悔しかったんだ……!」
「歩美を守れなかった……俺が弱いせいで!自分すら守れなかった……俺が弱すぎるせいで!俺には何もない……ただ痛みと引き換えに生きてるだけだ!俺のせいじゃないのに、ずっとこんな苦しみを飲み込むしかなかった……!」再び力なく地面に崩れ落ち、嗚咽が続く。「死ぬことすらできない……」その言葉は、止めどない泣き声へと溶けていった。長い日々の理不尽と苦痛は、涙となって流れ出し、やがて視界の果てへと消えていく。
「もっと泣くといいですよ。」ルシファーは満の背中を軽く叩きながら言った。「あなたは、必ず最強の存在になれますから。」
それからというもの、満はルシファーの訓練を抜け出そうとしなくなり、言うこともよく聞くようになった。以前よりずっと素直になったが、それを本人は認めようとはしなかった。
ルシファーはというと、ちょうどいい距離感で熱を見せたかと思えば、まるで「おやすみ」と送ってから一週間後に「起きている」と返すような、冷たいのか優しいのか分からない態度を取ることがあった。
「私を神のように扱わないでください。私は神ではありませんよ。」そう言う。
しばらくして、満はルシファーから手作りのイヤリングを受け取った。
満は不思議そうに尋ねる。「これは何ですか?」銀のようでありながら、宝石のような微かな輝きを帯びたそれは、地獄特有の素材でできているようだった。羽の形をしたイヤリングは、満の普段の服装とは少し違っていた。
ルシファーは手元のカフェラテを一口飲み、言う。「あなたへの報酬です。そろそろその段階かと判断いたしました。」
満はそれを手に取り、しげしげと眺める。
「まさか、あなたほど器用だとは思いませんでした。」ルシファーは得意げに顎に手を当て、制作の説明を始めようとしたその時、満に遮られる。「……あ、瑕疵がある。」
「なに?!」傲慢なるルシファーは、自らの過ちを指摘されることも、それを挑まれることも許さない。
「冗談ですよ。」
「あなたはね……」
「普通の装飾品ではない、ということですね?」
「その通りです。武器という概念で作られたイヤリングでございます。ただし、それがどのような武器へと変化するかは、あなた次第です。私はこのイヤリングに特定の概念を固定してはおりません。」秋の陽光は弱く、ルシファーの身体に薄い影を落としていた。それはまるで、芝麻風味のクリームのように淡く重なっている。
満は嬉しそうに尋ねた。「本当に、私にくださるのですか?」
「あなたに差し上げる以外に、誰がいるとお考えですか?」
満は内心の喜びを必死に抑えながら答える。「……ありがとうございます。大切に使わせていただきます。」
「ですが、現状のあなたの実力では、使いこなすまでにまだ時間がかかるかもしれませんね。」ルシファーは何気なくそう告げた。
満は思わずよろける。「そんな冷たいことは言わないでくださいよ!」
満がルシファーから贈り物と評価を受けたことを知ると、美紀子はまるで自分のことのように喜び、今にも飛び上がりそうな勢いだった。
「それでね!ルシファー様って、別の弟子にも武器を贈ったことがあるらしいの!詳しくは分からないし相手も誰か知らないんだけど、それだけ特別に認められてるってことだよ!」そう言うと、美紀子は勢いそのままに満を耳穴を開けに連れて行った。
イヤリング用のピアスホールはかなり痛く、満はしばらくの間ずっと痛みに耐えることになった。
彼は、自分はすでにルシファーを十分理解していると思っていた。これまでにルシファーの周囲にいる多くの大物たちにも会ってきたが、「ルシファーの弟子」と噂されるその悪魔だけには、満は一度も会ったことがなかった。
ルシファーもそのことについて説明しようとはしなかった。もし遠くにいて会えないだけならまだしも、なぜ説明すらしないのかが分からない。こうしてはぐらかす態度からして、満の経験上では、二人の間に何かがあり、最終的に決裂したのではないかと思えてしまう。ルシファーの性格なら、むしろ決裂の方が自然にすら思える。しかし満は、その疑問を真正面からぶつけて尋ねることはしなかった。ルシファーが自分の過去を深く語らないのと同じように、自分もまた相手の心の一部を踏みにじるような真似はしないと決めていた。
あの会話を耳にするまでは。
そこで彼は、少しだけ理解した。ルシファーの弟子であり、自分にとっては師姉にあたるその悪魔は、かなり早い段階でこの世を去っていたらしい。同じく「色欲の罪」を背負う存在だったという。ルシファーも彼女を高く評価していたが、彼女は不慮の理由で若くして命を落とし、それはルシファーにとって数少ない後悔の一つになっているのだという。
そして、自分はどこか彼女に似ている。
満は不機嫌そうにそう考えながら、悪い方向には考えまいとした。
秋が過ぎ冬が来て、爽やかな秋晴れはいつの間にか冷たく乾いた北風に押し流されていた。紅葉した葉は枝を離れるか、地面に沈み、再び生命の循環へと還っていく。窓や街路は霜に覆われ、それはまるで冬の梅の花のようだった。雪が降るのはまだ少し先のことらしい。
この町の人々はすでに秋物をしまい込み、厚手の冬服に身を包んでいた。まるで『北風と太陽』の旅人のように、皆がコートを固く握りしめ、寒さから身を守っている。吐く息は白く、時間とともにその色さえ濃くなっていく。
そんな冷え込む日々の中、マモンは大邸宅の暖房設備を管理し続け、屋敷の中はまるで台所のように暖かかった。皆の吐息も自然と柔らかくなる。内心でその手際の良さを評価しつつ、ルシファーは温めた甘い酒を用意していたが、棚の中にはもうほとんど残っていなかった。軽食は自分で用意しているため、それはマモンの責任ではない。
「損をした」とでも言いたげに、最後の一口を味わっていたその瞬間、隙間から入り込んだ冷気が酒を一気に冷ましていく。
誰かが戸を開けっぱなしにしたせいで風が入り込んだのかと腹を立てかけたその時、場違いなほど明るい笑顔の満が現れた。しかも全身血まみれで、何故か頭から血を流した老人を引きずっている。
ルシファーは信じられないものを見るように彼を見つめたが、満はまるで意に介さず、喜びに満ちた声で言った。「ルシファー、復讐してまいりましたよ!」そして老人を勢いよく床に放り投げる。「ご紹介いたします。こちらが私の父親です。正確には義父にあたります。」




